本文の前に。個人的な事情だが、過去に無意識と主体性との研究をして中途で断念した経験がある。俗に、他人に説明するには他人の3倍理解していなければならない、という。だが深淵の向こう側を覗ききっていない状態なうえで感想を書いちゃった…ということを了承してくれたら嬉しい。
風呂に菌を入れて健康になる。こんな理想を目の当たりにして不意に思い起こされたのは、ある時期ネット上で結構喧伝された「マコモ風呂」という民間療法である。簡単に言えば、真菰というイネ科植物の粉末・液を湯水に混ぜてマコモ菌を発酵させ、これに浸かることで皮膚炎などの症状を改善させることを目指す。また、真菰を入れれば湯が腐らず、下水に流してもむしろ川を浄化して環境問題に貢献する、と宣伝する。このポジティヴ情報だけあればオーガニストが「いいことを聞いた」を喜ぶかもしれないし、今でも浴用マコモという商品がAmazonで売られている。
だが…湯がずっと腐敗しないということはあるのだろうか。人によっては数か月湯を替えない人の体験談、マコモ風呂に入浴した翌日の残り湯の臭気と色に毒素が体外に出たさまを見て取って喜ぶ人の体験談がネット上にある。それは毒素の臭いではなく腐敗臭とバイオフィルムだと思う。体の具合いが好転したなら、マコモ風呂よりも自分の免疫力と常在菌の強さにどうか感謝して欲しい。さらには真光元と称する物で死者が出た宗教団体が裁判で訴えられるという事態も起こっているので注意しなければならない。
マコモ風呂の話は疑似科学だ。先述したように民間療法なのであって、医学的な裏付けはないし作用機序もわかっていない。下手すると医師法に反する。ところが、怪しい自称科学者が「風呂に菌を混ぜてより良い菌を常在させれば健康になれるし環境問題にも貢献する!」と言い始めたらヤバいと思うが、もし世界的に評価されている投資者を連れる学術機関の職員が書類を持って同じ話をされたら同じくヤバいと思うだろうか。一休禅師の逸話だが、ボロい衣を着たまま長者に布施を乞うたら追い払われた、そこで立派な袈裟に着替えて再訪問したところ篤くもてなされたため、この家では人より衣が偉いと言って袈裟を上座に置いて帰ってしまったという。同じくトルコのホジャおじさんの逸話にせよ、やはり人は見かけとか権威などの情報で自分の意思を変更してしまうものである。
いい加減、物語の話をしよう。
この物語の面白みを与えているのは二つの線だ。まず獅子角のもたらす菌の話。獅子角とは半端ない投資家だ。大学講師を務める江戸里に、皮膚常在細菌がビジネスチャンスであることをデリカシー無くプレゼンする。二十四時間風呂に細菌浴剤を入れて入浴することで健康になり環境問題にも貢献させる、そんな事業の実験を江戸里のゼミ生をも巻き込んで行おうとする。有能な暴風のような存在からもたらされた菌の話が、明晰な中間管理職の疲労と冷めた女子大生らの視線を伴ってコミカルに話が進んでいく。そして江戸里のもたらす政治的意思決定の話。時にゼミ生に思考実験をさせながらという形で、時に様々な人間模様の関わりの中という形で、人間や集団の意志決定というものがどれほどあやふやなものであるかが語られていく。皮膚常在細菌が他者に悪影響を及ぼすことが科学的に立証された場合の倫理を考えかける。ここではまだ、江戸里は獅子角と女子大生の扱いにあたふたしていた。
だが後半になると、事態が思わぬ方向へ進むとともに、各要素がそれまでとは違った雰囲気を呈するようになる。冷めた視線な女子大生は事態を把握しようとどんどん熱くなり、有能な暴風はハード面での無駄ない頼もしき主導者になり、明晰な中間管理職は身を挺してでも事態の収拾を図る勇気ある交渉人になっていく。この変化が面白い。
ところでこの物語、菌に右往左往された人の顛末談というインパクトに隠れてしまい易いが、二つの線とは別にとても大事な物語の線が、後半から明確に立ち上がっていく。人間の意識と判断の話だ。
第16話に出てくる実験というのは、補足すると次の事である。アメリカの神経生理学者リベットによれば、人間は行動を起こす直前に頭頂葉に運動準備電位という活動が起こるのだが、「~しよう」という思いを意識した時刻と運動準備電位が起きた時刻とを比べてみて、意識と体との時間差を調べた。結果、運動準備電位が起こった約0.35秒後に「~しよう」という思いが意識され、その0.2秒後から体が行動を始める事が判明した。つまり、体が今後の行動を決定し準備した後で、意識がその決定を追認する、という順番だったのである。
デンマークの科学評論家ノーレットランダーシュが『ユーザーイリュージョン』で考えるところによれば、(かつてジュリアン・ジェインズが『神々の沈黙』で言ったように)意識は人間が後天的に獲得した、脳というハードウェア上で起動する、人間に幻想を体験させるためのソフトウェアのようなものだ。意識が体を動かすというのは脳の機能によって体験させられている錯覚で、体の持つ生理機能こそが意識という幻影の創造主、なのだそうだ。
しかし、例えば刑法では自由意思が自律的に行動を制御するという自己責任が有ることを前提にして裁判を執行するように、確立された自己を前提にする人間観は江戸里のやる政治ゼミを振り返るでもなく、人間社会にそうあるものとして置かれている。人間個人にしても、無意識の中の様々な感情や衝動を意識が完全受容し制御するというのは、例えば通り魔殺人や万引きなど人間の犯罪史を思い返すに、困難であるのだろう。
再びノーレットランダーシュを引き合いに出す。社会の中で健やかに生きるためには、まず意識がユーザーイリュージョンであることを確認したうえで、意識が体を理性的に制御するべきとする固定観念から自由になるとよいと言う。全て制御出来る訳ではない体を信頼し、『日月神示』っぽく言うと「抱き参らせる」そういう態度が鍵なのだ。
菌というのは体に属する。アメーボゾアにある粘菌(正確に言えば変形菌)は無駄のないネットワークで互いが繋がり合う、という宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』で見たような意志在るかのような菌がありはするが、でも今の科学では菌の意識なんて言うものを翻訳することは出来ない(石川雅之の『もやしもん』沢木が居たら別だろうが)。獅子角が言うには、万人それぞれにとって有害な菌と無害な菌は違っているから無意識に個人は相手を選別する。見かけとか権威などの情報で態度が変わると書いたが、一休が初めに着ていた衣と次に着た袈裟とではもしかすると違う常在菌が居たから反応が変わった、という新説が出てきたらそれはそれで興味がある。まぁ実際に菌が体の思いの一端であるにしても、意識が先行する観念を妄信するでもなく、体の我儘に忠実でもなく、上手い距離感で付き合ってゆけばいいだろう。
物語は、人間集団の意思決定というマクロな話が、自分自身の意思判断や菌の判断というミクロな話と交接し編まれて進んでいく。最後まで、なるほどね、と口にできるような話が散りばめられている。一見すると無駄に見えるような話も、実はそうではなく後半を理解するための点であることが解っていく。なので前半で飽きずに読んで行って貰いたい。