第32話
結局。薬が出来るまでの五日間、私は熱を発して寝込み続けた。
古海君は根菜とセロリが山盛りになった料理を私に振る舞ってくれたが、なぜか私の味覚は変化しておらず。あまりに筋張ったそれを食べ続けるのは拷問とまでは言わないものの、立派なハラスメントに該当すると思わざるを得なかった。遺憾ながら、その事実を伝える機会はついに無かったが。
薬の投与が開始されてから一週間後。
腸内状況の検査の結果、私達はやっと外出を許された。
夏休みで良かったと本当に思う。
古海君の帰省にも、なんとか間に合いそうだった。
「先生、食べられます! 食べられますよ!!」
ハンバーグを一口含んだ古海君が感動の声をあげた。
昼下がりのレストラン。一緒に来るはずだった狩尾君は、用事だとかで直前に欠席を伝えてきた。はめられたのかも知れない。
私も肉を口に入れてみる。久しぶりのまともな食事は、感動するに値した。
懐はそれなりに暖かい。
獅子角は約束通りの日給を全員に支払った。私達の治療期間を含めて。
あまりの高額に二人は戸惑っていたが、詫び料だと思って受け取るように私は言った。万が一再発した際にも対応すると獅子角は請け負った。私はその口約束を信じている。
私はふと、ここに来る直前に獅子角と交わした会話を思い出す。
殺菌消毒された家が、目の前で解体されていった。
費用はこちら持ちという条件で、所有者に強引に承諾させた結果だ。あの書斎はなんとも惜しいと思ったが、致し方ない。
「経過は順調なようだな」
「ああ。薬の服用はまだ必要だが、周囲に感染が広がる危険はまず無いそうだ」
「今回の研究はなかなかに有意義だった。掛けた費用には十分に見合う物だったと言えるぞ」
私は苦笑してそれに応じる。
「あの細菌はどうするんだ?」
「江戸里のケースでは味覚が変化しなかったのだろう? それではあまり意味は無い。ああ、一応保管はしてあるから、もし世界に革命を起こしたいと思ったら声を掛けろ」
にやりと笑った獅子角に、私はバツの悪そうな顔を向ける。
「妙なことを口走ってしまったな。どうにもあの時は、昔の頃のような気分になってしまったよ」
「別に構わんだろう。むしろ結構なことだ」
私はあの日以来、頭に染みついた疑問をぶつけてみる。
「あの言葉を発したのは、一体なんだったんだろうな」
世界を変えてみたいという欲望。それを発したのは何だったのか。
私の体内にある細菌、身体の各所にある細胞、それらのどこから出て来た言葉なのか。
しかし獅子角はあっさりと言った。当然のように。
「江戸里、お前の意識が発したものに決まっているではないか」
私は面喰らい、そして聞いた。
「おいおい。意識は肉体が出した結果を追認するだけなんだろう? だとすれば、意識とは別に、何かがその決定を下していることになるはずだ」
獅子角は腕を組む。
「ああ、あの時は話が途中だったな」
途中?
「基本的な構造は確かにそうだ。しかし意識は只それだけの存在では無い。江戸里、俺は意識のことを何だと言った?」
私はそれを思い出す。
「意識とは肉体に嘘の情報を吹き込み、その行動を変化させるシステムだと」
獅子角は軽く頷く。
「情報を吹き込んで行動を変化させ得るということは。言葉を換えれば、意識が意志決定プロセスの関与者であるという意味に他ならないではないか」
ばりばりと音を立てて、家の壁が崩されていく。
それが収まってから、獅子角は話を続けた。
「俺達は意識というものに慣れすぎて、それがひどく奇妙な存在であるという事実をついつい失念する。考えてみろ。細菌やら細胞というのは、実体を持つ存在だ。彼等が意志決定プロセスに関与するのに不思議は無い。だが、意識には実体が無いのだぞ。実体の無いものが主体的に活動できる筈が無い。なのにそれはどうみても自律的としか思えない活動を始め、日々、俺達自身を変化させる」
意識が人を変化させる証拠はあるのか? 私はそう聞いてみた。
確実な証明は不可能だが、有力な傍証ならばあると獅子角は答えた。
「こうして会話をするとき、俺達は他者の言葉を受け取って自分自身を変化させている。だとすれば、己が発した言葉も自分自身を変化させる能力を持つはずだ。そうでなければ、理屈が通らん」
考えてみれば相当に変な話だと獅子角は言った。
「意識は被創造物でしかないはずだ。身体が造り上げた架空の存在。だが意識は言葉を生み出せる。意識が言葉を紡ぐと、紡がれた言葉が逆に外側から意識を変えていき、やがてそれは脳を、そして肉体までもを変化させる」
崩れていく建物の前で、獅子角は両手を広げた。
「まるで魔法だ。それは、虚空からエネルギーを取り出す行為にも等しい」
私はふと考える。
私達が過ごしたあの家はもう無い。
記憶の中にあるそれは架空の嘘なのか。
それとも、私の一部なのだろうかと。
「私、本当に感謝しているんです」
食事の手を止めて、古海君は言った。
「先生がいなかったら、どうなっていたか。本当にありがとうございます」
いやその理解は変だろう。内心で私はそう思う。
そもそもの原因は私なのだ。それに。
「私はそんなに立派だった訳じゃ無いよ」
私は自分の行動と、そこに至った心の動きを思い出す。私はあの時、自分だけで決断することができなかった。この道を選べたのは偶然だ。逃げ出していたかも知れない。投げ出していたかも知れない。
私が彼女を救うために全力を尽くしていた、と言うのは美化が過ぎるだろう。
「いいんですよ」
彼女は優しく微笑んだ。
「先生が迷ったことも、悩んだことも知っています。だけど、先生は最後には残って、私を助けようとしてくれた。だから、それが本当のことだった。そういう話で良いじゃないですか」
私は思わず考え込む。
私達はほぼ同じ時間、同じ場所を過ごしたはずだ。なのに事実の理解はこうも異なる。これでは異なる視点で記された歴史に対し、意見の一致が見られないのも無理はない。
人はなぜ歴史を愛し、時にその解釈を巡って争うのか。
次回のゼミにおけるテーマはこれにしよう。
別れ際に獅子角は言った。
意識はお前自身ではない。自分という存在に関する決定者でもない、と。
「だが意識とは進化の中で生じた最後の、そして最も奇妙な、お前の中の有権者だ。過剰に評価するのは間違いだが、卑下する必要もまたあるまい。だから、それはそれで大事にすれば良かろう」
どうやら私とは、身体の細胞と、共生する細菌その他、そして実体の無い意識なるものの不可思議な混合物であるらしい。
外界と戦うために統一体であるという幻想を振りまきながら、実際にはかろうじて統制を維持しているだけ。日々変化する構成員が垂れ流す苦情の取り扱いに苦慮し、反乱に怯え。都合良く事実を脚色しながら歴史を積み上げ。なんとか生き残ろうと必死に足掻き続ける、曖昧でいい加減な存在。
私はゆっくりと自分の中を見詰める。
明るく笑う古海君を見て安堵と好ましさを覚え。
素晴らしいランチの味を愉しみ。
室内に流れる音楽を聴き。
手に持つコーヒーカップから放たれる香りに触れる。
とんでもないトラブルに巻き込まれた過去を想い。
しかし全てが無事に終わった幸運に感謝しながら。
でもやっぱりこの状況は私の職業的に極めてマズく、危険で。
一体どうすれば脱出して大学に逃げ帰ることが出来るのだろうかと。
それら全ての感情を、今、同時に。
『私』という存在の中に抱いている。
fin
あなたの中の有権者 有木 としもと @Arigirisu
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