第31話
看護要員を派遣するという獅子角の提案を私は断った。
古海君を差し置いてそんなことは出来ないと。
「だが熱が高い。万が一と言うこともある。やばいと思ったらこれを飲め」
差し出された薬を私はしげしげと見た。
「これは抗生物質じゃないのか? 耐性菌が生じたらまずいんだろう」
「ああ、そうだ。しかしそれを恐れてお前を死なせるという選択肢は俺に無い。出来たら出来たで、お前が世界を変える様を見届けるだけだ。具合が悪くなったら躊躇うな」
私は黙ってそれを受け取るしかなかった。
「そのまま寝ていろ。助教に話をつけたら直ぐ戻る」
そう言って獅子角は去って行った。
独り残された私は布団に潜り込む。
発熱と痛み。
今、私の身体の中では。生活圏を争った細菌同士の大戦争が進行中なのだろう。
私は従来の居住者の意向と反対を無視して強引に新たな新参者への門戸を開いたことになる。それによって起きた戦争。
だとしたら、私は共同体の裏切り者なのだろうか。あるいは己の願いのために、外部からの武力を用いて住民を弾圧した独裁者。
しかし、意識が肉体の決定を追認するだけの存在だとしたら。
その決断を下したのは誰なのだろう。
私は独裁者なのか。あるいはその振りをしているだけのお飾りなのか。
お飾りの存在であれば、この選択の責任は私に無いのだろうか。
自分では無い誰かが決めたことで、私はそれに抗えずにいただけ、あるいは傍観していただけの存在なのか。
まるっきり無責任な政治家の言い訳だな。そう私は苦笑する。
決断とは誰が下し、その責任は誰にあるのだろう。
頭が痛い。私は布団を被り直して眼を閉じた。
意識が遠のいていく。
―――――
目が覚めたら、額からひんやりしたものが感じられた。
手を伸ばすと、濡らしたタオルがそこあった。誰がこんなものを? そう思う間に、軽い足音が聞こえてくる。
「先生、目が覚めましたか?」
古海君が覗き込んでくる。私は反射的に悲鳴を上げかけた。弾みで息を吸いこんでしまったことにパニックを起こしかけ。
そしてあの悪臭が無いことに気づく。
「古海君、一体?」
私の質問を古海君は誤解した。
「先生は休んでいてください。わたしが看ていますから」
そう言って携帯を取り出して電話をする。
私は自分の疑問を自分で解決した。そうか、私はもう感染者だから、古海君の体内から発せられる匂いを感じずにすむのだ。あれだけの悪臭を当然のものとして認識してしまう脳の作用。その不可思議さに目眩がするような気がした。
「獅子角さん、先生が眼を覚ましました」
彼女は暫し会話を続けた後、自分の携帯を私に差し出した。
「眼が覚めたか」
「おい獅子角。どういうことだよ」
「カリオ君から提案された。言われてみれば合理的な方法だ。現在この地球上で、感染リスク無しにお前を看病できるのはルカ君だけだからな」
いや、しかしだな。
「ちょっと待て。私にも立場とか色々あるんだ」
「俺は薬の方に集中しておきたい。大至急で作業させている。病人は黙って寝てろ」
一週間以内に必ず見込みのある薬を創る。そう言って電話は切れた。
私は古海君に携帯を返す。彼女の眼は涙ぐんでいた。
「先生、丸一日寝ていたんですよ」
そうなのか?
まだ熱と頭痛は続いていたが、今では良くある風邪程度にしか感じない。
私はふと思い至る。丸一日寝ていたとしたら、その原因は感染ではなく、前夜の寝不足と心労から来る疲れからではないのだろうか。
あり得る。と言うか、その方が可能性が高いように思える。あの臭いを我慢するのは本当に、本当に辛かったのだ。体力的な消耗だって、並では無かった。
「ごめんなさい」
そう言って古海君が頭を下げる。
「わたしが意地を張ったから。先生にこんな無理をさせて」
「ああ、いや」
「悠里に言われました。こんな高熱を発する危ない病気なのに。わたしがそれを分かっていないから、先生が危険になったんだって」
古海君が感謝を語り続ける。
しかしその内容に、私は心の中で首を傾げた。なにか話に誤魔化しがないか?
古海君の症状で問題だったのは悪臭であって、私自身、高熱が出るなどという予想はしていなかったのだ。それがいつの間にか、『高熱を発する伝染病に罹っていた』ことが問題であり、私達がそれを危惧し、古海君がその点を誤解したために危険が生じ、私が勇敢にも身を捨てて治療法を探そうとしたかのような。そんな話にねじ曲げられているように思える。
「お詫びに、わたしがきちんとお世話しますから。遠慮しないでください」
健気に言う古海君。私は自分が見つけた真実を封印した。
その程度の分別は私にもある。まさか彼女に対し、君が臭かったのが全ての原因だなどという事実の指摘をする訳にはいかない。そういうことにしておきたいのならば、そういうことにしておこう。
私は観念して布団に潜った。
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