第30話

 一息をついた私は立ち上がる。

 まだだ。まだやらなければならないことがある。

 渋々とマスクを外し、彼女の手を握った掌をゆっくりと唇になでつけた。

 湧き上がる吐き気を抑えて舌を唇に滑らし、唾液を飲み込んだ。

 ふらふらと力なくリビングに向かうと、玄関が開かれる音がした。

 私を見つけた狩尾君が驚いて駆け寄ってくる。

「えどせんせい、真っ青ですー」

 狩尾君は手袋をしていない。私は鋭く彼女を制した。

「駄目だ、近付くな!」

 びくりとして動きを止めた狩尾君に私はゆっくり、優しく語りかけた。

「私も、細菌に感染した可能性がある。だから狩尾君は近付いちゃ駄目だ」

 数秒の間を置いて、狩尾君の瞳に理解の色が広がる。

「狩尾君はこの家を出た方がいい。もし古海君から必要な物を依頼されたら、届けてやってくれ。ただし絶対に家には入らないように。玄関に置くだけにするんだ」

「でもー えどせんせいは?」

「私の方は、獅子角がなんとかしてくれるだろう。大丈夫だ」


 狩尾君が去ったのを確認してから、私は布団を抱えて離れに向かった。

 今は家に古海君と二人きりだ。そのままというのもマズかろう。

 病気支度を整え、横になる。

 数時間後に熱と痛みが広がってきた。そして下痢。

 おそらく上手く行った。そう思って携帯を取り出す。

 さて次の手順だ。そんなことを考えていると、突然に離れの扉が開け放たれた。

 白い防護服を着た、完全武装の獅子角がずかずかと入ってくる。

 おいおい、なんで何も伝えてないのに来てるんだよ。発症が確実になってから連絡しようと思っていたのに。


 私の疑問を獅子角が自ら解いた。

「カリオ君から聞いた」

「そうか」

 その口調には僅かな不満が含まれていた。

「事前に相談があっても良かろう。準備も無しに、なぜこんなことをした」

「すまない。話してしまうと決意が鈍りそうだったんだ」

 獅子角が体温計を差し出す。

「熱を測れ。ルカ君の症例から見て、感染時には発熱がある。体質による個人の違いもあり得る。悪化しないという保証は無いぞ」

「わかった」

「江戸里、お前を看護するとなれば、伝染病罹患者と同じレベルの対策が必要だ。人員を手配するにしても、簡単では無いのだぞ」

 その口調が私には不思議だった。まだ検査したわけでもないのに、獅子角は既に私があの細菌に感染したと決めつけている。

「あの細菌が原因だと決まったわけではないだろう? まずは調べないと」

「気づいておらんのか」

 言葉の意味が分からない私に、獅子角は鼻をつまむゼスチャーをした。

「扉の外からでもあの臭いがする。この離れからな」


 そうかと頷いて、私は部屋の隅にある簡易トイレを指した。

「サンプルを持って行ってくれ。おそらく、古海君と同じ菌のはずだ」

「分かった。お前の常在菌についてはサンプルが残っている。比較すれば直ぐに問題の菌が特定出来る筈だ」

 一瞬なんのことだと思ったが、やがてああと思い当たった。体育館で細菌の採取をする際、私自身の細菌をサンプルとして提供していたのだった。まったく、何が幸いするか分からないものだ。

「それにしても無茶をする。ここまでやる必要があったのか? お前が罹患せずとも、細菌を回収する方法ぐらいあっただろうに」

 こうしなければ、お前が本気にならないからな。私はそう思ったが、さすがにその言葉を口に出すのは気恥ずかしかった。だから私は布団に入り直し、別のことを語り始めた。


「なあ獅子角、お願いがある」

「なんだ、言え」

「もし、もしも治療が失敗した場合だ。そのときは金持ちのヴィーガン達を紹介して貰えないだろうか。おまえなら、伝手ぐらいあるだろう」

「ああ。菜食主義者は売り込み先として最適だと考えていたからな。リストはある。だが、伝染病を引き起こすような菌では話になるまい」

 私は布団に入ったままで首を横に振った。

「売り物にするんじゃない。彼等と組んで、この細菌を撒き散らそうと思う」


 獅子角の動きが止まる。

「彼等は肉を喰う習慣を嫌っている。他人にこの細菌を感染させることを厭わない奴もいるだろう。むしろ、嬉々として行うかも知れない。この菌が直接人を殺すほどの症状を引き起こさないのならば、殺人者になるという引け目も感じずに済む」

 沈黙したままの獅子角に向けて、私は語り続ける。

「おそらく感染者同士ならば匂いは気にならない。周りに同じ人が溢れるようになれば、古海君も普通に生活できるだろう」

 防護服の頭が振られた。

「だが、恐ろしい騒ぎになるぞ。この細菌を有した人間は、旧来の人々にとって、ほとんど別の種にも等しい。恐ろしい臭いを放ち、全く異なる食習慣を持ち、それを拡散させるような存在だ」

 布団に寝た私を上から覗き込む。

「直接の死者が出ないとしても、それは紛れもないテロ行為だ。確実に新たな紛争を引き起こす。それも並では無い、巨大な争いだ。ルカ君ひとりの為にそこまでする必要があるのか?」


 獅子角の口調には私を案じる響きがあった。熱に浮かされて、論理的な思考が出来なくなったと思っているのだろう。私は再び首を横に振る。

「違う。彼女のためじゃない」

 私は上半身を起こした。

「獅子角、おれは今まで歴史や政治についてそれなりに学んできたつもりだ。民族や国家は生まれた瞬間に決まり、どうやっても変えられないそれによって争いが生まれてきた」

 熱は酷かったが、意識はクリアなままだった。

「この細菌が広まれば、そんなものはどうでも良くなる。感染しているかしていないか。それが人種というものを決める一番の要素になるだろう」

 防護服越しに、獅子角の眼をしっかりと見詰める。

「しかもそれは生涯の途中で変化してしまうんだ。やがては、二つの種を感染と治療で行ったり来たりするのが当たり前になるだろう。己が放つ臭い、他人が放つ臭いが変わる。自らが属する世界とその常識が日々変わり続けるんだ。その認識は、今の人類にとって巨大な衝撃となるはずだ」

 私の顔に、予期せぬ笑みが浮かんだ。

「おれと古海君の治療が出来ないとしたら、早晩この感染は広まるだろう。だとすれば無秩序にそれを広げるのではなく、おれ自身がコントロールした形で行いたい。可能な限り、おれが望む社会に近付けるように」

 言葉を重ねる度に、自らの想いが形を整えていった。

「確かに困難だろう。失敗するかも知れない。しかしひょっとしたら、ひょっとしたら行う価値のある行為かも知れないと、そう思わないか? おれたちだったら、それを上手く成し遂げられるかも知れないと」


 一瞬の沈黙。そして獅子角は笑った。

 防護服のマスク越しにも分かる、大空に抜けるような晴れやかな笑い。

「人種とは、いや、人とは何かという定義への挑戦か! 人類のパラダイムシフトだ!」

 身をよじるほど笑い転げる。

「素晴らしい! 江戸里、お前は変わらんな。相変わらず無茶苦茶な奴だ」

 失礼なことを言う。そう私は思った。

 おまえにだけは言われたくないと。


「ああ、今の俺達なら本当にやれるかも知れん。約束しようではないか。もしお前が治らなかったら、全力でその計画を支援すると」

 そう言ってから、獅子角は心を込めて私に頭を下げた。

「だが済まん。俺は人類史に残る戦争の引き金に触れるには少々勇気が足りん。それに実のところ、肉を喰うこの不健康な生活についても未練があってな」

 そして、力強く頷く。

「ここは一つ、気合いを入れてお前を治療せねばなるまい」

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