第29話

 独り残った私は、明るさを増す風景の中で思考を巡らせる。

 匂いは目に見えない。それは最も原始的な感覚だ。


 国や民族、人間同士の対立があった際。常に使われ続けた言葉がある。

「奴らは臭い」

 それは偏見であると同時に、一面の真実でもある。人は普段の生活の中、食事をし、様々なものに触れ。それが彼等自身を作っていく。

 異なる文化の間では、異なる匂いが育つ。それは当然のことだ。日本人の身体からは味噌と醤油の匂いがするだろう。島国独特の思考という匂いも。


 そして異臭とは常に、他人が放つそれだけが知覚される。

 人は、自らが放つ匂いを感じとることができない。

 だから自分の存在が、行動が、なぜ相手には耐えがたいのか。

 その理由を理解することができない。


 他人の匂いが変化する瞬間を見ることは、決して稀なことではない。

 だとしたら、自らが放つ匂いも変わっているのだろう。

 実はそれは、日々、誰しもに起きている出来事なのではないだろうか。

 ただ、気づいていないだけで。


 もしもこの世界に。それを気づかせる手段があったとしたら。

 私の中で、何かが形を結びつつあった。


―――――


 私は時計を見た。朝の七時半。

 少し早いかと思ったが、思い切って私は書斎の扉をノックした。

「古海君、起きているか?」

 返事は無い。しかし、部屋の中で何かの気配がした。

「話がしたい。入っても良いだろうか?」

 やはり返答は無い。私はふと思いついて、扉のノブを回した。

 鍵は掛かっていなかった。


 部屋に入る瞬間、原始的な恐怖が全身を包んだ。明るい陽光が入る、センス良い調度品に溢れた部屋。快適だったはずのその場所が、なぜか不気味な空間に感じられる。


 部屋の隅で膝を抱える古海君にゆっくりと近付いた。

 一歩ずつ進むにつれ、マスクをぶち破るような強烈な臭いの暴力が襲いかかってくる。その恐怖に打ち勝つには、全身の力を振り絞る必要があった。

 ここで逃げ出すわけには行かないのだと。


 古海君の隣に腰を下ろす。三十センチほどの距離を置いて。

「わたし、相変わらずですか?」

 その問いになんと答えればよいのだろう。

 分からぬまま私はただ、「ああ」と言った。


「変な気持ちです。自分には何も感じられないのに」

 古海君の声が震える。

「わたしが近付くと、人が逃げるんですよね。化け物が寄ってきたみたいに」

 私は黙って彼女の話を聞いた。

「ただそこに居るだけなのに。皆に凄く嫌な顔をされて」

 そこに悪意は無かっただろう。そう私は思う。

「自分ではどうしようもない、理解できない理由で周囲から拒絶されるって、あんなに傷つくものなんですね。初めて知りました」

 そこにあったのは違いだけだ。

 臭いを放つ彼女と、彼女を忌避する人々。その場において、どちらが被害者で、どちらが加害者だったのだろう。


 いや、少なくとも一つ確かなことがある。

「すまなかった。こんなことに巻き込んでしまって」

 私は心からそれを詫びた。古海君を傷つけた一番の原因は、私なのだ。

「いえ、やっぱりあれはわたしが無理に頼んだことで。先生のせいじゃないです」

 彼女の言葉に胸が痛む。

 私はゆっくりと自分のマスクを外した。


 息をした瞬間、激しく咳き込んだ。

 悪寒と頭痛。全身の細胞が拒否しているような激しい反応。

 咳き込む度に新たな空気を吸ってしまい、それが次の反応を引き寄せる。このまま窒息するのでは無いかという恐怖が私を襲った。

「先生?!」

 会話ができない。心配そうな声を出した古海君を手で制する。

 身体を近づけないで欲しい。むしろ遠ざかってくれた方が楽なのだ。


 やっとのことで呼吸を整えた。

 激しい咳を続けたせいで全身が痙攣しかけている。

 油断すれば一瞬で先ほどの状態に戻りかねない。

 駄目だ。私は自分の甘さを痛感した。

 私はある決意を持ってここに来た。しかし駄目だ。

 僅かな一歩がどうしても踏み出せない。


 かつての仕事。あの世界では誰もが当たり前のように、実に簡単に自分の立場を変えていった。自らの理想を放棄した者、己の意志を貫けなかった者。それらは軽蔑されるべき存在だと私は信じていた。

 しかしこのザマはどうだ。

 たかが臭いひとつで、私は身動き一つ取れなくなっている。


 臭いを我慢するというのはこんなにも辛いことなのか。

 ほとんど拷問だった。

 理屈も何も無い。ただただ嫌なのだ。

 意識などというものよりも遙かに本質的な奥深い部分で生まれる拒否の感情。

 全身の細胞、体内の細菌達が全力で反対を叫んでいるのが分かる。

 本来の決定権は自分達にあるのだと。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 ここに居たくない。

 すぐにでもここから逃げ出せと。

 そんな内なる衝動を抑える事が出来ない。

 一体、どうやってこんなものに抗えというのだろう。


 獅子角は言っていた。意識は単なる解説者だと。

 本来の主権者たる肉体が下した結論を追認する立場でしかないのだと。

 ああ、だから。

 人の誓いとはこれほど脆く、決意が守られることは少ないのか。


 個々の細胞は、細菌は。決して嘘などつかない。

 その場の状況に応じ、望む動きをするだけだ。

 そしてその集合体である肉体そのものも、嘘などつかないのだろう。

 ただ意識だけが。意味や理由などという奇怪なものを拵え、自分がひとつだというプロパガンダを語る意識だけが、嘘をつく。


 だとすれば人間の、私の意識が語る『決意』などというものに何の価値があるのだろうか。それは所詮偽物なのに。グラウンドで戦う選手達の気持ちを、遠いスタジオのアナウンサーが語っているようなものでしかないのに。

 マイクの前で彼等の勇気を高らかに謳った直後、選手達が一斉にグラウンドから逃げ出してしまう。

 そんなことが決して起きないと、一体誰が保証できるのだろうか。


 ああもう、どうでも良くなってくる。

 全身に染みつく不快感に思考がまとまらない。

 何一つ決めることが出来ない。

 全ての意志と責任を放棄し、今すぐここから逃げ出したかった。一体何故自分がこんな苦痛を我慢しているのか、その理由が分からなくなってくる。


「先生、大丈夫ですか?」

 私の異変を感じた古海君がその手を伸ばす。

 やめろっ!!

 私は思わず叫び出しそうになり、肩に触れかけた手を逃れようと身をよじる。

 弾みで息を吸ってしまい、激しく咽せた。

 全身が震える。


「す、すまない」

 私はなんとか身体の反応を抑え込んだ。

 涙すら浮かべながら、混乱した頭で必死に言い訳を呟く。

「これは私の中の細菌が引き起こしている反応だそうだ」

 きょとんとして理解できない古海君に、私はとりとめも無い説明を始める。

「古海君の細菌が体内に入ってきたら、そいつらの居場所がなくなる。だから全力で反対活動をしているんだ。私の中で行われている一種の移民反対運動なんだよ」

「は、はあ」

 古海君が理解しているのかいないのか。それすらどうでも良く感じた。


 私は自嘲気味に笑う。

「まったく、そう考えると人よりも細菌のほうがマトモだな。少なくとも彼等は嘘をつかない。投票を棄権もしない。自分達の行く末を決める議論に全力で参加している。まったく、見上げた権利意識と政治活動への参加意欲だよ」

 ひどく疲れた気分になり、俯いて目を閉じた。


 古海君が呆れた声をだす。

「こんな時にまで講義ですか」

 空気で分かる。彼女は少し距離を置いて座り直してくれた。

「でも先生、その話って本当なんですか?」

「さあ? 半分以上は推測だから、本当に細菌から引き起こされる反応なのかは調べてみないと分からないが」

「そっちじゃありません」

 彼女がこちらを向いたのが分かった。

「投票を棄権しない、っていう方ですよ」


 私は顔を上げ、ゆっくりと古海君に視線を合わせる。

「先生、結局そういうところがヘンに生真面目なんですよね。なんで細菌達が全員、真剣に投票しているなんて決めつけるんです? 人間と同じように、やっぱり半分近くは方針決定なんてものに興味無くて、騒いでいるのは一部の存在だけなのかも知れないのに」

 私は驚いた。確かに、そんな考えを持つことはできなかった。


「確かに人間はいい加減ですよ。議題もろくに聞いていないし、投票に参加しない人もいます。はいはい、そうですね。隣に好きな人がいたら意見だって変えるし、気に入られたくて、少しぐらいの演技もします。でもそんなの、当たり前でしょう? 『人間以外の生き物は純粋だ』なんて考え方は思い込み。単なる偏見です」

「古海君、君は」

「大体、そんなこと言いながら先生だって演技ばっかりじゃないですか。言ってることとやっていることが逆で。ヘンなとこだけロマンチストで。世の中はそんなものだ、理想通りじゃ無いなんて内容を講義しながら、実は結構そういうの嫌ってて。だから、わたしが頑張って反論したら、すごく嬉しそうにして」

 私は泣き笑いのような表情を浮かべてみせる。

「そうだったかな」

「そうですよ。気づかれていないとでも思っていたんですか?」


 私の心に何かが灯った。

「まったく、なんて情けない顔してるんですか」

 彼女の言葉が、私に入り込む。

「散々偉そうにわたしに語ってたのに。生きることは決定することで。どんな状況でも、無理にでも何かを決めなければいけないんじゃなかったんですか? たとえ誰かが反対していたとしても。全員が満足していなかったとしても」

 そして彼女は、最高の仕返しを決めたような笑顔を浮かべた。

「たとえその中に、嘘があっても」


 ああ、そうか。

 私は、決めた。

 そのことを決めた『私』という存在がなんであるのかは未だに分からなかったが、それでも私が決めたことに変わりは無い。


 この子を助けよう。

 私が為すべきことをしよう。


 私は自らの腕を伸ばし、古海君の手を握った。

「先生?」

 彼女の手は柔らかく、暖かく。

 しかし何故か触れた瞬間、全身に電流のような嫌悪感が走った。


 私はその不思議な感覚を一生忘れまい。

 なんでだよ。普通、女の子の手を握ってこんな風には感じないだろう。


 意志の力を振り絞り、彼女の頭を抱くようにして寄せた。

 髪が私の頬に触れたとき、再び背筋に悪寒が走る。

「そうだな。責任は取る。古海君が普通に生活できるよう、全力を尽くそう」

 臭いは耐えがたく、私は息を吸わぬよう細心の注意を払ったまま囁いた。

「私はこれから、そのための準備をする。何日かかかるかも知れないが待っていてくれ。必要な物があったら携帯で狩尾君に頼んで欲しい」

 やがて彼女がコクリと頷いた。 


 私は彼女から身を離し、ゆっくりと出口に向かった。

 ノブを開けて室外に出ると、ドアに背をもたせかけてへたりこむ。

 全身が酷く消耗していた。

 終わった。マスクを被りなおした私は安堵の息を漏らす。

 ここにも異臭は広がっている。しかし、部屋の中と比較すれば天国だ。

 私は大きく呼吸した。全身に開放感が広がる。


 彼女を助けたいと思ったのは本当だ。それは誓っても良い。

 しかし同時に私は。

 もうあと一瞬だって、あの部屋の中に居たくなんてなかったのだ。

 それもまた、偽れぬ事実。


 私は思わず天を仰ぐ。

 神よ、赦し給え。

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