第28話
翌日早朝。
日が昇りきらぬうちに、私はひっそりとソファから身を起こした。
かろうじて、うとうととすることは出来た。
何が起きたかは直ぐに分かった。夜のうちに、そして古海君に気づかれないうちに作業しておいた方がいいだろう。そう思い、準備した使い捨ての雨合羽に身を包み、ビニール手袋と使い捨てマスクを二重という重装備で準備に取りかかる。
苦しい作業を終えると、音を立てぬように玄関の戸を開けて庭に出た。畑の裏手に向かって歩こうとした瞬間、そこに立つ人影に気づく。
目が慣れるにつれて、シルエットから見慣れた顔が浮かび上がってきた。
「獅子角。なぜここに」
「なぜにとは心外だ。検討結果を伝えに来た。まだ寝ているのかと思ったのだが」
よく見れば庭には獅子角の車が停められていた。電気自動車はエンジン音がしない。だから気づかなかったのだ。
「それは例のブツだな」
獅子角は私が手にしたビニール袋にめざとく気づいた。
いや、当然か。全くの暗闇だったとしても全ての人が気づくだろう。嗅覚が働いている全ての人が。
薬剤で処理し、三重のビニールで包まれているにも関わらず恐ろしい臭いを発しているそれは、簡易トイレの中身だった。
「江戸里、それを渡せ」
獅子角が右手を私に伸ばす。
「いや、駄目だ」
「お前ならその細菌の価値が分かる筈だ。世界を変える力を持っているかも知れないことを。第一、ルカ君を助けるためにもそれは必要だ」
「駄目だ。古海君の承諾無しにこれは渡さない。そう約束した」
頑なに拒否する私に、獅子角がゆっくり頭を振る。
「俺が無理に奪ったことにすればそれで良かろう」
分かっている。それが一番簡単な解決策であることは。
「獅子角。これは尊厳の問題だ。お前の言うことが正しいと分かってはいるが、渡すわけにはいかない」
「どうしてもか」
「どうしても、だ」
暗かった空に微かな色が差す。夜が明ける中、私と獅子角は対峙した。
緊張の一瞬。
そして獅子角は突然青い顔になり、後ろに向かって駆けだした。
十メートル以上の距離を置いてから、ゼイゼイと息を吐く。
「いや、矢張り今のは無しだ。どのみち防護服無しでそれを手にする気にはなれん。可及的速やかに処分して貰えんだろうか」
お、おう。
私は畑の傍らに置かれた古い焼却炉の蓋を開け、問題のビニール袋を入れた。ついでに両手の手袋と雨合羽、マスクも一緒に突っ込む。火力を補うための古新聞を叩き込み、最後に灯油をかけて火をつけた。
「文字通りのヤケクソだな」
獅子角が笑えない冗談を言った。
「あまり環境に流出させたくはないが、焼却処理ならおそらく問題あるまい」
焼却炉から黒い煙が立ち上る。
ビニールが焼ける臭いがした。厳密には法律違反なのだろうが、そんなことを気にしている暇は無い。あまり近くにいるのも健康に良くないだろうと、私達は場所を移した。
汚染されていない屋外の空気は、素晴らしいとしか表現のしようがなかった。
私と獅子角は畑の畝に腰を下ろした。
「こんな環境で夜が明けるのを見るのは久しぶりだ」
そう言われて私も空を見上げる。
山に邪魔されてまだ太陽は見えない。しかし空がみるみる明るさと青さを増していく。直接見ることは出来なくとも陽が昇ったことは分かるのだと、私は妙な感心をする。
「そういえば、何か伝えるために来たんじゃないのか?」
「ああ、そうだったな」
獅子角は落ち着いた口調で言った。
「例の助教と一緒に検討してみた。結果から言えば、治療は可能だ」
「そうなのか?」
それは嬉しい驚きだった。
「要するに、あれが答えだ」
獅子角はまだ煙を上げる焼却炉を指す。
「独特の機能を持った細菌のようだが、別に宇宙から来た未知の生命体ではない。火で焼けば、他の細菌と同じように死滅する」
「そ、そうか」
「その視点からすれば、特別な所は何も無い。細菌を抑制する一般の治療法が全て有効な筈だ」
言われてみれば当たり前の話だ。
「だとすれば普通に、例えば抗生物質を処方すれば良いのか」
「それも一つの方法だが単純には同意出来ん。ルカ君が発症した経緯を思い出せ」
私は記憶を手繰る。
「確か熱が出て。そうだ、抗生物質を飲んだと言っていた」
「既に耐性を得ている可能性がある。改めて複数の抗生物質を同時に使用するカクテル治療を試みるのも選択肢だが、失敗すれば最悪の結果を招きかねん」
「専門の医療機関ならどうだろう。他の方法を見いだせるかも」
私は食い下がったが、やはりにべもなく却下される。
「既存の病院は俺達の実験内容や細菌に対する知見など聞く耳を持つまい。下手に病院になど連れて行ってみろ。それこそ碌な検査もしないままに抗生物質を投与されるのが関の山だ。悪くすれば、そのまま最悪のバイオハザードが発生する」
私は抗生物質が効かなくなった細菌が人々に感染していく様を想像した。
この細菌の感染によって人は死なない。死なないからこそ感染した人々は動き、生活を続け、それによって更に感染者を増大させてしまう。あの臭いを撒き散らしながら。
何というか、シュールな地獄絵図だった。
その時私の脳裏に閃くものがあった。
医療機関ではなく、この細菌の価値を理解できる相手。例えば先日名前を借りたアメリカの企業などならばどうだろう。
いや、しかし。浮かんだ発想を一度沈ませ、私は獅子角に向き直った。
「だったら一体どうしたらいい」
「助教からはカスタム医療を提案された。資材と資金の提供があれば協力は惜しまんそうだ。まあ、体の良い実験対象ということでもあるが」
獅子角の言葉で私は思い出す。あの助教の専門分野。
「まず問題の細菌にだけ反応するように調整したバクテリオシン。それを生成する能力を持った細菌を腸内に送り込む。ルカ君の体内にある細菌はその遺伝子をコピーし、同じ能力を得るはずだ。それにより繁殖を抑制する効果が見込める」
「なるほど」
「問題の細菌が急速に腸内環境を変化させた事実から考えると、あの細菌自体も他の細菌を攻撃するバクテリオシンを出している可能性が高い。だから、同時にそれに対抗するための遺伝子を持つ細菌も送り込む。こちらの能力が広まれば、いままで圧倒されていた他の細菌が腸内の地歩を取り戻すことができる筈だ」
「それで完治できるのか?」
「完治という言葉の定義によるそうだ」
獅子角は空を見上げたまま説明を続けた。
「完全には殺し尽くせない。だが、腸内の細菌構成は元の状況に近くなる。おそらく今のルカ君の体内は、問題の細菌が異常に勢力を広めている状態だ。マイナーな細菌として細々と生きている程度ならば、治ったと表現しても間違いとは言えん」
あの臭いが発生するまでには数週間を要している。その期間、顕著な症状は無かった。あの状態をキープできるのならば、古海君の生活に支障は無いだろう。
しかし懸念材料はもう一つあった。
「他の人への感染については」
「他の細菌が耐性を得た状況では、バクテリオシンを発生させる能力を持ち続ける事に意味が無くなる。時間経過と共にその遺伝子は不要なものとして放棄される可能性が高い。そうすれば、現在持っている強力な感染力を失う筈だ」
「どうかな。確実には思えないが」
「細菌は日々変化している。感染の仕方によっては奇病を引き起こす菌、というだけなら誰の身体にもあるそうだ。数が少なければ、体外に出て他人を感染を広める可能性は十分に低くなる。それもまた、治ったと表現して良い」
私はその答えを吟味する。完治という言葉の定義。以前とほぼ同じ生活が取り戻せるのなら、細菌を皆殺しにすることに拘る必要は無いのだ。
「抗生物質は腸内を焼け野原にする。だがその手法では、生き残った少数の菌が生じた空白地に爆発的に広まってしまう。どの菌が生き残るかは運だ。それに対し、これは細菌同士の陣取り合戦に関与する手法だと言える。こちらが見込んだ細菌に武器を与え、じわじわと領土を占領するのに近い」
「空爆よりも地上戦か。分かった。納得したよ」
私の心に希望が芽生える。
「じゃあ、さっそく準備をしよう」
そう言った私を獅子角が呆れた眼で見た。
「そのためにはサンプルが必要だ。今はそれが無い」
あああ。
私は慌てて立ち上がり、煙が収まり始めた焼却炉を見る。
先に言ってくれたのならば。一瞬そんな理不尽な感想を抱いてしまった。
いや、駄目だ。私は即座に考え直す。
たとえ事前に言われていたとしても、やはり私は断っただろう。
身体の状況はそれで改善するかも知れない。
しかし古海君の心の傷はどうなるのか。
突然あんな身体にされて、同意も無しに細菌を採取され、自分達が勝手に薬を作って。それで治ったから元通りという話にはならないだろう。
いざとなればその手法もやむを得ない。しかし、最初からそれを前提にすべきではない。何か、他の手段はないのか。
焼却炉を見ながら私はじっと考える。
やがて獅子角も立ち上がり、尻についた土を払った。
「細菌の入手法法は江戸里に任せる。俺には良く分からんが、そこは心の問題とされるべきなのだろう?」
心の問題。
それは誰の心だろうか。
古海君の。狩尾君の。私の。そして獅子角の。
今の話を伝えるだけなら、電話でも済んだはずだった。
それでも獅子角はここに来た。互いの顔を見て、触れられる距離でなければ伝わらないものがあると知っていたから。
魂の交換をしなければならない時を、知っていたのだ。
他人の心が分かっているのかいないのか。やはりこいつは奇妙な男である。
状況が動いたら連絡をしてくれ。そう言って獅子角は去って行った。
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