第27話

 かろうじて保たれていた友好的な空気が破られたのは、私が災害用トイレを組み立て始めた時だった。

「なんですか、それはっ!」

 古海君が不審の声を上げる。それはそうだ。若い女性にとっては、水洗でない災害用のトイレを使用するだけでも抵抗感があるだろう。その上、彼女が抱く獅子角への不信感は頂点に達している。

「あの人が言ったんでしょう。先生、まさか無理矢理に」

 猜疑の視線が私に向けられる。慌てて私は釈明を試みる。

「いや、違う。承諾無しに獅子角に渡すようなことは絶対にしない。約束する」

「じゃあ、なんでそんなものが必要なんですか!?」

「あくまでも環境への流出を防ぐためだ」

「言っていることの意味がわかりません」

「大事なことなんだ。他の人への感染が生じないにしないといけない」


 その後も私は情理を尽くしての説得を行ったが、古海君は納得してくれない。

「大げさなこと言って。私を騙そうとしてるんですか!」

 怒った彼女が近付く度に、私は圧倒される。

 勢いとかそれ以前に、呼吸が困難になって会話が不可能になるのだ。時間の経過と共に、古海君から放たれる臭いが強くなっている気がする。

 私がこんな状態になっているのを見れば、外部に流出させるべきでないことは自明でないか。なのになぜ、古海君は理解してくれないのだろう。


 そして私はある事実に気づいた。

 獅子角の言うとおり、彼女は病気では無いのだ。

 古海君は自分の臭いを自覚していない。体調に悪いところも無い。食生活についても問題があるとは感じていない。だから自分に深刻な問題があるとは思えず、彼女がそこに居るだけで私達がこんなにも苦しいということに理解が及ばないのだ。

 彼女はまだ自分が『普通』だと思い続けている。


 古海君は私を非難し続けた。私の目の前で。

 いつまでも呼吸を止めてはいられず、息を吸った瞬間。

 私は激しく咳き込んだ。思わず彼女から身を離し、背を向けてしまう。

 一瞬の後、激しい怒りの声が聞こえた。

「いい加減にしてください! 先生まで、私を馬鹿にするんですか!?」


 そんなつもりは無い。

 無いのだが、どうすれば彼女にそれを理解して貰えるのだろう。

 手立てを見つけられない私を救ってくれたのは狩尾君だった。

「ちがうの、瑠佳ちゃん」

 泣きそうな声でそう言って、自らマスクを付けた。これまでは古海君に遠慮して付けていなかった、あのごつい防塵・防臭マスク。


 信じられないといった眼で、古海君はそれを見る。

「悠里・・・・・・」

「本当ににおうの。ひどいの。えどせんせい、必死に頑張ってるの」

 狩尾君が背伸びをして私にもマスクを被せてくれた。呼吸がずっと楽になる。

「瑠佳ちゃん、分かって」


 古海君はマスクを被った私達を見詰めた。

 驚きと怒り。疑念と戸惑い。

 様々な感情を一瞬のうちにに浮かべ。

 そして彼女は、玄関に向かって駆けだして行った。


「古海君! 待つんだ!!」

 追おうとした私を狩尾君が止める。

「えどせんせい、いかせてあげて」

「しかし、外出すると周囲に感染の危険が」

「今の瑠佳ちゃんに触れようとするひと、いないです~」

 狩尾君は泣きながらそう言った。

「でもでも、じぶんで確かめないとなっとくできないです。だからー」

 窓の向こうに、走り出すクロスバイクが見えた。


 自覚。それは確かに必要なのかも知れない。

 しかし、それが無いからこそ古海君は元気を保つことが出来ていたのだ。

 自分が他人から拒絶される存在だと知ってしまった後、彼女はどうなってしまうのだろう。

 様々な不安を抱えながら私達は待った。


 二時間ほど後、借家の前にクロスバイクが戻った。

「おかえりなさいー」

 沈んだ眼。

 迎えた狩尾にちょっとだけ頷いて、古海君は無言のまま書斎に向かった。

 かちゃり。

 そして扉の鍵が掛けられた。


―――――


 この状態で、古海君を独り残すわけには行かなかった。下手をしたら、本当に自殺だってしかねない。

 そのまま夜になり、狩尾君は客間に。私はリビングで毛布を被って寝ることにした。 とはいえ、はっきり言って眠れる気がしない。

 夜の一時を回った頃、廊下からぺたぺたという足音が聞こえてきた。ガラス戸が開き、小さな声が掛けられる。

「えどせんせい、起きていますか-?」

「ああ」

 私も囁き声でそれに応える。狩尾君がリビングに入ってきた。

「ねむれません~」

 同感だ。マスクをしながらでも臭いが厳しい。目や皮膚に染みるような気までする。

「えどせんせい。瑠佳ちゃんのこと、助けてあげてください。あんなに落ち込んだ瑠佳ちゃん、みたことないですー」

 哀しそうな顔でそう告げる。

「それに、それに。瑠佳ちゃんのことは大好きだけど、このままじゃ一緒に居られなくなっちゃいます~」


 どこか残酷さを秘めた言葉だが、それもまた真実だった。

 どれほど親しい間柄も、尊敬の念も。

 相手が耐えがたい悪臭を放つようになってしまえば続けることはできない。

 精神の悪臭と肉体のそれ、どちらも同じ事だ。


 果たしてどちらが耐えがたいのだろう。私はふとそんな疑問を抱く。これまでは精神の方だと思っていたが、果たしてどうなのか。ひょっとしたら、精神の悪臭に耐える方が楽だったのかも知れない。あれは心を殺せば耐えることができた。しかし、物理的な臭いを遮断するために肉体を殺すわけには行かないではないか。


「ああ、なんとかする。そのための方法をこれから考える」

 何の根拠も無かったが、私はそう言った。ポケットから車のキーを取り出す。

「狩尾君は軽自動車で寝るといい。あの中なら、臭いは入ってこないだろう」

「だけどー」

 大丈夫だ。私はそう言って毛布を被った。

 本音を言えばこの家から出るという考えは甘美な誘惑であったが、狩尾君と一緒に車で寝るわけにも行くまい。

 そのまま背を向けていると、暫くして玄関のドア、続いて軽自動車のドアが開く音がした。私は少しでも眠ろうと目を閉じる。

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