第26話
獅子角の車が見えなくなり、私達は借家に入る。
玄関で狩尾君が素早くマスクを付けた。いつの間にか古海君がリビングに戻っている。
「あの人、帰ったんですね」
「あ、ああ」
私は精神的なプレッシャーと戦う。家の外は快適だった。またこの臭いと対峙せねばならないと思うと、憂鬱になる。
もちろん原因が私にあるとしても、その点についてもう少し配慮しては貰えないだろうか。無遠慮に身体を近づけてくるのは勘弁願いたいのだ。
どうして古海君はそれが分からないのだろう。
「あの人、わたしを相手に勝手に実験をして。その上、臭い臭いって連呼して。信じられない」
それは誤解だと私は言いたかった。
ある意味、獅子角は彼女を過大評価していたと言える。古海君は自分の意志で実験に参加した。それに見合うだけの報酬を受けることにも同意した。だから獅子角は、実験のパートナーとして合理的かつストレートに話を進めれば良いと考えたのだろう。
彼女がずっと子供っぽく、さしたる覚悟も無いまま参加しただけであるとは考えなかったのだ。ああ、もちろん。こんな子供に対し、その程度の配慮さえ出来ない能力の欠如が獅子角の巨大な欠点であるという事実は指摘せざるを得ない。
私は自分の語りたい言葉と、古海君が受け入れられる言葉の中間を探した。
「すまなかった。古海君を傷つけようとしたわけじゃ無いんだ」
沈黙。しかし完全なる拒否や否定ではない。
「どうなっちゃうんでしょう、わたし」
古海君の沈んだ声。
「大丈夫だ。なんとかする。治療法を考える」
確たる根拠も無しに私はそう答えた。一種の無責任であることは自覚している。しかし、それ以外に何と言えば良い?
古海君は私の言った『治療』という言葉に敏感に反応した。女性特有の、途中の論理をすっ飛ばして結論を見抜く能力を全開に発揮して。
「先生、あの人から細菌を手に入れろって言われているんでしょう?」
不信の眼。しかし嘘などつけない。それは絶対に必要なのだ。
「ああ、そうだ。しかし治療のためには」
「イヤです」
古海君は頑なに言った。
「絶対にイヤ。先生がそんなことしたら、わたし本当に自殺しますから」
参った。
口調から、この宣告は決して忘れてはならない類いのそれだと分かった。違えた時、彼女が死ぬか、私が刺されるかといったレベルの。
狩尾君が険悪な空気を取りなそうとする。
「瑠佳ちゃん~」
「悠里、ごめん。いまは黙っていて」
しゅんとする狩尾君。部屋に沈黙が広がった。
困った。どうしよう。
説得が進まないのも問題なのだが、率直に言えば悪臭紛々たるこの部屋に長居したくない。しかし話の進展が無ければ、沈黙のままずっとここに立ち尽くさねばならないだろう。これは辛い。
「お腹が空きましたー」
狩尾君が突然そんなことを言い出した。
「瑠佳ちゃんもごはんたべてないよねー 着替えとかもひつようだし~」
見事なファインプレイとしか言いようがなかった。
私はほとんど尊敬の念を持って狩尾君を見る。
「そうだな。それがいい」
少しおどけた声で提案をする。
「何か食べるものを買ってこよう。満腹になれば、頭の働きも良くなると思う。気分も多少は変わるだろう。あまりトゲトゲした雰囲気では、解決できるものもできなくなる」
古海君は私達の提案を受け入れてくれた。表情からふっと力を抜く。
「そうですね。そうしましょう」
彼女は頑張って笑顔を作った。無理に笑っていることが明白な痛々しい笑顔ではあったが、私達もそれに笑顔で応える。
「どんなものが良い?」
「そうですね」
そして彼女は笑顔のままに言った。
「野菜がいいです。ゴボウとかセロリとか。出来るだけ硬いやつにしてください」
私と狩尾君の表情が凍り付いた。
―――――
軽自動車に乗ってから、私と狩尾君は顔を見合わせた。
「瑠佳ちゃん、じぶんが言っていることがヘンだって気づいてないです~」
「古海君にとっては自然な行動に思えるんだろう」
私はなんとか合理的な説明をしようと試みる。
「それに、何を食べるかは純粋にそれぞれの好き好きだ。今でこそ寿司は世界中で食べられているが、生魚を食べる習慣が奇異の目で見られていたのはそんな昔の話じゃない。それを考えれば、硬い野菜を食べるぐらいはごく普通のことだろう」
獅子角ばりの強引な解説。しかし狩尾君は首を横に振った。
「でもー、でもやっぱりヘンはヘンです~」
その感覚もまた正しい。普通とは、この場の平均値のことだ。十年後には、あるいは異なる世界では違う判定が下されるとしても、今、この場における平均値から大きくズレている事実は否定できない。
郊外にあるショッピングモールの駐車場に車を停め、手分けして買い物を済ませることにした。私はある問題点に気づく。
「ひょっとして、私達にも臭いが染みついていたりしないかな」
既に鼻がやられて、残り香があったとしても自覚できない可能性がある。私はともかく狩尾君は女の子だ。そういった視線に晒されたくは無いだろう。
「良ければ、私だけで買ってこようか」
しかし狩尾君は私の意見に同意しなかった。。
「えどせんせいは瑠佳ちゃんの下着とか買えないですー わたしがやります~」
そうかと頷いて分担を確認した。女性用品と比較的軽い物が狩尾君、食料や災害用品などを私が受け持つようにする。
自分達から、店が大騒ぎになるような悪臭が放たれている訳ではなさそうだった。若干、店員に奇異の目で見られたような気もしたが、あるいは気のせいだったかも知れない。
あちこちを駆け回り、軽自動車に積めるだけの荷物を積んだ。
「今のうちに食べておいてくれ」
私は買い込んだおにぎりとサンドイッチを狩尾君に差しだす。
「あの家にもどってから食事をするのは辛いだろう」
食べ物と一緒に、ワークショップで一番性能の高い防塵・防臭マスクを渡した。見た目が少々ごついのが欠点だが、仕方ない。
「えどせんせいはー?」
「二人が外で食事をして、独りだけ残されたのでは古海君が可哀想だろう」
獅子角の話ではないが、彼女に孤独感を与えるべきではないと思った。
とは言え、あの空気の中で物が食えるのか。私としても疑問なところである。狩尾君は逡巡していたが、いざというとき動いて貰わないと困るからと無理に食べて貰った。
野菜の数々を家に持って帰ると、古海君はそれを刻んでオシャレなスティックサラダ風にしてぼりぼりと食べ始めた。
塩を振る程度で、調味料などは一切使用しない。
明るい光の中、綺麗に盛り付けられた野菜サラダを食べる女の子。
写真として切り取れば何ひとつ不審な点は無いだろうが、しかし健康的な咀嚼音がなぜか不吉な響きに聞こえ、私の食欲を更に低下させる。
「先生、食べないんですか?」
「あ、ああ」
呼吸をするのも避けたいような悪臭の中なのだ。私は買ってきた弁当を一口無理矢理に飲み込む。吐きそうだ。
古海君はわざわざ硬そうな繊維質部分を選んでいた。そのためだろうか。何度も何度も繰り返し咀嚼する。まるで牛のように。
あんなに噛み続けて疲れないのだろうか。腸内細菌に変質があったとしても、顎の筋肉に大きな変動があったわけでもあるまいに。
私は嫌な空想をする。この細菌と共生したまま何代か過ぎると、顎の能力が進化した新たな人類が誕生するのかも知れない。ははは。
全く箸の進まない私を古海君は心配そうに見詰め、おそらくは全くの好意から自らの皿を前に出した。
「良かったら、サラダ食べますか?」
食えるかっ! 私は泣きそうな思いを必死に堪えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます