第25話
やがて書斎は沈黙した。呼びかけを続けても反応は無く、私達はやむなく一度リビングに戻ることにした。
戻った獅子角を狩尾君が頬を膨らませて睨む。
「ししかどさん。瑠佳ちゃんにあんなこと言っちゃだめですー」
「む? しかしだな、サンプルを収集しなくては治療も出来ないでは無いか。そして、どうせ収集するなら研究も進めた方が合理的だ」
「だめですー」
にらめっこのような十数秒。極めて珍しいことに獅子角は困惑の表情を浮かべ、やがて降参の印に両手を挙げた。
「確かに状況の改善には結びつかなかった。認めよう」
狩尾君は私と獅子角を交互に見てから、ぺこりと頭を下げた。
「瑠佳ちゃんを助けてあげてくださいー おねがいします」
私と獅子角は顔を見合わせた。
「分かってる。なんとかする」
「このまま放置する積もりは無い。その点は約束しよう」
完璧な交渉術だと私は内心舌を巻く。
二人してそう答える以外、選択肢はあり得なかったのだから。
―――――
とりあえず窓を全開にして空気を入れ換えた。
狩尾君もやっとマスクを外せるようになる。
「それにしても凄い臭いだ」
獅子角の言葉に私はびくりとする。声は絞ってあるが、もし聞かれたら古海君の怒りが再燃しかねない。
「嗅覚の基本機能の一つは、有害な存在を感知して警告を与えることにある」
「ああ、そんな話をしたな」
「この臭いには何かこう、特徴が感じられる。腹に響くような」
その表現に私は同意する。首から上だけでなく、全身が震えるような感覚だ。
「古海君の体内に棲む細菌が強力な繁殖力を持っているとすると、それは従来型の共生菌、俺達の体内に居る細菌にとっては自分達の生存圏を脅かす強力な侵略者なのかも知れん。一つの仮定として、これは体内の細菌が発する警戒信号である可能性がある」
私はその謎論理に呆れたつつ、一応は真面目に作用を考えてみる。
こんな感じだろうか。
「古海君が持っている細菌が体内に入ると困る。だから、身体にそれを悪臭として認識させる。すると、身体がそこから遠ざかるようになる・・・・・・」
「腸内細菌が身体全体の行動をコントロールしようとしたら、それが一番スムーズだ。だから逆に、既に新たな細菌が優勢となっているルカ君自身はそれを悪臭として感じ無い。そう考えれば辻褄は合う」
私はなんだか、フランス革命やロシア革命にまつわる歴史を連想してしまった。
共和制や共産主義。新たな論理により作動する政治体制は、従来の既得権者にとってはひどく危険な存在だった。
自らの国家がその『毒』に染まらぬため、周辺各国の人々はその政治思想を伝染病に例え、その流入を防ぐため、ありとあらゆる手段を使用した。
我々は今でこそ民主主義を当然のものとして扱っているが、誕生した当時、それはおそろしく『酷い臭い』のする存在とされたのだ。
新たな異分子が内部に入るのを防止する目的で。
「古海君は細菌によって自分の味覚を変質させられ、野菜ばかりを食べるように仕向けられた。私達は嗅覚だ。それによって、いつの間にか自分の行動に制約を受けざるを得ない状況になっているのか」
「うむ。味覚や嗅覚の変質というのは一見地味だが、こうしてみると行動のコントロール能力としては中々に侮れんな」
それはまさしく国内における反対派が強硬な政策を主張している状況そのものだった。その活動によって、国家全体の選択肢が狭められてしまうような。
「ともあれ、ルカ君を治療するにしてもサンプルが無ければ話にならん」
それはそうだ。どちらにしても、まずはそこから始めなければならない。
「説得については江戸里の方が適任だろう。俺は力になれん。戻って、入手後に打てる手立てを考える」
それは極めて妥当な意見だったが、私は心の奥底で疑念が湧きあがるのを抑えきれなかった。
おまえまさかこの臭いの中に居るのが嫌で、逃げ帰るつもりじゃあるまいな。
いや、もちろん。それが自分の邪推だとは分かっていたけれども。
車に乗る獅子角を狩尾君と二人で送る。
「何かあったら連絡してくれ。必要なら物品や資材は独断で取り寄せて構わん。領収書も不要だ」
そう言ってから、ふと思い出したように付け加える。
「江戸里、実は少し気になることがある」
「なんだ?」
「少し前から、ルカ君からお前に対するボディタッチが増えているように思える」
私は心の中で呻く。
確かにその傾向はある。獅子角はなんだかんだで観察眼が鋭いというか、こういった細部については本当によく見ているのだ。
「色々あって不安だったからだろう」
「それだけならば良いが」
獅子角は不穏なことを言い出した。
「念のために注意しておくぞ。ルカ君は、江戸里をあの細菌に感染させようとしている可能性がある」
狩尾君が抗議の声をあげた。
「瑠佳ちゃん、そんなことしませんー」
「言い方が悪かった。悪意を持って感染させようとしているという意味では無い」
「だったら、どういう意味なんだ」
獅子角はあくまでも真剣だった。
「身体の接触は最も確実な細菌の伝播法だ。新たな細菌は、出来るだけ自らの生息域が拡大する方向に身体をコントロールしようとする。その結果、彼女が無意識にその手伝いをしているという可能性だ」
さすがにそこまで言うのはどうかと思った。
「細菌が彼女を操って病気を広めようとしているだと? 彼女にだって意識はあるだろう。それじゃまるで意志を支配されたゾンビじゃないか」
「違うぞ、江戸里」
獅子角は強く断定する。
「第一にルカ君は病気では無い。第二に操られているというよりも、むしろそれが人としてスタンダードな行動だ。人間は親しい存在に触れて、自分が保有する細菌を相手に渡そうとする習性がある。互いを仲間と認識するためには、同じ細菌を保有することが必要なのだ」
そんな馬鹿なと思いつつ、私はその説を笑うことが出来ない。
「人と細菌はずっとそうやって共生してきた。それにだ。ルカ君が不安になるとすれば、その原因は何だ?」
私は必死に答えを探す。
彼女自身は悪臭を感じていない。体調の悪化もない。ならば。
「自分が周囲と違う存在だと感じるからだ。まだ強くは意識していないと思うが、やがては社会からの孤立を感じるだろう」
私の答えに獅子角が頷く。
そして、そこから導き出される恐ろしい結論を示した。
「ならばその時、仲間を欲しがる筈だ。今は漠然としたものだとしても、やがて明確な方向性を持つに違いない」
待ってくれ。私は本格的にゾンビ映画を思い出してしまった。
どこかで、肉親や恋人を優先して感染させようとするシーンがあった気がする。あれは何というタイトルだったろうか。
「人としてのルカ君にとっても、体内に棲む細菌にとっても。お前を感染者にすることには巨大なメリットがある。だから気をつけろ」
冗談ではなく、シリアスな危険性として認識すべきだ。私はそう考えを改める。
「分かった。考慮しておく」
「どちらにせよ対策が必要だ。感染力が強い可能性を考慮して、マスクと手袋の着用をすべきだ。直接接触は厳禁、小まめにアルコール消毒をしろ。トイレもだ。環境中に流出させるのはまずい。災害用の簡易トイレ、あれを用意してくれ」
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