第24話
とりあえず科学的な分析をしなければ対応のしようがない。まずはそこから始めようと話がまとまりかけた頃、借家の敷地に入ってくる高級電気自動車が見えた。獅子角だ。
正直なところ途方に暮れていた私はほっとする。これでなんとか打開策が見つかるかも知れないという期待を抱いて。
しかし、私の考えは甘すぎた。
借家の扉を開けた瞬間、獅子角が大声を上げるのが聞こえた。
「うわっ! なんだこれは!!」
私は思わず古海君の顔を見た。眼が怖い。
服の袖で鼻と口を覆いながら、獅子角がリビングに入ってくる。
「江戸里、何があった。窓を開けてくれ」
私が説明を始める前に、獅子角がまくしたてる。
「良くこんな部屋に居られるな。今まで感じたことが無いような凄まじい臭いだ」
やめてくれ。私は心の中で叫ぶ。しかし、獅子角は止まらない。
「単なる異臭と言うよりも、身体が警戒感を覚えるような感覚だ。早く処置しておかなければ、家全体が汚染されるぞ。なぜ対応しようとしないのだ?」
獅子角に悪意があったわけではない。
私だって、いきなりこの部屋に入ったら同じ反応をしただろう。
しかし、当然の結果として古海君の怒りが燃え上がる。
事前に説明をしておくべきだったと後悔しても後の祭りだ。もちろん私にだって言い分はある。ここまで彼女を宥めるのに必死で、そんな時間は取りようが無かった。しかしそれでも、他に何か出来なかったのかと思わざるを得ない。
「よくもそんなこと言えますねっ! 人体実験で人をこんな風にしておいて!!」
激しい怒りをぶつけられ、獅子角はきょとんとする。
私と狩尾君の視線から何かを感じとったのだろう。鼻から微かに空気を吸って確認をする。パントマイムのような動きが繰り返された。そしてようやく、臭いの元が古海君であることを理解したらしい。
獅子角は黙ったまま台所に進んだ。水道の音が聞こえてくる。
やがて鼻と口に濡れたハンカチを当てた格好でリビングに戻り、冷静に椅子に座った。
「状況が分からん。江戸里、説明を頼む」
―――――
私はまだ怒りのおさまらない古海君を横目に見ながら、知っている限りのことを話した。足りない部分を狩尾君が補足する。しかし結局のところ、原因不明でいきなり悪臭がするようになったこと、そして古海君自身はそれを感じられないということぐらいしか情報は無い。
「成程。現時点で分かるのはそこまでか」
そして、またしても獅子角は余計なことを言い出す。
「それにしても、ルカ君の言っていたことは正しかったようだ。これだけの悪臭では危険物と判断されて、強制隔離の対象となっても無理は無い」
「ひ、ひどい」
古海君が声を震わせる。
「スメハラという概念も理解できた。これはまさに暴力と言って良いレベルだ。あのときは済まなかった、こちらの考えが浅かったようだ」
念のために記しておくと、獅子角は決して皮肉や嫌味を言っているのではなく、本気で自らの間違いを認めて謝っているつもりなのである。しかし、当然ながら古海君はそのようには受け取らなかった。
「差別、人権侵害です! 人を人体実験に巻き込んだ挙げ句、悪魔ですか!!」
「あれは事故だ。俺が意図したものでは無い」
獅子角の弁は正しい。裁判所なら最終的にその主張を認めるであろうし、私自身、事故の原因は自分にあったと証言をしても構わない。あれは獅子角の罪ではないのだ。
しかし、怒り心頭の被害者を前にして、口にすべき台詞ではなかった。
「ふざけないでっ!!」
「ふ、古海君。落ち着いて」
「えど先生だって! わたしが病気になっているのに、どうして心配してくれないんですか!!」
「待ちたまえ」
獅子角が冷静に告げた。
「ルカ君、君は病気では無い」
予想外の一言に部屋の全員が固まる。
「現時点で君自身の健康に悪影響は認められない。繊維質をエネルギーに変換する効率が高いとすれば、それはむしろ生存にとって有利な能力だ。臭いというものが個々人の嗜好でしか無い以上、医学的に言えば治療の必要は全く無いという評価もできる」
おい馬鹿、やめろ。
私は思わず叫びそうになった。これまた獅子角の言っていることは正しい。理屈としては正しいのだが、この場でそれを許容して納得できる人間は私ぐらいしかいないのだと、そんな単純な事実をなぜ理解できないのだろうか。
「どうだろうか。俺としては第三者への感染防止の措置をした上でこのまま経緯を観察し、サンプルの収集に進むのが合理的だと思うのだが」
ぶちり。そんな音が聞こえたような気がした。
「ぜ、ぜ、絶対に許せないっ!」
古海君が声を裏返して立ち上がる。
「この人がわたしの身体を使って研究成果なんて発表したら、自殺します。せんせぇを殺してわたしも死にますから!」
ちょっと待ってくれ。落ち着きたまえ。
何故私が殺されなければならないのだ。
古海君が突然駆けだした。家の奥に向かって。
「古海君!」
立ち上がって追いかけるが間に合うはずもなく、彼女はこの家でたった一つ鍵の掛かる部屋に。すなわち書斎に閉じ籠もってしまった。
必死にドアを叩いて呼びかける。
「落ち着け! 早まるな!」
中から古海君が声を上げて泣き出すのが聞こえた。
大丈夫だ。私はそう確信する。
歳を取ることの嫌な面である。この泣き方にはまだ余裕が感じられる。いきなり本気で自殺する様子とは思えない。
「古海君、開けてくれ!」
心中密かに安堵しつつ、私は呼びかけを続ける。大丈夫。時間を掛けて落ち着くのを待てばなんとかなるだろう。
しかし、そんな悠長なことをしていられないという事に気づいた。書斎の中には、お気に入りの本や仕事に使うPCが置いてあるのだ。このまま居座られたら、それらはどうなってしまうのか。
もしあの臭いが染みついたら。
「古海君、開けてくれ!!」
私の叫びに力がこもる。古海君は泣き止まない。扉は閉ざされたままだ。
ああ、無理だ。これは当分開かない。それを悟りつつ、私は必死になって語りかけた。反応は無い。
「あー、江戸里」
いつの間にか背後に立った獅子角が、声を潜めて言った。
「発生した金銭的な損失については補償しよう。除染費用もだ」
そんなことを話している場合かっ!
私はそう言おうとした。今大切なのは、古海君に対する心のケアなのだと。
しかし。
「すまん、恩に着る」
なぜか私も声を潜め、そんなことを口走っていた。
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