第23話
翌朝。携帯の着信音で私は眼を覚ます。
画面には狩尾君の名前が出ていた。私は意外に思う。SNSではなく、直接の電話が来るなどということは一度も無かったのだ。
応答の文字に触れると、電話口から、はあはあと息を弾ませた声が聞こえてきた。
「せんせい、瑠佳ちゃんを助けてくださいー!」
普通では無い口調だった。私は慌ててそれに応じる。
「どうした? 何があったんだ」
「今、自転車でそっちにむかってます~」
私は戸惑う。自転車で? この坂を登って?
「あー、すまないが元気なんじゃないのか、それ」
学校からこの借家まではだらだらとした登り坂が続く。体調が悪いまま走り切れるようなコースでは無い。
「元気です。元気ですけど、たいへんなんですー」
元気だけど大変とは何なのか。
どうにも話が理解出来なかったが、自転車に乗ったままの学生と会話を続ける訳にも行かなかった。待っているから直ぐ来るようにと伝えて電話を切る。
私はそのまま借家の前に出て二人を待った。やがて道を上る二台の自転車が見えてくる。しかし、その様子が少しヘンだ。季節は夏だと言うのに古海君はレインスーツ、あるいは実験で使ったサウナスーツのようなものを着ている。あんな状態で自転車に乗ったら、暑くてたまらないだろうに。狩尾君の様子もいつもとは違っている。近付くにつれてその理由が分かった。あれは、マスクか。狩尾君はマスク姿で自転車を漕いでいた。
私の前で相次いで自転車が止まった。
「えどせんせい~」
狩尾君がまず私に駆け寄る。
「瑠佳ちゃんが、瑠佳ちゃんがたいへんなんですー」
ひどく混乱し、慌てた様子は分かるのだが、一体何が原因なのか分からない。
「落ち着いて、まずは何がどうなっているのかを教えてくれ」
その瞬間、私は思わず仰け反った。息が出来ないほど激しく咳き込む。
「こ、これは?」
率直に言おう。
臭い。恐ろしく臭いのだ。腹に響くような、形容しがたい異臭。
そしてその異臭は、間違いなく古海君から漂っていた。
顔を顰めた私を見て、古海君が驚く。
「そんな! 悠里の冗談じゃないなんて……」
なんだか分からないままではあるが、どうにかしなければいけないことだけは良く分かった。
「とにかく早く中に。シャワーを浴びた方がいい」
そう言った私に、泣き出しそうな表情をした狩尾君が首を横に振る。
「違うんです~ さっきからずっと洗っているんですー」
混乱した表情で古海君がそれに続いた。
「悠里が、変な臭いがするって言うんです」
奇妙なことを言う。私はそう思った。これだけの悪臭だ。気づかない訳はないだろう。
しかし古海君は真剣なまなざしのまま、言った。
「でも、でも私には何も感じられないんです!」
―――――
パニックを起こしかけている様子の古海君をなんとか宥めて家の中に入れる。念のためにとシャワーを浴びて貰ったが、臭いは一向に収まらなかった。体表では無く、彼女の身体の中から湧き出ているとしか思えない。
率直なところ耐えがたいレベルの悪臭ではあったが、まさかそれを口にする訳にもいかない。私は自制心と忍耐力の全てを動員して平静を保ち、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。流れる豆の香りに集中し、コーヒーの香りは素晴らしいと心の中で連呼する。
二人の前に置こうとしたが、狩尾君が首を横に振る。
「わたしは要らないです~」
視線から状況を察した。古海君の側でマスクを取りたくないのだ。とは言え、まさかその言葉を口にする訳にもいかないだろう。
私はごく自然にカップを引っ込めた。
「冷たい物の方がいいか。冷蔵庫に麦茶があるから、そっちを飲むと良い」
「はいー」
狩尾君の態度が冷たいとか、薄情だとは思わなかった。そういう類いの人間なら、そもそも一緒にここまで同行しなかっただろう。それほどまでに強烈な臭いなのだ。
狩尾君は台所に向かった。ガラス戸一つとは言え、あるとないでは大違いだ。なんとかマスクも外せるだろう。
私はふと古海君の様子に気づく。
「古海君も冷たい物の方がいいか。狩尾君、ボトルごと持ってきてくれ」
考えてみればあんな格好で自転車に乗って、更にはシャワーだ。やはり冷たい物の方がいいに決まっている。自分がこの臭いから少しでも逃れることばかり考えていたので、そんな当然のことにも気づけなかったのだ。
麦茶とコップが運ばれた。喉がカラカラだったのだろう。古海君が勢いよく三杯目を飲み干した後で会話が始まる。
「一体、どうしてこんなことになったんだ?」
「瑠佳ちゃんのぐあいが悪そうだから、夕べはお部屋におとまりしたんですー 夜、なんだか変な感じがして目が覚めたら、瑠佳ちゃんの身体から~」
その先の言葉を狩尾君は濁した。
「言っても瑠佳ちゃんにはわかってもらえなくて~ お風呂入っても治らなくてー」
「でも、わたしには何も感じられないんです。本当に」
古海君の様子からして、嘘を言っているようには思えない。
どういうことなのだろうか。確かに自分の臭いは知覚しづらい。しかし、ここまで酷い臭いが感じられないというのはさすがにおかしい。
私はコーヒーカップを差し出した。
「ちょっと嗅いでみて欲しい。コーヒーの香りは分かるだろうか」
古海君はカップを受け取り、それを口のそばに持って行った。
「いつもの、先生が淹れるコーヒーですよね。分かります」
してみると、鼻が利かなくなっているという訳でもないらしい。
古海君は、大真面目な顔で私に確認をした。
「先生。本当に、本当に私から臭いがしているんですか?」
私は古海君の顔をまじまじと見る。本気だ。
彼女は本当に何も感じ取れていないらしい。
「あー、ええと、だね」
私は逡巡する。事実を伝えるべきか否か。しかし冷静な検討の結果、嘘をついても何にもならないと結論づけざるを得なかった。
「すまない。正直に言って、かなり臭う」
これでも一応は気を遣ったのだ。かなり、どころではない。本当ならば『物凄い』とか『頭が痛くなるほどの』という形容詞を付けるべき状況である。
しかしそれでもやはり女性としてはショックだったのだろう。傷ついた表情を伏せて、古海君は絞り出すように叫んだ。
「そんな、どうしてそんなことにっ!」
それはこちらも知りたいが、心当たりはたった一つだ。
「やはり腸内の細菌が何か影響を及ぼしているのかも」
「だったら、早く治してください!」
「いや、そうは言われてもどうすべきか」
私は医学の専門家ではない。治せと言われて直ぐに治せるわけがない。しかし、その一言が古海君を怒らせてしまった。
「他人事みたいに! えど先生が私を巻き込んだんじゃないですか!!」
泣きそうな瞳で私を睨みながら、腕をつかむ。
「責任取ってください」
せ、責任と言われても。
「先生が私の身体をこんなにしたんだから、きちんと責任取ってください!!」
私はオロオロしながら、あの時の一言を思い出さざるを得なかった。「できればこのまま助けて欲しい」私は確かにそう言った。つまり。
私が、古海君に、参加を頼んだ。
外形的には間違いなくそれが真実である。あれは私の内部の何かが発した一言で、私の意識としては反対だったなどという弁解など言えようはずもない。私自身が陪審員だったとしても、絶対に有罪を宣告するだろう。
「瑠佳ちゃん、その言い方なんかえっちです~」
そう言われて私達は自分達の状況に気づいた。
責任を取ってと叫ぶ若い女の子と、腕をつかまれてたじろぐ三十路男。まるっきり不倫の果ての痴話喧嘩スタイルである。まじまじと見られて恥ずかしくなったのか、古海君がそっと手を離した。
私はなんとか一息つくことが出来た。主に物理的な意味で。
古海君に身体を寄せられると、臭いで呼吸が困難になるのだ。
「す、少し落ち着いて話をしよう」
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