六滴 Wonderwall (reprise)
冬の冷たい風を受けて頬が真っ赤になった頃、私はようやく図書館に到着した。時計の針は夕方の六時三〇分を示していた。広尾のこの図書館に通うのも、今日で最後だ。一瞬だけ、藤野さんの猫顔がふっと脳裏に浮かんだ。浮かび上がった目の鋭い藤猫をすぐに心の練り消しゴムで消そうとした。
いつも通り正面エントランスでIDカードを受け取り、コインロッカーで必要以外の荷物を預け、三階の人文科学系の蔵書コーナーへと向かう。閲覧席の窓際奥から数えて二番めの席が私の特等席になっていた。
何もかもがいつも通りだった空間に、一つだけ異質なものが置いてあるのが目に入ってきた。いつか私が藤野さんに持ってきたルネ・マグリットの『ピレーネーの城』を表紙にした画集が、窓際奥から二番目の机の上に放置されたままだった。私は何となくそれを手に取ってページを捲り始めた。表紙の『ピレーネーの城』が載っているページを開くと、何かが挟まっている。二つ折りにされたメモ帳に、黒猫の絵が描かれていた。藤野さんが書いたものだとすぐに分かった。ひったくるようにして黒猫の手紙を掴むと、私は大急ぎで図書館の三階閲覧室から駆け出した。窓の外には白い粉のような雪が降りそそいでいた。
広尾の商店街の中央を走るメインストリートをずっと進んでいくと、猫好きで一風変わった画商が営む古びた画廊がある。跳ね上がった髪の毛が肩を何度も叩きつける。迷子猫堂と名付けられたその画廊の前に、ぼんぼん付きの黒いニット帽を被ったひどく細身の青年が立っていた。
「藤野さん」
全力で駆け出した私が画廊の前で止まる。いつかの時のように膝小僧に手をついて上下に肩を揺らす。画廊の三階にある洋窓を眺めていた藤野さんが、ゆっくりと振り返った。口を開かないで笑った。それはギリシャ彫刻を思わせるような神秘的な微笑みだった。
「手紙、もし届かなかったら、どうするつもりだったのですか」
やっと彼の顔を見上げて話せるようになった。
「僕はわりと強運の持ち主だから、万が一の可能性に賭けることにしたんだ。駄目なら駄目で、それでも良いと」
ゆったりとした動作で私の方を向き直した。紺色のダッフルコートが雪にまみれていた。猫の爪で引っ掻いたような三日月が粉雪の間から覗いている。
「でも、来てくれた」
藤野さんと私は、何度も逢っていたのに、ここで初めてきちんと向き合えたような気がする。
「知らないおじさんが来た方がオチとしては面白かったかもですね」
藤野さんは握った右手を口に当てて吹き出した。そしてこの時に初めて、私は彼の前で笑えた気がした。
相変わらず前髪が長い。目つきも良いとは言えない。だけど、彼の端っこがにゅっと上がった口と、大きくて鋭い猫目は、私の大好きな男性の特徴である。
「僕の新しい絵、見てく?」
迷子猫堂の三階には小さな個展用の部屋がある。水ばかり描いた絵のなかに一つだけ、海と宇宙と、猫が描かれた絵が仲間入りした。
水しか描けない Rewrite Ver. 2020 66号線 @Lily_Ripple3373
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