My Black Cat Made Of... (下)


 走り疲れて近くの公園のベンチに腰をおろした。流れる汗の量が尋常ではない。もはや自分の吐く息が寒くて白いのか、それとも過呼吸ぎみで白いのか分からなくなっていた。遠くから深大寺が鳴らす鐘の音が聞こえる。クリスマスには合わない和の音色にトージが病院に運ばれた日の記憶を呼び起こされた。神代植物公園に初めて行った日からしばらくしてトージは倒れた。バスケットで鍛えた彼の快活な身体は日に日にやせ細っていった。

 消毒液臭い病室で、医者にいつまで生きるか分からないと告げられてから先は記憶が無い。気がつけば深大寺の前にある蕎麦屋に私はいた。かつて彼が行きたいと言っていた店だった。あんなに苦くてしょっぱいたぬきそばの味を私は一生忘れない。

 「深大寺は深沙大王さまをお祀りしていてね、お参りした恋人たちを末永く守ってくださるんだよ」

 トージが言っていた言葉がよみがえる。震える指で会計を済ますと、私は蕎麦屋の店主に教わった道を行き深沙大王堂へと向かった。思っていたよりも小さなそのお堂に私は手を合わせ、拝んだ。拝んでは遠ざかり、またお堂に向かっては拝んだ。いつの間にか、お百度参りの真似事のようなことをしていた。履いていたサンダルはとっくに草むらへ飛んでいた。無防備な足からは血が流れた。

 お願いします。彼を守ってください。お願いだから。

「神代植物公園ではそろそろサザンカが見ごろかな」

 力なくつぶやいて笑う恋人の顔が頭から離れなくて、泣いた。



 公園のベンチで長い間ひとり座っていた。風船相手に自分が何をしていたのか考えると情けない気持ちになった。しょせんはニセモノ、ホンモノではない。友人と歩く、いるはずのないもう一人のトージに思い知らされた。雪が降ってきたのが頬に触れる冷たいものでわかった。

 すぐ近くから男の子が泣く声が聞こえてきた。

「坊や、どうしたの。迷子にでもなったの」

 私は仲間を見つけた気持ちになって尋ねた。

「飼ってた猫が死んじゃったの」

 男の子の足元には、子猫が一匹やっと入れるくらいのお墓があった。傍には赤い首輪が添えられていた。

「クリスマスに一緒に遊びたかったのに」

 私はポケットに入っていた余りのクリエイティブバルーンを取り出し、こう言っていた。

「これは魔法の風船なの。逢いたいモノを想って膨らませれば風船が変身してくれるの。やってみる?」

 ホンモノではないけど。言いかけて言葉を飲み込んだ。男の子は小さくうなずくと風船を口にくわえた。みるみる黒い猫のかたちに変わっていく。

「クロ!」

 男の子はクロと呼ばれる猫を抱き締めた。みゃぁとクロが鳴いた。すっかり元気を取り戻した男の子はクロと追いかけっこを始めた。私は、自分でも気付かないくらいささやかに笑って彼らを見つめた。気づくと、そばにトージがいた。

「ハルは優しいね」

「違うよ。バルーンは一日で消えるんだよ。クロが消えたら、あの子は二度クロを失うことになる。二度悲しむ。こんなの、本当の優しさじゃないよ」

「それでも、逢いたい人に会う権利はみんな持っているでしょ。たとえニセモノでも、逢いたいと願う気持ちがあればそれはホンモノだよ」

 トージは私の涙を拭いながら言った。

「クロもあの子にまた逢えて嬉しいと思う。俺がまたハルに逢えて嬉しかったように」

 雪は強くなっていった。クロと男の子は雪だるまを作り始めた。白い雪の上に黒猫は映える。私は無言で、柔らかくトージの手を握った。筋張っていて、どことなく繊細な手が握り返してくれた。指先から体温と一緒に幸せが流れ込んでくる気がした。

「独りにして、ごめんね。ありがとう。楽しかった」

 最後にトージは私の大好きな笑顔を見せてくれた。抱き合って、私のバルーンの彼氏はしぼんだ。


「ねぇ、クロはすぐ風船に戻っちゃうけど、寂しくない?」

 私は男の子に訊いてみた。

「大丈夫。僕は信じてるよ。クロが大好きだからまた逢えるって」

 男の子は笑って答えてくれた。クロも喉を鳴らす。

「あ、風船だ」

 役目を果たしたクリエイティブバルーンが冬の夜空に昇っていく。白い雪の降るなかでカラフルな風船たちが空へ舞い上がる。遠くに星も輝いている。天国にいるクロやトージにもこの不思議な光景が見えるだろうか。

 私はコートのポケットに両手を突っ込んだ。指先に何かが触れた。引っ張り出すと泥のついたダイヤモンドのネックレスだった。

「宝物、見つけたよ。もう二度と失くすなよ」

 トージの声が聞こえた気がした。

 神代植物公園の枯れたように見えるバラたちも、季節がめぐれば再び大輪の花を咲かせる。私たちはきっと生きていける。また再び出逢える日が来るまで。

「お姉ちゃん、空が綺麗だね」

「うん。本当に」

 私と男の子は、白い雪と魔法の風船が織りなす奇跡を飽きることなく眺めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バルーン彼氏 66号線 @Lily_Ripple3373

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説