願いと罪の果て

「手短にお願いします」

 階段を降りると、そこにも武官の姿があった。彼に黙って頷きを返し、歩く。

 右手に座敷牢が三室並んでいる。その一番奥に蘭は囚われているという。

 一室目にも、二室目にも誰もいない。そして三室目。

「蘭ッ……‼︎」

 息を飲む。

 その座敷牢の中、木製の格子の向こうに横たわっているのは、蘭だった。しかし、身に付けている小袖袴はひどく損傷し、破れた所から覗く肌は赤黒く血の痕が滲んでいる。手や顔にも幾筋もの裂傷が走り、赤く醜く腫れ上がったその顔は、輪郭の形すら歪んでいた。

 そしてその顔には、うっすらと笑みを浮かべている。もうその瞳はどこも見ていない。焦点の合わない、茫洋とした光のみ。

 以前の蘭の美しい姿など、もう見る影もない。

「蘭……!」

 両手で格子をつかむ。目の前が一瞬暗くなり、酷い眩暈がした。なんでもいいから支えてくれるものがなければ、その場にくずおれてしまいそうだ。

 蘭の身体に刻まれた傷が、罰の厳しさとむごさをまざまざと見せつけて来る。それなのに、笑みを浮かべている蘭が、恐ろしく気味の悪いものに見えた。そして、そんな自分の感情に吐き気を催す。

 こんな姿になってまで、そうまでして彼女は黙していたのか。真実を吐けば、ここまで鞭で打たれ続けることはなかったのに。

 ぞっとした。蘭は三日三晩打たれ続けたのだという。それほどになってまで……。

「蘭、ねえ蘭、返事して……」

 ふり絞った声も、蘭には届いていないようだった。桜の方を見もせずに笑っている。そのことに、涙があふれ出した。

 大好きだった。大切な、もう一人の姉妹だった。桜をいつも見守り、慈しみ、愛してくれた。

 こんな結末など望んでいなかった。幸せになれるはずだったのだ。蘭も、桜も。ただ、それだけだったのに。

 ——桜姫、柑子殿は賢君でいらっしゃいますわ。姫の誘いにはお乗りにならないと思います。ここは、蘭が……。

 ただ、桜の願いを叶えてくれようとしただけだった。

 蘭に打ち明けなければ、彼女は何も知らず暮らして行くことが出来たのに。こんなことになどならなかったのに。

「蘭、正気に戻ってよ蘭! こんな、こんなこと……あ、謝ってよ! 謝ってみせて……」

 謝らなくてはならないのは、蘭ではなく自分だ。謝っても謝っても取り戻せない過ちを犯した。

 陵駕を恋うていた。どうしても諦めきれないほどに。命をかけてでも側にいたいと思うほどに。

 だけど、かけていい命は自分のものだけだ。そんな当たり前のことに、こんなことになるまで気が付けなかったなんて。

「ねえ蘭、聞こえないの……?」

 情けないほど声が震えた。その桜の声に反応したかのように、蘭が首を巡らせる。しかし、その瞳は桜を捉えられない。腫れ上がったまぶたの下で、その瞳が痙攣するかのように揺れただけ。

 そして、何事か口を動かし、笑みを浮かべる。

「蘭ッ」

 格子の隙間から手を伸ばすが届かない。

 涙がとめどなくあふれる。桜は陵駕と結ばれることは叶わなくなり、蘭は正気を失い、桃は陵駕と逃げてしまった。逃げ切れるはずもないのに。

 こんな結末があるだろうか。こんな、誰も救われない結末が。

「蘭、お姉様は陵駕殿に攫われてしまったのよ。もし禁忌を犯していたら、柑子殿はきっと二人を捕まえて処刑しておしまいになるわ……」

 まだ正式な親子というわけではない。しかし、九日後にはそうなる予定だった。周りも、二人を親子とすることを認めている。もう、ほとんど親子のようなものだ。

 柑子は、東雲を亡くしたせいか、血が濃くなることを許容できないでいる。血の遠い義親子なら禁忌とはしないなどという、寛容な対処をするとは思えない。むしろ、示しをつけ見せしめにするために二人の処刑を行おうとするはずだ。

 柑子は、自らの愛した女人さえ、鞭打つことを命じることが出来る男なのだから。

 桃はかけがえのない桜の半身で、陵駕は心から愛した人で。その二人が、この桜の宮で処刑されるかもしれないなんて。

 二人は命をかけて逃げるほど、愛し合っている。ならば、禁忌を犯さぬはずがない。

 逃げ切れるなどと思っているのだろうか。

「姫」

 控えめな声が後ろからかかる。先程の武官だ。

「姫がその者を慕っておられるのは承知致しておりますが、その者は罪人。もうそろそろ」

「いや……」

 どんなに泣き叫んでも、蘭はもう桜を見ることはない。それがわかった今、いくらここにいたとしても無駄だった。

 むしろ、悲しみや苦しみが増すばかり。

 それでも離れることが出来ない。ここを去れば、もう蘭と会うことは叶わないだろう。家主を刺し謀反を起こした者の末路はわかりきっている。

「姫、お聞き分け下さい」

 武官の手が肩にかかり、桜を格子から引き離そうとした、その時。

「さくらひめ」

 歌うように美しい声が響いた。それは野に咲く可憐な花のような、その花を愛でる清涼な風のような。

 そして、慈しみ深い澄んだ声。

「蘭ッ‼︎」

 この声を聞き間違えるはずはない。ずっと幼い頃から馴染んできた蘭の声‼︎

「まさか……」

 武官も絶句している。

 その二人の目の前で、蘭がゆっくりと横たわった身体を起こして行く。そして桜の方へ顔を向けた。

 ゆっくりと広がる笑み。

 今となっては醜いだけでしかない、けれど以前なら蘭が一番美しく輝いたであろうほほ笑み。

「桜姫」

「違う……」

 その瞳は、桜を捕らえられない。焦点が合わず、桜をこえてその向こうの何かを見ているような視線。

 そこにないなにかに向かって伸ばされる、血にまみれた腕。

「蘭は幸せです。柑子殿はお慕いしていましたけれど、でも、今の方が幸せですわ」

「蘭⁉︎ なにを言っているの……?」

「こうして桜姫もわたしも、愛する人の側で生きられるようになりましたものね」

「蘭、駄目ッ」

 蘭が見ているのは、叶うことのなかった、あるはずのない幸せ。桜が、蘭が、愛のために欲した願いの先。

 それ以上言われたら————。

「姫? 桜姫、どういうことでしょうか」

「いいえ、いいえ違うの」

 首を振って武官を見上げる。しかし、その顔は険しい。

「桜姫、蘭はお役に立ちましたか? またなんでも言いつけて下さいね。なんでもいたしますから」

 蘭は笑っている。赤黒く腫れた顔で。表情すら作れないほど変形した頬を、それでも上げて。

 その姿が、桜の胸を抉る。罪の意識を責め立てる。

 気がおかしくなるまで耐えた蘭。決して漏らすまいとこんな姿になった蘭。それなのに、その蘭の口が桜を断罪する。

「まさか、桜姫が柑子殿をほふるようお命じになられたのですか」

「ち、ちが……」

 声が出ない。

 武官が一歩桜に近づく。後ずさりしたものの、その背は格子に阻まれた。その向こうには、痛々しく醜い血に染まった蘭。

 桜のうちぎが引かれた。ふり返ると、這うように近づいた蘭の手がつかんでいる。

「蘭……」

「貴子姫も、柑子殿もお気の毒でした。でも、桜姫はご心配しなくていいのですよ」

「え……?」

 貴子。何者かに殺められた桜の祖母。

 どうして今、蘭の口からその名前が⁉︎ まさか。

 蘭は桜の袿を格子の間から引っ張り、眺めて頬ずりをした。その口が動く。

「幸せのためには仕方なかったのです。友魂ゆうこん殿もそうおっしゃってくださいましたから」

 まさか貴子を手にかけたのは蘭だとでも⁉︎

 友魂が仕方ないと言った⁉︎ 知らない、そんな話は聞いていない‼︎

「友魂殿? まさか、友魂殿と結託されて貴子姫まで屠ったのですか、姫」

「ちが、違う、貴子様のことなんて聞いてないわ‼︎」

「では、やはり柑子殿は桜姫がお命じになったのですね」

「————ッ」

 嵌められた。貴子のことを聞いていないのは事実だ。知らなかった。しかし、それを口にすることで、柑子のことは知っていたのだと告白することになってしまった!

「姫、しばらく姫も牢に入っていただかなくてはならないようだ」

「い、いや、違うの! 蘭は気がおかしくなっているのよ、その言葉を信じるというの⁉︎」

 大好きな蘭。自分のせいで、想像を絶する地獄を味わい、人生が終わろうとしている蘭。その蘭を目の前にしても、この先の自分の行く末の恐怖が勝る。

 自分の非道さに眩暈がした。

「たとえ違ったとしても、疑いがかかっておりますから。それが晴れるまでは出ていただくわけにはまいりません」

「そんな……」

 疑いなど晴れるわけがない。利害の一致があったとはいえ、柑子を屠るように命じたその一人は桜なのだから。それは真実なのだから。

 こんなことになるはずではなかった。幸せになれるはずだった。

 そして、友魂の手で桜の宮はもっと住みやすい、いい場所に生まれ変われるはずだった。重すぎる罰則や意味の無いしきたりを廃して、新しい時代を作るその礎が築かれるはずだったのだ。

 陵駕は父を敬愛し、友魂と同じ考えを持っていたという。陵駕が家主を継げば、きっと父の助言を受け入れ力を合わせて改革を進めてくれたはず。その隣に、桜を置いて。

(わたし、どうなってしまうの————)

 家主の命を狙った、これは立派な謀反行為。失敗すれば死罪。わかっていたことだった。だから友魂にも、覚悟はあるのかと問われたのだ。

 覚悟なんてしたつもりだった。それでも、身体の芯から恐怖が這い上り、震えが止まらない。

「友魂殿が、陵駕殿の妻になれるように取り計らって下さるって‼︎ だからッ」

 もうなにもわからなかった。なにもわからずに、真実を泣き叫ぶ。

「陵駕殿の妻になりたかったの————‼︎」

 それしかなかった。柑子が憎かったわけではない。けれど、しきたりを重んじるその存在が邪魔だったのだ。

 形だけの叔母と甥の婚姻を禁ずるような、なんの意味もないしきたりなどなくしてしまいたかった。歪んだ貴族の世界を、人の手で優しくしたかっただけなのに。

 それなのにそれも叶わず、たった十七年で人生が終わってしまうなんて。

 これが、愛する者たちを不幸に落とした自分の、罪————。


   ◆ ◇ ◆


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