外が騒がしい。

 夕暮れ、すでに蔀も妻戸も閉じた。それでも、大勢の足音がこちらへ向かって来ているのがわかった。

 その音を聞きつつ、人払いを済ませた部屋で友魂は居住いを正した。

(来たか————)

 半々だった。こうなっても致し方ない。

 若い日、友魂は神を糾弾した。いや、その神の与えた力を利用して生きる貴族を。

 それを、その時家主を継いだばかりの柑子に押さえつけられ、一度は諦めた。貴族として、せめて臣民を守って生きていこうと思った。

 自分のことだけなら我慢が出来たのだ。しかし、同じような想いを持った陵駕をも、理不尽に押さえ付けられたことは我慢ならなかった。

 それなのに、その息子が優秀だと知ると、貴子も柑子も手のひらを返して来たのだ。次期家主に定め、またしても陵駕の自由を奪った。

 人をまるで道具のように扱う都合の良さに虫酸が走る思いだったのを、昨日のことのように思い出す。

 陵駕には、できるだけ桜の宮から離れて、自由に生きて欲しい。そう願っていたのに。

 その陵駕は、もう桜の宮にはいない。今朝、公務に出かけたまま出奔した。

 逃げ切れる可能性は低いと言わざるを得ない。それでも、彼を止めることなど出来なかった。その激情を、誰が知らなくても自分は知っているのだから。

 妻を娶りたい。陵駕がそう申し出て来たのは二年半ほど前のこと。東雲の容体が悪化し、息を引き取る少しだけ前だ。

 相手は葵の宮の姫。

 元々、陵駕の相手にと考えていたのは、甥である代赭の二の姫、桜だ。身分も釣り合う上、桜は神子みこ。申し分ない相手だ。

 しかし、陵駕の性格上、想う姫がいるのならば一緒になるのがいいだろう。そう判断したし、今でも間違いだったなどとは思わない。

 結果として、その姫を娶ることは出来なかった。急に相手の姫に縁談が持ち上がったのだ。

 そのまま、あっという間に姫は輿入れをしてしまった。あれが誰の差し金なのかわからないほど友魂は愚かではない。

 宿下がりして来た陵駕の、痛々しい姿。涙を忍ばせることも出来ずにいた息子を、誰が責められようか。

 そして、今回も。叶えられない二度目の恋に、その気持ちの整理を付けられずに苦しんでいた。桜の宮から出奔すると、そう言い出すかもしれないと危惧していたが、それは現実になったのだ。

 友魂は息子を止める言葉を持たなかった。自分が同じ状況になったなら、おそらく同じことをするという確信があったのだ。

「父上」

 夜が明け切らないうちに現れた陵駕の姿を思い出す。深緑の直衣のうし姿だ。そんな姿を見るにつけ、いつ見ても立派に育ったものだと誇らしい気持ちになる。

 目の前に腰を降ろし、真っ直ぐに見つめてくる強い瞳。

「お別れに、参りました」

 それは、もうひるがえらないだろう、決断の声だった。それに胸が詰まる。

 自分の元から手放した後でさえ、その聡明さで名を馳せた陵駕が誇らしかった。それと同時に、共に過ごせなかった時間がつくづく惜しい。

 こうして共に過ごす時間が出来たのも、束の間のこと。陵駕はこれから、もう引き返せない場所へと向かう。

「気は変わらないのか」

「はい」

「逃げ切れると思っているのか?」

 陵駕は優れているが、所詮はかしずかれて育った貴族だ。武芸だって授けてあるが、対人でそれを使った事はないだろう。

 追われたとして、逃げるために必要なこともわからない可能性すらある。考えが至らないこともあるだろう。

「そのつもりです」

「そうか」

 言いたいことはたくさんある。けれど、どんなに時間を使っても、それを言い尽くすことは出来ないだろう。

 恐らくは、これが今生の別れとなる。

「陵駕よ。貴族の誇りは捨てよ。逃げるなら、なにをしても逃げ切れ。つまらぬ外聞も恥も気に留めるな」

「はい」

 たとえ逃げ切っても、外での暮らしは厳しいものになるだろう。しかし、それは彼自身もわかっているはずのこと。

 もう陵駕は立派に育った。親心としては行かせたくなどないし、心配でしかない。しかし、一人の男として見るなら、止める理由もない。

「父上。ありがとうございます。そして、すみません」

「良い。其方の気持ちはわかる。私こそ、言いたいことはたくさんあるはずだが、どうも言葉が見つからぬ」

 流れる沈黙。

 お互いにもう、伝えるべき言葉を持っていない。それでも、この沈黙が親子の絆を雄弁に語っているようだ。

「父上、ひとつだけお願いがあります」

 やがて重い口を開いたのは陵駕だった。その瞳に宿っているのは、父親への親愛の情。

「なにかひとつ、父上の身に付けているものをくださいませんか」

「断る」

「父上!」

 陵駕の声が跳ねた。

 守ってやることすらできないでいる父を、それでも陵駕は敬愛してくれている。それがわかっているからこそ、その願いは叶えることは出来ない。

 すまないと思う。しかし、それが逃げるということ。

「其方は追われる身となる。追われる最中に、心を寄せたものを身に付けそれに心を奪われることはならぬ」

 はっとしたような顔で、陵駕がうつむく。言われていることがわかったのだろう。

 父の形見を持って行ったとして、それはただの荷物だ。その荷物を守りたいがために命を危険に晒すなど本末転倒だ。

「全部捨てて行け。この父さえも。捨てられぬというなら、今度は力ずくでも止めさせてもらう。むざむざ命を無駄にするようなことはさせぬ」

「父上……ありがとう、ございます」

 その声が震え、友魂の耳朶を打つ。

「其方は誇りだ。よくここまで立派に育ってくれた。本当は手放すのが心から惜しい」

 柑子心から認め、次期家主にと所望したほどの聡明さ。身内の贔屓目を差し引いても、臣民のために良い政治と事業を行うことが出来るだけの手腕がある。

 桜の宮に残れば、やがて栄華を極めることも叶うだろう。

 その姿を見てみたかったという気もする。

 しかしまた、自由に憧れ、ままならぬ己の身を憂い、叶わぬ恋に泣く、そんな人生を歩ませるのも忍びない。自分もまたそうだったからこそ、陵駕の気持ちがわかるのだ。

「父上。お元気で」

「ああ。陵駕、其方もな。良き道を歩めるよう、祈っている」

 静かな別れだった。

 夜が開けゆく頃に別れ、もう二度と会うことの叶わない息子の行く先を祈願するしか、友魂に出来ることはなかった。

 足音が近づく。その音に、苦い笑みが一瞬だけ浮かぶ。

 息子は貴族の勤めを棄て、罪人となって追われている。そしてまた、父もこれから罪人として裁かれるのだ。

 乱暴な音を立てて妻戸が開け放たれた。そこから、十名はいるだろうと思われる武官達が一斉になだれ込む。

 その手には太刀。

 几帳をなぎ倒し、座した友魂を取り囲む。その様子を、黙って見つめた。

 口々に友魂の罪を並べ立て、太刀を突き付け、屈することを望む蔑んだ瞳。

 これが自分の運命。しかし、まだやることは残っている————。

「ええい、やかましい! 静まれッ‼︎ 私は逃げも隠れもせぬ」

 一喝した。途端に、武官達の動きが止まる。

 彼らも仕事とはいえ、身分は友魂の方がずっと上だ。それに加えて、桜の宮の武官は、実質的な対人への取り締まりの経験はない者が多い。

 武官も人間。微かに動揺しているのが感じられる。

 その空気を壊さぬよう、ゆっくりと立ち上がる。太刀は動かず、友魂を傷つけることはなかった。

「其方たちがここへ来た理由は聞かぬ。しかし、柑子殿の前でなら全てお話しよう。臥せっているところ申し訳ないが、お目通りを願う」

「なッ! なんだと……!」

 押し殺された武官の声には、はっきりと動揺が伺えた。罪人として引き立てに来た相手に、まさか遣いを命じられるとは思ってもいなかったのだろう。

「出来ぬのか? 其方らは、なにをもってここへ踏み込んできたのだ? 私がなにか罪を犯したとでも?」

「そうだ、柑子殿への謀反を企てたのは、友魂殿、あなただ」

「見たのか?」

「————ッ」

 友魂に手が伸びたということは、蘭か桜が漏らしたのだ。だからと言って、蘭のように目撃されたわけではない。

 せいぜい鞭で打って自白を強要するのが関の山。しかし、鞭で打っても自白しない者もいる。蘭のように。

 蘭は柑子を刺す理由がない。誰かの刺客だと誰が見ても思うだろう。しかし、蘭は口をつぐんだまま正気を失った。

 可哀想なことをしたと思う。だがあれは、蘭自身の意志でもあったのだ。どんな相手を恋うても許され認められる、そんな世界になって欲しいという切な願いだった。

「鞭で打っても、やっていないことは自白することも出来ぬ。違うか?」

 大勢いるのに、その全員が気圧されている。その空気を肌で感じながら、注意深く言葉を選ぶ。

 どうしても柑子に会わなければならない。まだ、やることがあるのだ。

「謀反の疑いがかかっている者を、おいそれと臥せっている柑子殿へ会わせるなど出来ぬ!」

「其方の意見は求めておらぬ。柑子殿の返事など一つしかない、く柑子殿の元へ走られよ。謀反を疑うなら、この身体も隅から隅まであらためるが良い」

 数人が目配せを交わした。そのうちの一人が、踵を返し走り出して行く。それでいい。

 おそらく柑子は会うことを許可するだろうという、確信に近い思いがあった。気に入らない男だが、感情に流されず公平な判断の出来る点は認めているところだ。

(貴族の誇りなど、もう要らぬ。恥も外聞も、そんなことはどうでも良い)

 ただひとつだけ。それだけが叶えば、なにもかも喜んで捨てよう。それ以外はなにも望むこともない。

 それが叶えられるのは、柑子だけだ。

 貴族の誇りを捨てることなど、この願いの前にはいともたやすい。

 まだ、死すわけにはいかない————。


   ◆ ◇ ◆


 褥に臥したまま、武官に囲まれみっともない土下座を続ける男を、柑子は黙って見つめた。

 謀反を企てたのは友魂だった。友魂は陵駕を恋うていた桜をそそのかし、蘭を説得させ刺客とした。

 貴子をあやめたのは友魂の独断で、蘭との共謀。桜は柑子を懐柔して叔母と甥の婚姻を認めるよう言いくるめて欲しいと蘭に指示。しかし、これも友魂が独断で、殺めるよう蘭に命じたという。

 辻褄は合っている。蘭はやはり、刺客だったのだ。それに安堵するとともに、胸の奥が軋むように痛んだ。だからどうなのだ、蘭はもう————。

「そこまでして、命が惜しいか」

「無論」

 友魂の周りを取り囲む武官は、呆気に取られたように動きを止めている。恐らくは友魂の迫力に押されて、面会を取り次いで来たのだろう。だとすれば、無理もない。

 武官を威圧しここへ来た男が、まさかこうして土下座をするなどとは思いもしなかったのだろう。

 目の前の男が額を床に擦り付けて吐き出したのは、事の真相という名の独白。

 そして、命乞いだった。

 友魂の行為は、到底許されるものではない。

「浅ましいことだな」

「承知している。その上でお願い申し上げる。貴族の地位も何もかも要らぬ、この宮からも追放されよ。だが、命だけは助けてくれぬか。頼む……‼︎」

 恥も外聞もかなぐり捨てた、ただただ命を惜しむ無様な姿。

 昔は、何をしても期待以上の働きをするこの叔父を慕っていた。どうすればそう在れるのかと憧れていた。

 神を糾弾しその思想が異なるものだと知ってからも、それは変わらない。それが、いつからこんなことになってしまったのだろう。

「命だけを助けてくれるのならば、それ以外のどんな罰でも与えてくれて構わぬ。だから頼む、命だけは……!」

 貴族の地位は要らない。それに相応しい、情けない姿。罪を犯しておきながら、危うくなると命乞いをする。

 到底、自分には許容出来ない行為だ。

「頼む……頼むから命だけは……‼︎」

「黙れ」

 もう聞きたくない。かつて憧れていた男の、恥も誇りもない命乞いなど。それでも、伝えるべきは、伝えなければならない。

 空気を吸うと、刺された腹が痛んだ。その痛みに励まされるように、口を開く。

「聞き届けた」

 はっと頭を上げた友魂は、さらに額を床へ擦り付けた。

 その姿から視線を逸らし、連れて行けと武官に命じる。

 肩を捕まれ、引き立てられるように友魂が連れ出されて行く。

 この事態を招いた本当の原因は、友魂でも桜でも蘭でもないだろう。そして桃と陵駕でもない。

 罪は償ってもらわねばならない、しかし。

(私は、間違っていたのか? 大神よ)

 かつて憧れていた叔父のいた跡には、幾つもの水滴が落ちて染みを作っていた……。

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