別れ
夕暮れ時。神殿の回廊を歩きながら、桜は唇を噛んだ。
姉の桃が訪ねて来たのは、昼前のこと。久しぶりに顔を合わせた桃は、少し痩せていて、それでも強い瞳は健在だった。しかし、蘭の話をするとはらはらと涙を流した。
そのまま、二人で抱き合って泣いた。可哀想な蘭を思って。
どんなに痛かっただろう。辛かっただろう。恐ろしかっただろう。
それは想像を絶するものだったに違いない。それを想うと胸が潰れるように痛む。それでも、蘭の受けた痛みには到底及ばない。
蘭には柑子を刺す理由なんかない。そう言い切った桃は、まっすぐに蘭を信じていた。
そして言ったのだ、貴子や柑子、蘭と身近な人に不幸が起こっている。だから瑠璃
瑠璃神杜は、祟り神を祀り上げ建立された神杜だ。かつて謀略により左遷され憤死した者が魔と化し、都に禍いを起こした。次々とその左遷に関わった者が、病や怪我で亡くなり、都には怪異が頻発したという。
神官でも祓えなかったその強い魔を、神として祀り上げる事で治めたのだ。
これはそっくり、貴子の状態と同じと言える。
そこへ、参拝に————。
自分も連れて行ってくれとお願いするのは、桜にとっても自然な事だった。
少し迷って桃は頷いた。外歩きの壺装束に衣を替え、牛車で参拝に向かったのが昼過ぎ。
参拝はつつがなく終わった。それなのに桃は、桜の宮に帰って来る事はなかった。桜は、一人で帰って来たのだ。
参拝が終わり、境内を少し散策して。その時に突然、少し離れた場所で声が上がった。大きな男の声が複数。
そして、桃と桜が四名の侍女らとともに歩く参道に突っ込んで来る馬。
悲鳴を上げて避けようとして足が止まった。馬の上の男に見覚えがあったからだ。
馬を駆る深緑の
そして、その顔。
「陵駕殿⁉︎」
それは陵駕だった。真っ直ぐに馬をこちらへ突っ込ませて来る。
馬は、侍女たちと桃の間に勢い良く躍り込んだ。桃は悲鳴を上げて、手で顔を庇う。
その桃に寄り添い、馬上を見上げた桜と目が合った————。
秋晴れの光を背に、手綱を持つ精悍な瞳。それは永遠のようで、ほんの一瞬の出来事。
「御免!」
陵駕の腕が伸びた。その腕が、何が起きたのかわからないでいた桃の腕をつかむ。そのまま、荒々しくその小柄な身体を馬上へ引き上げた。
気が動転したような桃の悲鳴。侍女らの慌てふためく声。
「待って、陵駕殿! お姉様ッ‼︎」
「桜!」
馬が首を大きく振った。そのまま一気に駆け出して行く。
その姿はあっという間に神杜を走り抜け、見えなくなった。
「なに……なにが起きたの……」
呆然とつぶやくことしか出来ない。
「桜姫、ご無事ですか⁉︎」
「あ、あれは陵駕殿ではありませんでしたか⁉︎」
「ご無体を! なにをお考えなのでしょう」
「宮にお戻りになるのかしら、どうしてあのような……」
侍女らもどう考えて良いのか困惑していた。桜を囲んでああでもない、こうでもないと口々に喋りだす。
そこへ、半尻を着た従者らしき少年が駆けて来る。衣の質から見ても、町人ではない。
「姫さま、ご無事ですか!」
「これは、どうしたことですか?」
少年は、可哀想なほど顔を青ざめさせている。
「参拝に来ていたのです。それが、急に殿がご乱心を……! 馬の者が後を追っていますが」
陵駕は桃や桜と同じように、私的な参拝に来ていたという。従者は馬に乗ったもう一人と、徒歩のこの少年の二人だけ。
確信した。この参拝自体が、示し合わせたものだったのだと。
「まあ、では桃姫は⁉︎」
「宮へ戻ってお知らせした方がよろしいのではありませんか、桜姫」
「恐ろしいこと! 桃姫はどうなるのです!」
「良いから、お戻りしましょう! 私たちは牛車で戻ります。あなた、宮まで走れるかしら」
少年は頷いた。さっと踵を返して、駆け出して行く。
その背を見送る間もなく、侍女に袖を引かれた。
そうして桜の宮へと戻って来たのだ。一人で。
桜が宮へ戻った頃には、すでに追手が放たれた後だった。
逃げ切れるなんて思っているのだろうか。たった二人で。
少年や侍女らの目撃証言により、桃が攫われたという形での追っ手となった。それでも、二人の噂を知る誰もが禁忌を犯したことを疑っていた。
瑠璃神杜への参拝は、桃が急に言い出した事。示し合わせていたのではないか、皆がそんな目をしていた。
桃は、柑子への謀反も暗に疑われている様子だ。状況的に無理もない。捕まり連れ戻されれば、厳しく尋問されるだろうことは見えている。
桃を攫った陵駕は、鞭で打たれるだろう。
いや、禁忌を犯したと判断されれば最悪、二人とも死罪————。
(陵駕殿……)
涙がこぼれ落ちそうになる。
叶えたい願いだった。苦しいほどに恋うていた。
桃と結ばれることなど不可能だと思ったから、柑子をなんとか出来れば叶えられると思った。そう計らってもらえるはずだったのだ。
それなのに、まさか命をかけてまで結ばれるなんて。そんな手段を取るなんて。
いや、これは当然の結果だったのかもしれない。
桃は己の半身。己の魂の半分。
だから、今ならわかる。桃は桜が愛したのと同じように、陵駕を愛したのだろうことが。桜が命をかけて陵駕と結ばれたいと願ったように、彼女もまた命をかけてそれを叶えたのだということが。
「なんのために……蘭……」
蘭の人生はなんだったのか。命をかけて柑子と向き合い、あんなに恐ろしいことになって。
若い盛りだった蘭。気立てが良くて、誰からも好かれて、控えめなのにどこか華やかな蘭。
その蘭がかけた命は、全部、全部無駄になってしまった。全てが裏目に出て、もう取り戻せない。
(わたしは……間違っていた……)
こんなことになるはずではなかったのに、どこで足を踏み外してしまったのだろう。考えが甘かったとしか言いようがない。それが、余計に苦しい。
自分が間違わなければ、蘭はあんなことにはならなかったのに。
そして、陵駕と桃も。捕まって禁忌を犯したと判断されれば命はないかもしれない。到底、逃げ切れるとも思えない。
逃げ切れても逃げられず捕らえられても、桜にとって、あの瑠璃神杜での邂逅が二人との別れだったのかもしれない。もしかしたら、永遠の。
自分の周りで、大切な人ばかりが儚くなって行く。
愛する者達が次々に不幸に身を落として行く————!
(どうして……)
本当に裁かれなければならないのは、蘭でも、桃でも陵駕でもないのに!
それなのに。
そう思えども、自分の罪を告白するのは怖い。だからこそ、今まで蘭に会う勇気が出なかった。その姿を見るのが恐ろしかった。
会いに行こう。帰りの牛車の中でそう決意したものの、歩みは重い。
蘭。大好きな蘭。幼い頃からいつも一緒で、いつも味方で、いつも優しかった蘭。
蘭が囚われているのは、神殿内の座敷牢だ。神官は、神の子。裁きを行うのも、また神官の役目。
貴族の暮らす桜の宮ではあまり使われることがないが、何か所かに分けて少数の地下牢が存在している。普段は保管庫として、食料なり絹なり、その時々によってなにかの物資が入れられていることの方が多い。
桜の宮に戻ってからすぐ、蘭に会いに行く事は先触れしていた。許可は出たというから、柑子に代わって牡丹がそれを承認してくれたのだろう。
みんなが儚くなる。愛した人でさえ。怖い、けれどそれを黙って見ていて良いのか。
最後まで、この罪を背負って、自らの罪で散らせた命を背負って生きて行けるのだろうか。
回廊の端の、蘭の囚われている牢に続く階段。そこに立つ武官に挨拶すると、彼は黙って頭を下げた。
この先に、蘭がいるのだ————。
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