空蝉

 桃だってきっと耐えられないだろう。耐えられず、逃げ出してしまいたいという思いに身を引き裂かれるだろう。

 今、桃には謀反の疑いまでかかっているというのに。

 ここから、桜の宮から逃げる。それは今の桃から見れば、魅力的な世界だ。陵駕と離れず、気持ちを隠すこともなく、生きていけるのなら。

(でも……)

 脳裏に浮かぶのは桜の顔。

 桃が陵駕と逃げたと知ったら、どんなにか心を痛めるだろう。

 桜だけではない。父である代赭たいしゃや母の常盤ときわ、そして今もまだ残ってくれている桃に仕える侍女や随身ずいじんなどの従者たち。桃を取り巻く全ての人たちに迷惑がかかる。

 大切な乳兄弟の蘭は、痛めつけられ、人としての尊厳すらなく座敷牢に囚われている。その蘭を捨てることなんて出来ない。

 そして、瀕死の重傷を負った柑子。柑子が動けない今、桃は本来ならば、牡丹と共に手を取り混乱を鎮めるべき立場。

「陵駕、わたし、怖い……次に鞭で打たれるのはわたしかもしれない」

 なんの確証もなく桃を捕らえることは出来ないだろうし、賢君である柑子ならそうはしない。

 しかし、これが牡丹ならどうだろうか。冷静さを失った、柑子の妻なら。

「でも、でもわたしは、柑子殿の義娘むすめで……やらなくちゃいけないことは、たくさんあって……」

 今まで桃を慈しみ、育て、守ってきた一切を今、捨てる覚悟が出来ない。臣民を守るという、神が与え給うた役割を捨ててもいいのか迷う。陵駕のように、ここから逃げるということを考えたことなどなかった。

 それでも、たった一つだけ迷いのない気持ちがある。それは、告げてはならないもの。気づかれてはならないもの。その我慢は終わる。陵駕が桜の宮から逃げて、桃の養子にならないことによって。

 今しか、それを告げる機会はない。次は、ないのだから。

「蘭だってあんなことになって、でも……」

 陵駕の手を強く握り返す。その桃の手が震え、気づいた陵駕が励ますように優しく桃を抱く。一方で桃の手を握り、もう一方で背を優しく撫でた。

 身体が麻痺して、言うことをきかない。しびれたような熱が広がる。

「わたし、陵駕を……恋うているの」

 吐き出した言葉は、かすれてはっきりとした音にはならなかった。それなのに、陵駕が息を飲んだ音ははっきりと聞こえた。

 腕にこもった力が、桃を締め付けるようにかき抱く。

「ずっと、ずっと見ないふりをしていたけど、わたし陵駕を恋うていたの」

 いつも他愛ない話ばかりして、皮肉を言って、飾らず、それでいていざという時は頼りになって。

 いつしか陵駕との日常が、かけがえのない時間へと変わっていた。

 それなのに、陵駕が討たれるかもしれないなど、考えただけでも身が引き裂かれそうな苦しみを伴う。嫌だ。

「陵駕を恋うているの。だけど行けない……蘭が……だから行かないで陵駕、お願い。おねがい……」

 耐えられないほどの悲しみ。叶えられない想い。その苦しみを、共に桜の宮で共有して生きて行こうと、陵駕はそう願ったのではなかったか。

 だから恋うていると告げたのではなかったのか。

 喉から引きつったような声が漏れた。涙がまたこぼれ落ちる。

 陵駕が居なくなるなら、これが今生の別れならと告げた想い。それなのに、行かないでと引き止める自分。矛盾した想いが喉に詰まって、吐き出せない。

「桃姫。あぁ……」

 桃の髪を、陵駕の手が何度も撫でる。その手は震え、微かな嗚咽おえつが耳朶を打つ。

「あなたが一番苦しんでいるときに、守ることすらせず、自分の我儘で逃げる私を許してください。あなたが、同じ気持ちであることが嬉しくも苦しい。残れば、私は自制が効かなくなりあなたを罪に落とす……」

 震える声。力のこもる腕。

 その全てが、目の前から消えてしまう。永遠に。

 誰にも気づかれないよう関係を持つのは難しいだろう。ただでさえ桃はまだ若い。もし懐妊するようなことがあれば、相手はわからずとも桃は罪となる。桃の夫は、生涯東雲一人なのだから。

 それがわかっているからこそ、陵駕の気持ちが変わらないこともまたわかってしまう。

 陵駕が桜の宮を去ることは、こうして気持ちを告げた今、桃を守ることにもなってしまったのだ。

「陵駕が残っても、去っても辛いの。だったら残って、一緒に苦しんでよ陵駕……!」

 腕を陵駕の背に回す。この腕を放したら、それが今生の別れとなる。

 陵駕が桃の養子に選ばれなければ、出会わなかった。こんな苦しみもなかった。けれども、出会わなかったらなどと、考えられないほどにその存在が大きい。

 陵駕が桜の宮に残っても、出ていっても、同じように辛い。

 残ったら陵駕は誰かを娶る。出て行ったら、大勢の自由な女人と出会うだろう。それを思うだけで、苦しくてたまらない。

 なんて浅ましい想い。なんて……。 

「わたしは今、ここに残った陵駕の妻になる姫に、ここを出た後あなたが出会う女人に、嫉妬しているの……!」

「桃姫」

 なにもかもを決壊させるような胸の疼き。耐え難い熱。それに抗う術を桃は知らなかった。

 桃のほおを撫でた手が、髪に差し込まれる。その感触に震えが走った。全身が総毛立つ。

 暗がりの中、桃を見つめる双眸が、苦しげに歪んだ。刹那、荒々しく唇が塞がれる。それが接吻だと気がついたのは、一瞬ののち。

 鳩尾みぞおちから波のように何度も何度もくり返し熱が広がる。その熱で全身が火照り、しびれ、力が抜けていく。熱は喉元を駆け上がり、唇から漏れようとしては陵駕に絡め取られる。

 何も、考えることが出来ない。

 ああ、どうしよう。

 それ以外の思考がなくなったかのように、そう繰り返す。だけど、離れられない。ゆっくりと絡められた指に、また胸が疼いた。

 熱いものが、額を、ほおを、そして首筋をなぞる。引き寄せられた指を這う。その度に、じわりと広がる波が頭の中を白く染め抜いていく。

 それは、どうしようと繰り返す頭の中の声とは真逆の感覚。

 押し寄せる波。痺れた頭。初めて感じる悦び。

 波が全てを攫っていく。痛みにも似たそれが、桃の力を奪う。

 引き寄せられた手が、陵駕のほおに当てられた。その体温を慈しむように、陵駕は瞳を閉じている。

 繋がった手。直接触れる温もり。

 悲しいほどに離れられない身体。

 もう一方の腕を伸ばす。陵駕のほおを撫で、髪を触り、首へと降りる。

 桃がこの手で絞めた場所。そこをゆっくりとさする。

 それは桃とは違う、男の首。

 それらの全てが、桃の心を乱す。

「桃姫。私は……」

 切なく湿った声色。苦しさを押し殺した吐息。

 ふいに繋がった手が解かれた。驚く間もなく、陵駕が身を引き立ち上がる。そのまま踵を返そうとした陵駕の袖を咄嗟につかんだ。行ってしまう、これが今生の別れになる……!

「行かないで。陵駕……」

 ああ、どうしよう。引き止めてどうしようというのだろう。その思いが桃の胸中に渦巻く。

 陵駕と共に罪に落ちるなど、あってはならないのに。ここに留まって、やるべきことがあるのに。

 けれど、彼と別れて一人、その役目を満足に果たせるのだろうか。何より、鞭で打たれることになりはしないだろうか。

 何を取っても、どうなっても恐ろしい。

「私は怖い。桃姫、あなたを罪に落とすことが」

「嘘よ。あなたは我儘なだけだわ。一緒に逃げたって、追われるだけなのに……!」

「————……ッ」

 息を飲む音。

「どうしたって、陵駕は、わたしを罪に落とすのよ……!」

 違う。陵駕が桃を罪に落とすのではない。それはわかっていた。それでも、そう言わずにはおれない。

 真っ直ぐに桃を見つめる瞳。その瞳が、爽やかで清浄に輝くのを知っている。いつも面白いことを探して、笑っているのを。

 桃をからかっては楽しんでいるのを。

 それすらもう見られず、このまま別れるなど。

(ああ、ごめんなさい)

 苦しい。胸が潰れそうだ。どんなに謝っても、謝り切れない。

 愚かなのは自分だ。そして陵駕も。自らを律する事すら出来ず、罪へと進んで向かうなんて。

 どちらかしか選べない。どちらを選んでも辛い。苦しい。選べなかった片方のことを思い、一生後悔するだろう。

「どうしたって罪なの。それなら……」

 腕を伸ばす。その手首がつかまれ、次の瞬間抱きすくめられる。

 衣に焚き染められた香が漂い、桃を包み込む。胸を満たす、清浄で深い緑の香。

「良いのですか……?」

 声は出なかった。かわりに、両腕で陵駕を包む。その胸に頬を寄せた。

 じわりと、また波が全身に広がる。何度も、何度も。

 降って来た接吻に、思考を手放す。

 全身を溶かすような熱。その熱に浮かされて、ありとあらゆるものが剥がれ落ちて行く。義務も、本音も、建前も、罪も————。

 もう、もういい。もう迷わない。心が決まれば、怖いものもない。

 その体躯が覆いかぶさり、桃を抱き締めるように床へと降ろす。それに抵抗する力すらもうない。その手は震えながら、桃の袴に手をかける。それでも、熱に当てられたように身動きが取れない。

 瞳を閉じる。身体に力が入らない。なにも出来ない。なにも。だけど、その力を奪う熱を、苦しいほどの胸の疼きを、身体を痺れさせ全てを攫う波を感じていたい。

 その波を起こさせる、ただ一人の人を。その肌の温もりを。

 忘れようもないほどに、刻みつけていたい。

 それでこの身が滅ぶとしても————。


   ◆ ◇ ◆


 もう会えないかもしれない。今生の別れかもしれない。

 その手を離すことが恐ろしかった。

 明日が来なければいい。そう願っても、時は過ぎ行くばかり。

 陵駕は一人、立ち去る。その背を見送り残された桃も、一人で最後の夜を越えた。

 うつらうつらと眠り目覚めたのは夜明け前。まだあの熱がまとわりついているような気さえする。それなのに、隣には誰もいない。

 それでも、じわりと胸を満たすものがあった。それさえあれば、きっともう迷わない。

 身を起こして闇の中を歩く。妻戸を開くと、うっすらと明るくなり始めた空。

 この空の下、陵駕はなにを思って今日の準備をするのだろうか。もう戻らない桜の宮で、最後の朝に。

 東から空に茜が差す。それを桃はじっと見つめた。

 その光はいつも変わらず、そこから差し込む。今日という日が、どんな日であっても。

 それを、人々は「東雲」と呼ぶ。その光が、桃の背を押してくれている気がした。

「桃姫? どうされましたか?」

「東雲を見ていたのよ」

 部屋から出てきた侍女の声に、そう答える。その間にも、光は増して行く。

「今日は、やることがあるの。夜が明け切ったら、柑子殿のところへお見舞いを」

「まさか。牡丹姫がお会わせになりませんわ」

「いいの、牡丹姫に気持ちだけでもお伝えできれば。それから、桜のところへ寄って……」

 ただ淡々と、今日という日の予定を告げる。

 少し、慌ただしい日になる。それでも、やらなければ。

 ただこの身の罪のために。


◆ ◇ ◆


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