陸 彼方へ向かう風

祝酒

 祝い酒。

 物珍しくそんな事を言い出した鈴鳴家家主の柑子こうしに、友魂ゆうこんは二つ返事で頷いた。

 赴いた柑子の住む臙脂殿えんじどのひさしに向かい合い、明るく輝く月を見上げながら酒を飲む。

 思えば、柑子と差し向かって酒を飲むなど、いつぶりであろうか。柑子は甥に当たるが、彼が家主になってからは気軽な間柄でもなくなっていたというのに。

 ここのところ、柑子は少し丸くなった印象がある。自分にも他人にも厳しく、なぜかいつも少し苛立っていたのに近頃はそれがない。

陵駕りょうがは柑子殿の元で十分お役に立てているだろうか」

 酒なら用意しようと請け合い、持ち込んだ冷酒に口を付ける。相変わらず旨い。

 柑子もその酒が気に入ったらしく、舌鼓を打ちつつ寛いでいる様子だ。

「うむ。友魂殿が事あるごとに褒めそやすのも頷ける」

「それについては恥ずかしい事だ。なにしろ共に過ごした時間が短かったゆえ、我が子とは言えどうも過大評価になりがちでな」

「過大でもないでしょうな。あの聡明さには恐れ入る」

 立場や相手、交渉の内容や重要度、あらゆる状況に合わせて、自己を変える。媚びを売ることも、命を下すことも、黙して命に従うことも出来る。

 必要とあれば信念などないかのように変わり、しかし陵駕は信念を持って自己を変えている。それは誰にでも出来ることではない。

 そう言って酒を飲む柑子は、世辞を言っている様子ではない。心からそう思ってくれているのだろう。その事に頬がゆるむ。

「なに、東雲しののめ殿と比べればなんのことはない」

 青白い顔をして、それでもその瞳の輝きだけが生気を帯びていた東雲の姿を思い出す。

 神童というのは、まさにああいう人間を言うのだ。

 柑子の息子・東雲の知能は常識を逸していた。身体が弱くほとんどを臥しがちだったが、頭は別だ。

 一度聞いたことは忘れず、勉学はすべからく網羅していた。博識者でも手を焼く天文学も難なくこなし、さじは東雲の見立ての正確さに舌を巻くほどだった。

 膨大な歴史書も文学も一度読めば覚えたし、音色を聴けばどんな楽器でもそれを再現することが出来た。

 あまつさえ、その自分の知能の高さを研究の対象にしていたほどだ。

 あれは常人ではなかったと誰もが認めていることだ。その東雲と比べてしまえば、さしもの陵駕も赤子のようなもの。

「そうかもしれぬ。だが、家主としては荷が重かっただろうな」

 常人とはかけ離れた頭脳は、その器の弱さのためにしとねに縛られたまま。世継ぎとして家主になったとしても、満足には働けなかっただろう。

 そう思えば、やはり陵駕の方が家主には適任だと思える。

「まあ、良い。陵駕が家主を継いでくれれば、心配は要らぬだろうよ」

「家主を継ぐようには教育しておらぬからな、そこだけは心配だが。まあ、あれなら上手くやるだろう」

 うっとりするような美酒の味。それは愛息への祝い酒。

 今朝早く、神託がくだった。桃の養子になる日取りが決定したのだ。

 神官たちの長である祭主が直々に神へ伺いを立て、降った日付けは一五日後。

 陵駕は、これで正式に桃の息子となる。

「しかし、まさか陵駕を指名して来るとは思ってもみなかったぞ」

「なに、その聡明さは聞き及んでいたからな。葵の宮に居ながらにして聞こえるとは大したものよ」

 貴子に追い払われるような形で、元服後すぐに葵の宮に出向させられた陵駕。まだ手元から離すには惜しい時期だった。

 それでも、こうして認められ名を馳せたのだから、良かったと言うべきなのか。

 しかし、周りからはあまり気にされてはいないが、近頃はどうにも塞ぎ込んでいる様子がある。

 理由はわかっている。幼い頃から自由に憧れていた陵駕。それは、友魂にも覚えのある感情だ。

 だからこそ、地方で暮らしていて欲しかったという気持ちもある。

 それに……。

「それなのに、また地方へ出向させる気だったとは」

 その柑子の声に、低く笑う。そう、次期家主に指名されなければ、陵駕は桜の宮へ呼び戻した後も地方を回らせようと思っていた。そうして臣民の中で出来るだけ自由に暮らせば良いと。

 鈴鳴家の者としていつまでもそれが許されるわけではないだろう。しかし、自分の命があるうちは、そうやって便宜を図ってやろうとは思っていたのだ。

 ここは、鈴鳴家はあまりにも帝に近すぎる。あまりにも、自由がない。

 結局、貴子が桜の宮から陵駕を追い払ったことは、彼女の意図とは違う結果となった。陵駕に自由への憧れを強めさせただけだったと思う。

「地方の事業も滞りなく進むだろうと思ってな。それに、宮に詰めているよりは、外を回る方が性に合うかと思ったまで」

「なるほど。家主を継ぐまでは、そのような仕事も与えてみよう」

「必要とあらば臣民に頭を下げることもいとわぬゆえ、役に立つだろうよ」

 次期家主に指名されるだろうことは、東雲が亡くなった時から予感はしていた。だが、葵の宮にいることで目に止まらなければ良いとも願っていたのだ。

 陵駕が貴子を見返したいという思いがあったかはわからない。恐らくはなかっただろう。それでも、彼の仕事ぶりはあの貴子を頷かせるに足りた。

 それは父親としては、誇らしいことではある。

「そうか。あとは妻を娶らなければなるまいな」

 陵駕はもう齢二四を数える。本来ならば、子が複数いてもおかしくない歳なのだ。

 鈴鳴家という身分と、それなのに葵の宮に置かれているという立場からそれが難しかったのは皆理解している。

 それでも、やはり急ぐ必要はあるのだろう。

 元々陵駕の相手にと考えていたのは、甥である代赭たいしゃの二の姫・桜だ。身分も釣り合う上、桜は神子みこ。申し分ない相手ではあった。貴子も、最初はそのつもりだったのだ。東雲が亡くなる前までは。

「そうだな。鈴鳴家に、桜姫以外に釣り合う歳の姫がいないとは、残念なことだ」

「ああ。義母上も最初はそのおつもりだったからな。しかし、今となっては詮無いこと」

 陵駕は桜の甥になってしまうから。

 叔母と甥の姦通は貴族の身分剥奪の禁忌だ。

「そうだな。しかし時々思うのだよ。我々貴族に対する罪は重すぎないかと。大神は、それを望んでおられるのだろうか?」

 親子兄弟間姦通は死罪。これだって、ただ愛し合った者たちへの罪としては重すぎないだろうか。そう投げかけると、柑子の表情が翳る。

 理由はわかっている。わかっていて投げた。

「血はこれ以上濃くしてはならぬ」

「そうだな、それには同意する」

 貴族には、身体や精神に異常をきたす者が生まれることがままある。濃くなった血がそうした者を生んでしまうのだ。

 柑子の息子の東雲もそんな中のひとり。常識を逸した知能はある意味異常とも言える。その異常な知能とは裏腹に彼は身体が弱く、その人生の多くを床に臥して過ごさざるを得なかった。

「罪に関して言えば、我々は選ばれた神の子として、臣民を導き守る役割があるから当然だと考えるが。罪とは、犯す者がなければ罪ではない」

 親子兄弟間姦通も、血を濃くしないために禁忌となっている。死罪とするのは、見せしめとしての意味が強い。

 禁忌を犯せば異常が出る。ならば、その芽を刈り取ってしまえばいい。そういう考え方なのだ。こうなりたくなければ、禁忌を犯すなと。

「そうか。いや、時々私には、大神がそう望んだのではなく、人間の望みがそうさせているように思える時があるのだよ」

 愛しても罪、逆らっても罪、逃げても罪。

 ならばどうして神は貴族に感情を与えたのか。命に従うしか道がないのなら、感情などというものは邪魔なだけではないか。

 貴族には、桜のような神子が生まれる。神子は神に愛され、魔を祓う力を与えられた選ばれし者たち。

 その力で、臣民を守れと神は望む。

 神に本当に愛されているのはどちらだろうか。神子とは、貴族とはただ神が愛する臣民を守るための道具なのではないか。その疑問が頭から離れない。

「人の望みか……あなたは昔から変わらないな」

「いや、これはつまらないことを申した。祝い酒に免じて忘れてくれ」

 柑子の杯に酒を注ぐ。

 柑子は少し逡巡するそぶりを見せたが、頷き酒をあおった。そのまま月を見上げた姿につられて、友魂も煌々と光る月を仰ぐ。

 月の澄んだ白い光は、家主である柑子にも、彼に従う立場の友魂にも、平等だ。

 この美酒で祝うのは————。


   ◆ ◇ ◆



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