罪の呼吸

 曇天で陽が差さず、少し肌寒い秋の午後。

 御簾みすを下ろした部屋の中はより一層暗く寒々しい。それでも明かりを灯す気になれないまま、桃は脇息にほとんど身体を投げ出していた。

 侍女らも全員退出させたため、一人きりだ。それがいかにも心細い。それでも、今は彼女らと顔を合わせたくはなかった。我慢しても我慢しても、ふとした瞬間に流れ落ちてしまう涙を見られたくはなかったからだ。

 ここ最近は、こうして一人で過ごしている。

 この気持ちに気づかれてはならない。

 この気持ちは、罪なのだから。

 胸がひどく痛む。それは、身体の痛みではないとわかっているのに、背筋を伸ばすことすら難しく感じてしまうほど。

 貴族だということを、これほどまでに苦痛だと思ったことはない。

 はるかと遊んではしたないと常盤に叱られて泣いても、次の日にはそんなことなど綺麗に忘れていた。

 政略結婚で東雲の元に輿入れした時も、辛くなどなかった。この人が自分の夫なのだなと思っただけだ。

 陵駕が自分の養子になるという話を聞かされた時も、嫌だったし悩みもしたけれど、上手くやっていければいいなと前向きに考えられた。

 桜の嫁ぎ先が決まった時も、何もしてやれなくて辛かったけれど、ここまでではなかった。

 結局、桃は自分の身に同じことが起こるまで、陵駕や桜の気持ちなど理解できなかったのだ。

 そして理解してしまった上の、この苦しみは今までのこととは比にならない。

 陵駕も桜も、こんな想いを抱えていたなんて。

 胸から大量の空気が抜け出す。まるで背中と胸がくっついてしまうかのように、身体が縮んだ。

 ゆっくりと、意識して身体を空気で満たす。

 まるで、呼吸という方法を忘れてしまったかのようだった。胸の痛みから目を逸らすかのようにその呼吸をくり返す。

 いつもは気にならないうちぎが重い。

 陵駕が桃の養子になるのは、一四日後。降った神託は、神殿の長である祭主によるものだ。これは、帝に降る天啓でなければ取り消されることはない。

 つまり、一四日後には、陵駕は桃の正式な息子になるということ。そこから、親子間姦通の罪は完全な形で効力を持つことになる。

「わかる、今なら……」

 陵駕が貴族を嫌う理由が。

 貴族には自由がない。行動も思想も制限されて、めいにはただ黙って従うことだけを求められ。遼のようにその道から外れようとすれば、追い払われてしまうどころか罪に問われることすらある。

 そして、貴族の女人の愛は一度きり。一度夫を持てば、一生ただひとりを見続けなければならない。他の殿方を愛するなどそれだけで罪だ。

 それは、桃のように夫が亡くなってしまっても適応される。桃の夫は生涯東雲だけしか認められないのだ。

 それなのに。それだからこそ、気がつかないように自分の気持ちすらごまかしていたのに。

(どうしたらいいの、遼お兄様)

 つい心の中で遼の名を呼び、そのことにため息をつく。どうも、最近よく遼のことを思い出す。

 辛いからなのだろうか。かつての陵駕のように、幸せだった頃の優しい思い出に縋っているのかもしれない。今となっては、遼が返事をくれることはないのだけれど。

 知らないふりをしていた。陵駕に接する時に度々感じた胸の鼓動も、彼が死ぬことを考えた時のたまらない悲しさも、一緒に居る時の心地良さも。

 陵駕の手に感じた懐かしさ。それがじんわりと胸でくすぶっている。

 陵駕を恋うたりしない。陵駕と逃げるのは嫌。そう言い聞かせるように口に出しては、ごまかし続けて。今思えば、それは自分に言い聞かせていたのだろうと思う。恋うてはならないのだと。

 けれど、いったん気がついてしまったら、この気持ちをなかったことになど出来ない。

 たまらなく惹かれるのだ、陵駕に。

「陵駕……」

 陵駕とはあの日からもう二十日ばかり会っていない。

 陵駕がよく桃の所に暇つぶしに来ていたのは、彼が桃に会いたかったからだ。桃と会いたくて、話がしたくてやってきていた。

 それを、陵駕はやめたのだ。これ以上深入りすることは出来ない。これからは母と子として立場をわきまえようと、そう言って。

 それが、桃は悲しい。悲しいと感じてしまう。二人は結ばれることは許されないのだと、いやが応にも意識させられてしまうから。

 足音がしても、話し声がしても、違うとわかっているのに期待してしまう。姿を探してしまう。

 結ばれなくてもいい、ただ笑って話がしたい。そう思った端から、それだけでは嫌だという気持ちがわきあがってくる。

 そう遠くなく、陵駕は妻を娶る事になるだろう。そんな彼と、この先上手くやって行けるのだろうか?

 いや、違う。ただ桃は、陵駕のまだ見ぬ妻に嫉妬しているだけだ。それが自分でもわかるから、なおのこと胸が痛い。

(こんなことなら……)

 気が付かなければ良かった。陵駕の告白を聞いたとしても、この気持ちにさえ気が付かなければ。そうすれば、これほどまでに辛い想いは抱かなかったはずだ。

 そうして、彼と母子になれたはず。

 恋など、やはり知らない方が良かったのだ。陵駕の言う、つまらない人生で良かった。

 もっと、もっと夫である東雲と一緒に生きていられたなら。優しかった夫を恋うことが出来ていたなら。

 どうすれば良いのだろう。

 桃がこの気持ちを、胸の奥にしまい込めばいいのだろうか? けれど、そんなことなど……。

(出来ないよ……)

 気持ちを隠して、何事もなかった顔をして、母として陵駕と付き合って行くなんて。

 陵駕も、こんな風に思っていたのだろうか。桃に一緒に逃げようと何度も言った彼も。そして、陵駕を恋うている桜も。

 追われて討たれる方がいいと言った陵駕。その気持ちが、やっとわかる。

 桜の宮から、貴族の世界から逃げ出したい。その衝動が頭をよぎるのを抑えられない。

 貴子なら、どうするだろう。あの強い人が桃と同じ立場になってしまったら。

 母の常盤ときわなら?

 あの二人ならきっと、自分の気持ちは押し殺すだろう。そうやって、表面上はなんともない顔をして生きて行きそうだ。桃だって、それが一番いいことは、それしか方法がないことはわかっている。

 桃のためにも、陵駕のためにも、桜のためにも、そして鈴鳴家のためにもそうするしかない。そうわかっているからこそ、苦しい。

 陵駕は、今どんな気持ちなのだろう。母子になろうと言って、割り切れたのだろうか。桃に、その罪を共有して苦しめることで。

 桃が多少なりとも苦しみ、自分のことを忘れずにいてくれたらいいと?

『桃姫。決められた人とそのまま婚姻を結ぶより、自分の恋うた人と結ばれる方がいいと思わない? 身分抜きでさ』

 いつかの遼の言葉が胸をかすめる。

 彼は、今もこういう生き方をしているのだろうか。桃とは遠く離れた地で。

(わたし、大好きな人が出来たの、遼お兄様)

 自分の恋うた人と結ばれる。あの頃は、この言葉をよく理解なんてしていなかった。それが今では、泣きたいくらいに重く、悲しい。

 遼は、一体どういうつもりで、幼い桃にそんなことを話したのだろう。遼に縁談が持ち上がっていたのだろうか。恋うた姫がいたのだろうか。

 それとも、ただ貴族という身分をうっとおしく思っていたのだろうか。

『ねえ、遼お兄さま。わたしね、遼お兄さまに嫁ぐの。だってね、だってわたし、遼お兄さまを恋うているから』

 遼に返した言葉。幼い頃の思慕。それくらいの、軽い気持ちだけで十分だったのに。

 一緒にいて気安い、頼りになる養子。それだけで良かった。

(お兄様、遼お兄様助けて……)


   ◆ ◇ ◆


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