伍 腫れた狂気

御簾の内

 朝晩に涼しい風が混じり始めたとはいえ、まだまだ日中は暑くて参りそうな陽気。その陽を遮るために御簾みすを下ろした自室で、桃は脇息きょうそくにもたれて何度目かのため息を付いた。

 その側で、桃付きの侍女である蘭が困り顔をしているが、桃にはどうすることも出来ない。秋はどうしてこんなにも憂鬱な気分になるのだろう。特に今年は格別だ。

 夏に貴子があやめられたことで、桜の宮は一時混乱を極めた。その余派はいまだに続いている。貴子が常人より有能だったが故に、その穴を埋めるのには時間がかかるだろう。

 それに、と桃は苦々しくうつむく。それにまだ、誰が彼女を殺めたのかすらわからないのだ。

 貴子が亡くなったからといって、桜の葵の宮への輿入れがなくなったわけでもない。輿入れの時期が翌年に延期されただけで、いずれその日は来る。

 結局、桜はふさぎこんだまま。桃なりに慰めようと思うのだが、上手くいかない。蘭に桜と一緒にいてくれるよう頼むくらいが関の山だ。

「桃姫、どうか元気をお出しください」

「でも……」

 桃の返事は歯切れが悪い。

「桃姫がしっかりしなくては、誰が桜姫を支えられるんです?」

「それは、わかってるんだけど」

 わかっている。わかっているけれど、桃だって悩んでいるのだ。悩めば当然憂鬱にもなる。

 自分はそんなに強くないと桃は思う。貴子や常盤ときわのようにはなれない。冷たい氷のような、はたまた強い鋼のような、そんな強さは持っていない。

 自分を救うために桜を救う。陵駕りょうがに言われたことをなんとか実行しようと考えてみても、空回るばかりだ。

 自分を救う手段すらわからない。どうすれば、こんな状況から自分は救われるというのか。

「わからないのよ……」

「桃姫はよくやってらっしゃいます。桜姫も支えられておいでですわ」

「だといいのだけれど……」

 桜。沈んでいくばかりで、見ている桃の方が泣きたくなってしまう。

 桜は笑わなくなった。彼女のあの春のほほ笑みは、今ではないに等しい。

 最近の桜は、心を閉じてしまっているように桃には感じられた。唯一の双子なのに、その半身のことがわからなくなりつつある。

 ずっと、二人いて一人のようなものだったのに。

 桜だけならまだしも、桃にはまだわからないことがある。それが、桃の養子となる陵駕だ。

 秋は、陵駕が正式に桃の養子になる時だ。日取りは近く神官が神託をいただくことになっている。

 神託がくだれば、なにが起ころうとその日に陵駕は桃の養子となる。

「わからないわ」

 まるで口癖のようにその言葉をくり返す。

「桜も、陵駕も……わからない」

 陵駕が養子となる日は近い。それなのに、陵駕と親子という気にはどうしてもなれないでいる。むしろ、初めて陵駕と対面した時の方が、受け入れられていたのではと思うくらいだ。

 鈴鳴陵駕という人物を知れば知るほど、その思いは強くなる。

 陵駕は桃を母と呼ぶ。桃は彼を呼び捨てで呼ぶ。それでも、どうしても陵駕が自分の養子むすこだとは思えない。

 物の考え方も知識も、桃よりずっと大人だ。食えない性格だが、陵駕は周りをちゃんと見ている。伊達に出仕して忙しく仕事をこなしているわけではないのだ。

 陵駕と付き合えば付き合うほど、その思いは大きくなっていくようだった。

 自分も出仕するようになれば、帝のお役に立つようになれば、あんな風になれるのだろうか。

 陵駕の母としてふさわしいと思われるように。

 それには一体、どれくらいの時間が必要なのか。

 陵駕は今、桃のことをどう思っているのだろう。

 母として認めている? それとも友のようなもの? 妹? ただの飾り?

 わからない。顔を合わせれば「一緒に逃げましょう」とからかってくるばかり。その本心が見えない。

「ねえ、蘭。陵駕、どう思う?」

「陵駕殿ですか?」

「そう。わたし、陵駕を自分の養子だとは思えないの。実感がわかないっていうか。陵駕は、わたしの事をもう母として認めているのかしら」

 まだ桜の花が咲いていた頃には、認め切れていないというような事を言っていた陵駕。それでも、ずっと桃を母として扱ってくれていた。

 名は体を表す。陵駕は、陵駕という名にふさわしい道を歩み始めた。ならば、その陵駕から母と呼ばれる自分を、彼はもう認めたのだろうか。

 陵駕もまだ認め切れていなければいいと思う。彼が認めているのなら、それを出来ないでいる桃は、いっそう苦しくなってしまう。

「わたしの考えでよろしいですか?」

「いいわ」

「それでしたら……。わたしは、見た限りまだ認め切れていないのではないかと思います」

 認め切れていないと? 蘭もそう思う?

「どうして?」

 陵駕のそういうそぶりを、桃は全くわからなかった。

「どうしてと言われましても……桃姫、お気づきになれませんの?」

「なにを?」

「桃姫を母としては見ていらっしゃいませんわ、あの方」

 蘭はさらりと言って首を傾げる。それは、なぜ桃は気が付かないのだろうという、純粋な疑問を浮かべている顔だ。

 そんな蘭の表情に、桃もつられて首を傾げてしまう。

 気づかないのかと問うということは、蘭はもちろん気がついているのだ。でも、いつ陵駕がそんな態度を表に出していたというのだろう。心当たりがない。

「どう見ているかと言われますと、お答えできませんけれども」

「そうなの?」

「はい」

 蘭は確信を持ったように強く頷く。そこまで確信があるのなら、それなりの根拠があるのだろう。

 そう思い、蘭の言葉を信じることにする。どう考えても蘭の方が思慮深く、私情を挟まず陵駕を見ているはずなのだから。

「でも桃姫? 人なんて心でどう考え、どう感じているのかなんて、本人以外は決してわからないと思うのです。本当にわかってあげることなんて、きっとできない」

 人はわからないもの? 確かにそうなのかもしれない。けれど、それでも。

 わからないとは、なんて辛いのだろうと思う。

 人は、自然や動物のように、肌で触れ合うだけでは思いは伝わらない。だからと言って、言葉にしても伝わらないことの方が多い気がする。

「ですから、桜姫や陵駕殿がわからなくとも、そう悲観なさらなくても良いと思いますわ」

「うん……」

 幼い頃から親しんだ、姉のような優しく純粋な蘭。なにがあっても桃の味方でいてくれて、励ましてくれるその存在がありがたかった。

「桃姫は、陵駕殿のことをどうお考えですか?」

 陵駕を?

「養子とは……思えないわね。陵駕は大人で、ずっと頼りになって。わたしは陵駕には全然届かない。いつも陵駕の方が一歩先にいるの」

 いつも桃をからかい、ふざけたことばかり言って来る陵駕。それなのに、その下には桃には見せないよう激情を隠していて。

 あなたはなにも捨てていないでしょうと言った、それが陵駕の本音だった。それでも、彼は桃を責めることはなかった。羨むこともなかった。

 ただ己の運命とだけ向き合っていて。

 こうしてうじうじと悩んでばかりいる桃とは、大違いだ。

「もうすぐ、陵駕は本当にわたしの養子になってしまうのに。わたしは母にはなれないままだわ」

「あの、桃姫。よろしいですか?」

 蘭が居住まいを正し、桃を見つめて来る。その様子に、桃も脇息から身を離した。

 柔らかくあたたかい、それでいて真剣な眼差し。

「桃姫は、母にならなくてもよろしいのではありません?」

「え……?」

 母にならなくてもいい?

「どうして?」

「いえ、立場上は母となるでしょうけれど、桃姫は陵駕殿に届かなくてもいいのではないかと思うのです」

「だから、どうして?」

 陵駕に届かなくてもいい?

「なぜって、桃姫はまだ十七ですわ」

 小さく首を傾げ、しかし蘭はきっぱりとそう言い切った。ねえ、そうでしょう? という表情で桃を見つめて来る。

「十七の桃姫が、二四の陵駕殿の先を歩けるはずがありません」

 聞きようによっては失礼とも取れる内容。しかし、桃はそうは思わなかった。

 蘭の言いたいことがわかったからだ。

「そう、そうね……本当にそうね……」

 桃は十七。陵駕は二四。陵駕は桃より七年も多く生きている。

「敵わないはずよね……」

 陵駕を大きいと感じてしまうのは、彼の方が桃より七年も多く生きているから。その七年かかって陵駕が得た大きさに、たかだか数ヶ月で追いつけるはずなどないのだ。

 桃は一生、陵駕には追いつけない。だから。

 立場上の母。それだけのことなのだ。内面までそれにふさわしくなろうなど考えなくてもいい。

 なぜなら、到底無理なことだから。一生かかっても、追いつくことなどできないのだから。

 そんな不毛なことをするよりも、陵駕を知ることに集中したらいいのだ。彼と上手く生きて行くために。

「そうなのね……」

 だから別に陵駕を養子として認め切れなくていい。友だと思っていてもいい。それを他言しなければ、他人からは仲良く家を盛り立てる親子に映るだろう。

 そういうことなのだ。

「ありがとう蘭。少し、気が楽になった」

「いいえ。お役に立てましたなら、蘭は嬉しいですわ」

 ほほ笑む蘭に、感謝と愛しい気持ちが湧き上がる。本当に純粋で思慮深くて、他人の気持ちを考えられる蘭。

 一人の人として、蘭のことが好きだ。乳姉妹だというのもあるが、そうでなくてもきっと桃は彼女を重用しただろう。

 蘭が自分の侍女に付いてくれて、本当に感謝している。だから。

「ねえ、蘭」

「はい」

「桜のことも、見ていてあげてね」

 桜。桃の大切な半分。彼女も桃と同じように、いや、それ以上にきっと蘭の力が必要だ。

「あの子のことも見ていて。お願い」

 蘭だったら、桜になにかしてあげられそうな気がする。

「はい。桃姫がそうお望みでしたなら」

「ありがとう」

 桜には笑っていて欲しい。幸せになって欲しい。

 どうか……。


   ◆ ◇ ◆


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