伍 腫れた狂気
御簾の内
朝晩に涼しい風が混じり始めたとはいえ、まだまだ日中は暑くて参りそうな陽気。その陽を遮るために
その側で、桃付きの侍女である蘭が困り顔をしているが、桃にはどうすることも出来ない。秋はどうしてこんなにも憂鬱な気分になるのだろう。特に今年は格別だ。
夏に貴子が
それに、と桃は苦々しくうつむく。それにまだ、誰が彼女を殺めたのかすらわからないのだ。
貴子が亡くなったからといって、桜の葵の宮への輿入れがなくなったわけでもない。輿入れの時期が翌年に延期されただけで、いずれその日は来る。
結局、桜はふさぎこんだまま。桃なりに慰めようと思うのだが、上手くいかない。蘭に桜と一緒にいてくれるよう頼むくらいが関の山だ。
「桃姫、どうか元気をお出しください」
「でも……」
桃の返事は歯切れが悪い。
「桃姫がしっかりしなくては、誰が桜姫を支えられるんです?」
「それは、わかってるんだけど」
わかっている。わかっているけれど、桃だって悩んでいるのだ。悩めば当然憂鬱にもなる。
自分はそんなに強くないと桃は思う。貴子や
自分を救うために桜を救う。
自分を救う手段すらわからない。どうすれば、こんな状況から自分は救われるというのか。
「わからないのよ……」
「桃姫はよくやってらっしゃいます。桜姫も支えられておいでですわ」
「だといいのだけれど……」
桜。沈んでいくばかりで、見ている桃の方が泣きたくなってしまう。
桜は笑わなくなった。彼女のあの春のほほ笑みは、今ではないに等しい。
最近の桜は、心を閉じてしまっているように桃には感じられた。唯一の双子なのに、その半身のことがわからなくなりつつある。
ずっと、二人いて一人のようなものだったのに。
桜だけならまだしも、桃にはまだわからないことがある。それが、桃の養子となる陵駕だ。
秋は、陵駕が正式に桃の養子になる時だ。日取りは近く神官が神託をいただくことになっている。
神託が
「わからないわ」
まるで口癖のようにその言葉をくり返す。
「桜も、陵駕も……わからない」
陵駕が養子となる日は近い。それなのに、陵駕と親子という気にはどうしてもなれないでいる。むしろ、初めて陵駕と対面した時の方が、受け入れられていたのではと思うくらいだ。
鈴鳴陵駕という人物を知れば知るほど、その思いは強くなる。
陵駕は桃を母と呼ぶ。桃は彼を呼び捨てで呼ぶ。それでも、どうしても陵駕が自分の
物の考え方も知識も、桃よりずっと大人だ。食えない性格だが、陵駕は周りをちゃんと見ている。伊達に出仕して忙しく仕事をこなしているわけではないのだ。
陵駕と付き合えば付き合うほど、その思いは大きくなっていくようだった。
自分も出仕するようになれば、帝のお役に立つようになれば、あんな風になれるのだろうか。
陵駕の母としてふさわしいと思われるように。
それには一体、どれくらいの時間が必要なのか。
陵駕は今、桃のことをどう思っているのだろう。
母として認めている? それとも友のようなもの? 妹? ただの飾り?
わからない。顔を合わせれば「一緒に逃げましょう」とからかってくるばかり。その本心が見えない。
「ねえ、蘭。陵駕、どう思う?」
「陵駕殿ですか?」
「そう。わたし、陵駕を自分の養子だとは思えないの。実感がわかないっていうか。陵駕は、わたしの事をもう母として認めているのかしら」
まだ桜の花が咲いていた頃には、認め切れていないというような事を言っていた陵駕。それでも、ずっと桃を母として扱ってくれていた。
名は体を表す。陵駕は、陵駕という名にふさわしい道を歩み始めた。ならば、その陵駕から母と呼ばれる自分を、彼はもう認めたのだろうか。
陵駕もまだ認め切れていなければいいと思う。彼が認めているのなら、それを出来ないでいる桃は、いっそう苦しくなってしまう。
「わたしの考えでよろしいですか?」
「いいわ」
「それでしたら……。わたしは、見た限りまだ認め切れていないのではないかと思います」
認め切れていないと? 蘭もそう思う?
「どうして?」
陵駕のそういうそぶりを、桃は全くわからなかった。
「どうしてと言われましても……桃姫、お気づきになれませんの?」
「なにを?」
「桃姫を母としては見ていらっしゃいませんわ、あの方」
蘭はさらりと言って首を傾げる。それは、なぜ桃は気が付かないのだろうという、純粋な疑問を浮かべている顔だ。
そんな蘭の表情に、桃もつられて首を傾げてしまう。
気づかないのかと問うということは、蘭はもちろん気がついているのだ。でも、いつ陵駕がそんな態度を表に出していたというのだろう。心当たりがない。
「どう見ているかと言われますと、お答えできませんけれども」
「そうなの?」
「はい」
蘭は確信を持ったように強く頷く。そこまで確信があるのなら、それなりの根拠があるのだろう。
そう思い、蘭の言葉を信じることにする。どう考えても蘭の方が思慮深く、私情を挟まず陵駕を見ているはずなのだから。
「でも桃姫? 人なんて心でどう考え、どう感じているのかなんて、本人以外は決してわからないと思うのです。本当にわかってあげることなんて、きっとできない」
人はわからないもの? 確かにそうなのかもしれない。けれど、それでも。
わからないとは、なんて辛いのだろうと思う。
人は、自然や動物のように、肌で触れ合うだけでは思いは伝わらない。だからと言って、言葉にしても伝わらないことの方が多い気がする。
「ですから、桜姫や陵駕殿がわからなくとも、そう悲観なさらなくても良いと思いますわ」
「うん……」
幼い頃から親しんだ、姉のような優しく純粋な蘭。なにがあっても桃の味方でいてくれて、励ましてくれるその存在がありがたかった。
「桃姫は、陵駕殿のことをどうお考えですか?」
陵駕を?
「養子とは……思えないわね。陵駕は大人で、ずっと頼りになって。わたしは陵駕には全然届かない。いつも陵駕の方が一歩先にいるの」
いつも桃をからかい、ふざけたことばかり言って来る陵駕。それなのに、その下には桃には見せないよう激情を隠していて。
あなたはなにも捨てていないでしょうと言った、それが陵駕の本音だった。それでも、彼は桃を責めることはなかった。羨むこともなかった。
ただ己の運命とだけ向き合っていて。
こうしてうじうじと悩んでばかりいる桃とは、大違いだ。
「もうすぐ、陵駕は本当にわたしの養子になってしまうのに。わたしは母にはなれないままだわ」
「あの、桃姫。よろしいですか?」
蘭が居住まいを正し、桃を見つめて来る。その様子に、桃も脇息から身を離した。
柔らかくあたたかい、それでいて真剣な眼差し。
「桃姫は、母にならなくてもよろしいのではありません?」
「え……?」
母にならなくてもいい?
「どうして?」
「いえ、立場上は母となるでしょうけれど、桃姫は陵駕殿に届かなくてもいいのではないかと思うのです」
「だから、どうして?」
陵駕に届かなくてもいい?
「なぜって、桃姫はまだ十七ですわ」
小さく首を傾げ、しかし蘭はきっぱりとそう言い切った。ねえ、そうでしょう? という表情で桃を見つめて来る。
「十七の桃姫が、二四の陵駕殿の先を歩けるはずがありません」
聞きようによっては失礼とも取れる内容。しかし、桃はそうは思わなかった。
蘭の言いたいことがわかったからだ。
「そう、そうね……本当にそうね……」
桃は十七。陵駕は二四。陵駕は桃より七年も多く生きている。
「敵わないはずよね……」
陵駕を大きいと感じてしまうのは、彼の方が桃より七年も多く生きているから。その七年かかって陵駕が得た大きさに、たかだか数ヶ月で追いつけるはずなどないのだ。
桃は一生、陵駕には追いつけない。だから。
立場上の母。それだけのことなのだ。内面までそれにふさわしくなろうなど考えなくてもいい。
なぜなら、到底無理なことだから。一生かかっても、追いつくことなどできないのだから。
そんな不毛なことをするよりも、陵駕を知ることに集中したらいいのだ。彼と上手く生きて行くために。
「そうなのね……」
だから別に陵駕を養子として認め切れなくていい。友だと思っていてもいい。それを他言しなければ、他人からは仲良く家を盛り立てる親子に映るだろう。
そういうことなのだ。
「ありがとう蘭。少し、気が楽になった」
「いいえ。お役に立てましたなら、蘭は嬉しいですわ」
ほほ笑む蘭に、感謝と愛しい気持ちが湧き上がる。本当に純粋で思慮深くて、他人の気持ちを考えられる蘭。
一人の人として、蘭のことが好きだ。乳姉妹だというのもあるが、そうでなくてもきっと桃は彼女を重用しただろう。
蘭が自分の侍女に付いてくれて、本当に感謝している。だから。
「ねえ、蘭」
「はい」
「桜のことも、見ていてあげてね」
桜。桃の大切な半分。彼女も桃と同じように、いや、それ以上にきっと蘭の力が必要だ。
「あの子のことも見ていて。お願い」
蘭だったら、桜になにかしてあげられそうな気がする。
「はい。桃姫がそうお望みでしたなら」
「ありがとう」
桜には笑っていて欲しい。幸せになって欲しい。
どうか……。
◆ ◇ ◆
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