平等な痛み

 今は亡き貴子の部屋の前で桃は足を止めた。いまだに誰が貴子を殺めたのかわからないことが、ずっと桃の胸につかえている。

 あの日、貴子付きの侍女らは、退室を命じられていたという。貴子は自ら一人になって、そのために殺められたのだ。

 貴子に人払いをさせられる人物はそう多くない。彼女を殺めたのは、それなりに尊い身分の者だ。それがとてつもなく恐ろしい。

 誰が、なんのために。その疑問に抗えず、気がついたらここにいた。

 部屋はかたく閉ざされている。出入りを禁ずるためだろう、和紙で作られた帯が部屋全体を覆うようにかけられている。そして、その上に物々しい退魔の呪符が1枚貼り付けられていた。

 出入りを禁ずる。それは人の出入りと、そして魔の出入りを。

 強かった貴子。その貴子はいまだ部屋の中にいる。

 彼女の怨念は強すぎたのだ。あの日行なった魂鎮めの儀式だけでは、彼女を鎮めることが出来なかった。そればかりか、貴子はその強すぎる怨念によって魔と化してしまったという。

 だからこうして、貴子は呪符により彼女の部屋に閉じ込められた。そして、これまでに何度も退魔の儀式が繰り返されてきたものの、まだ祓うことは叶っていない。

 理不尽に命を奪われた上に閉じ込められ、怨念に苦しむ貴子。同情はするが、桃にはどうしてやることもできない。

 貴子を部屋から出してやることも、その魔を祓うことも桃には出来ない。

「貴子様……」

 まっすぐに部屋を、そして封印の呪符を見つめる。そこに、貴子はいる。

「どうして、貴子様はそんなにお強かったの……?」

 そんなに、魔と化すほどの怨念で自らを縛り付けるほどに。

 生前から強かった。冷徹と恐れられるほどの有能さと、それに見合うだけの強固な意志。どんな罵りも一蹴し、反論すら完膚なきまでに叩き潰す執念。

 それはどこから来るものだったのだろう。

 桃は捨てるものなどなかった。なにも捨てずに、東雲しののめの元へと嫁いだ。捨てるものなどなかったのに、桃には貴子のような強さはない。だから。

(きっと、貴子様はなにか捨ててきたのだわ……)

 貴子だって、家主の正妻になるに当たって、何かを捨てて来たはず。彼女にだって捨てたくないものはあったはずだ。

 彼女の強さは、捨てたからこその強さだったのではないだろうか。

 人は大切なものを捨てれば弱くなってしまう。桜だって、陵駕りょうがだって、捨てることを拒み悩んでいる。きっと、桃だってそうなる。

 けれど、貴子はそうではなかったのだろう。捨てたからこそ強くなった。そう思えるのだ。大切なものを捨てて、捨てたけれどそれより多くのものを拾って。

 そうして強くなって。

(哀しみに溺れたりしない人だったのだわ……)

 哀しんだら哀しんだ分、それ以上に強くなっていける、そんな人。真実はどうあれ、桃はそう思う。

 そして、だからこそ彼女の怨念は強いのだ。殺められる瞬間の悔しさや怒り、恐怖。そんな激情の中絶えた命は、さらに強い怨念を生み出してしまったのだろう。

「わたしは、あなたのようにはなれない……」

 桃はそこまで強くはなれないだろう。そう、例えばもし、陵駕が本当に逃げ出して討たれる事があったとしたら。

(いや……)

 考えただけで胸が締め付けられる。起こってもいないことなのに、血の気が引く。

 追われて討たれる方がいい。そう言った陵駕の双眸が胸中を占める。

 耐えられない。捨てられるものか。もう深く関わってしまったのだから。それが、彼にとっては苦痛なのだとしても。

 その手を離して失っても仕方がないとは、どうしても思えない。

 恐らくそれが貴子には出来た。だからこそ、人の気持ちを考慮するということもなかったのだ。

 自分の痛みも他人の痛みも、彼女の前には平等だった。

 そう、殺められる瞬間までは。

 強いがゆえに縛られる貴子。自分の強い思いに縛られてがんじがらめだ。

 それすらも、桃は仕方がないことと割り切ることは出来ない。

 魔と化した貴子は、この部屋の中に封じられている。

 聞こえるのだ、貴子の声が。死の瞬間の、怨念のこもったうめき声が。その声は、もはや人の声ではない。

 今では皆、出来る限りここを通らないようにしている。貴子の声を聞かぬように。

 こうして部屋の前に立っているだけでも空気が違う。なにかとてつもない圧力が加えられているような、背筋の寒くなる圧迫感がここにはある。

 ここから出せ。貴子にそう命令されているような、そんな圧力。板一枚で隔てられた場所に、彼女は今もいる。その怨念に苦しみながらも命令してくるのだ。

 それは生前の貴子が纏っていた冷徹さとは、また違う恐ろしさを感じるもの。

「ごめんなさい、貴子様。その命令だけには従えない」

 今ここで貴子を外に出してしまえば、確実に桜の宮に災いをもたらす。帝の住まうこの宮で、そんな事があってはならない。

 魔と化し負の力に支配されている今の貴子は、きっと見境なく人々を襲うだろう。

 それくらい、神子みこではない桃にもわかる。今の貴子は危険だ。度重なる退魔の儀式でさえ祓えないのだから。

「だって貴子様、わたしたちのことを忘れておしまいでしょう?」

 魔と化した怨霊が縁の者を覚えていることはほぼない。魔と化した時点で、それはかつての人物とは違う異質なものへと変じてしまっているのだ。

 ここにいるのは、正確にはかつて貴子だった魔だ。

 ————オオオオォォゥ……。

 それは耳で聞いたのとは違う、頭の中に直接聞こえてきたような感触だった。

 桃の中で響いたのは、人の声を超越した何かのうめき声。

 貴子だ。確かにそれは貴子の声で、けれどももう人の声とは言えなかった。

 ぞっと全身に鳥肌が立つ。

 ————オオゥ、オオオオゥ……。

 頭の中に叩き込まれるかのような激しいうなり声。

 貴子が、苦しんでいる……。

 ————ココカラ、ダセ。マダ、ヤルベキコトガ、アル。

 桃にはそう聞こえた。貴子はすでに言葉を失い、聞こえてくるのは狂人のようなうなり声だけだ。

 しかし、その声は強烈に一つの意志を桃に叩き込む。やり残したことがあると。

「貴子様……!」

 突然、なんの前触れもなく殺められた貴子。当然、やり残したことは多いだろう。

 特に彼女は、鈴鳴家のために生きていたような人物だ。これからやるべきことも、今取り組んでいたことも数多かっただろう。貴子の穴を埋めるために、公達きんだちたちが泡を食って忙殺されるほどに。

 そう思うといたたまれない。一方的に命を奪われて、それでもまだやることがあるという意志を持っているなど。

 ————マダ……。

 こんなところで朽ちるわけにはいかない、まだ死ねないと。

(だけど、貴子様は……)

 魔と化した。人に災いをもたらす魔に。だから、外へ出すわけにはいかない。

 きっと貴子に残っているのは、やり残したことがあるという強い思いだけなのだろう。だから、外に出たとしてもなにをやり残したのかわかりはしないのだ。

 わからないから、苛立って手当たりしだいに人を襲う。理性を失い、目の前にあるものをなぎ倒す。

 それが、魔と化すということ。

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