思慕
「そんな……」
やっと出た声はそれだけだった。それほどまでに、死を望むほどまでに陵駕は追い詰められていたのだろうか。
気がつかなかった。気づいてやれなかった。
桜にしてもそうだ。自分はなにも気がつかなかったし、気づいてからもなにもしてやれていない。
なんて不甲斐ないことだろう。
「大丈夫ですよ、そんな心配そうな顔しないでください。母上は巻き込みませんから」
陵駕の顔が少し緩み、笑みを浮かべた。その笑みは苦笑に近かったものの、いつもの口調でそう言を継ぐ。
「で、でも、そんな……」
息が吸えない。胸がどうしようもなく早鐘を打った。冷たいものが吹き出し、思考が奪われる。
冷たくなった
目の前に紗がかかったように、陵駕の姿が歪んだ。目頭が熱い。
軽口ばかり叩くからと言って、なにも考えていないわけでも、全て受け入れられているわけでもないのだ。
「あぁ、すみません。今のは例えです。本当に討たれて死のうとか、考えていませんから」
嘘だ。あの瞳は、真剣に真実だけを告げていた。
そんなこと……。
「陵駕、お願いだから生きる道を選んで。お願い」
「母上?」
陵駕は今こうして、桃の息子となるためにここにいる。それは思いがけず、不思議な巡り合わせによって。
東雲が生きていたなら。桃に子があったなら。
きっと桃と陵駕は知り合うことはなかった。
「だから、あれは例えなんですってば」
「例えでもあんなこと言わないで‼︎」
少し焦ったような陵駕の声さえ、さらに桃の感情を高ぶらせる。
陵駕の苦しみに全く気がついてやれなかった。それは情けないが事実だ。
けれど、だからといって陵駕が命を投げ打つのは許せない。それが彼の言うように例えであったとしても。
あの瞳の語った真実を見なかったとしても。
鈴鳴家の家主として生きることそれ自体が、彼にとって苦しみの道だとしてもそれだけは。
「陵駕は今生きているのよ‼︎」
そう、陵駕は生きている。東雲のように、儚くなってしまったわけではない。
「東雲殿は亡くなってしまったわ。愛する暇もなかった。それでも悲しかったわ、もっと一緒にいられたら良かった。そう願っていたのに、叶わなかった」
身体が弱かった分聡明だった東雲。彼の話を聞くのは面白かった。そうして話をしている時に、生き生きとした瞳をする東雲の顔を思い出す。
けれど、その輪郭も声も、年々と遠くなる。薄れて行く。
「でも、陵駕は生きて、たくさん話を出来て、一緒に仕事も出来る。これから一緒に人生を歩んで行けるじゃないの‼︎ それなのに陵駕が死んじゃったらわたし……」
どうしてこんなに混乱するのかわからないまま、必死に言葉を紡ぐ。そうしなければ、目の前から陵駕が消えてしまいそうな気さえした。
陵駕が罪人として討たれるなど、考えただけで悲しくなる。嫌だ。
これが自分の我儘だということはわかっている。陵駕に辛いまま生きろと言っている。自分の悲しみを減らすために。
それでも、そう言わずにはおれない。
「母上……」
「何かを捨てながら生きているのは、陵駕だけじゃないのよ」
たくさんいる、大切なものを捨てさせられた者達なんか。捨てるしか生きて行く道がなかった者達なんか。
どれほど多くの貴族がそうやって、この桜の宮で生きて来ただろう。
「だから、だからみんなきっと、何かを拾いながら生きているのよ」
「あなたは、なにも捨てていないでしょう」
つぶやくように漏れた低い声。その言葉にぎゅっと胸が痛む。それはきっと、捨てさせられる陵駕の本音だろう。
そうだ、自分は何も捨てていない。だからわからなかった。陵駕の気持ちも、桜の気持ちも、何一つ。そう、これまでは。
「それでも、わたしは陵駕と出会ったの。何か一つでも違っていたら、一生出会わなかったかもしれない人と。そうでしょう?」
「……えぇ、そうですね」
「だから死ぬなんて言わないで。生きていて」
生きていて欲しい。ただそれだけの願いが、こんなにも苦しい。
歪んだ陵駕の姿がかき消えるようにして、涙がこぼれ落ちた。
陵駕が死ぬと考えただけで、どうしようもなく悲しい。苦しい。それが現実になってしまったらどうなるのだろう。怖い。
「生きていてよ……」
「母上……私、私は」
陵駕の瞳が、戸惑ったように瞬く。
「あなたが、私に生きていて欲しいと望んでくださるのなら」
伸ばされた陵駕の手が、優しく桃の涙を拭う。あたたかい指先。生きている証拠。
そのぬくもりに、なぜだか余計に涙があふれた。
「生きます」
「よかった……」
さらに涙があふれる。けれど、今度は悲しみの涙ではない。
何も捨てることのなかった自分。そんな自分に陵駕の気持ちが真実わかるとは思えない。
それでも、今この時から、少しでも彼の背負う苦しみを受け止めてやれればと思う。
「嫌ですねえ、母上。そんなに泣かないで下さい。私が泣かしたみたいじゃないですか」
「なに、言ってるのよ……りょうがの、せいじゃない……」
桃にだってよくわからないのだ。どうしてこんなに涙が出るのか。
それでも、この涙は陵駕の発言のせいだということは明白だ。
「あなたの侍女たちに怒られてしまうな」
几帳越しに控えている侍女らの気配がざわついている。それでも涙は止められない。
「もう泣かないでください。ね?」
まるで子供をあやすような柔らかな声で、陵駕が笑う。近づいて、そのまま桃の背中に腕を回した。とんとんと軽く背を叩き、さすってくれる。優しく。
その快い感触に、まるで幼かった頃に還ったような気分になる。昔も叱られて泣いていると、よくそうしてくれた人がいた。
優しい手だった。あたたかくて大好きだった。
(遼お兄様……)
ふと、桃の中で何かが弾けた。遠い、昔の記憶。
『ねえ、遼お兄さま。わたしね、遼お兄さまに嫁ぐの』
聴こえてくるのは、幼い日の桃の声。
『だってね、だってわたし、遼お兄さまを恋うているから』
どうして忘れてしまっていたのだろう。
桃は遼が大好きだった。それは、良き兄として好きだったのだと思う。決して、契りを結びたいなどというものではなかった。まだ、幼かったのだから。
それでも、桃は遼に嫁ぎたいと言ったのだ。自分で選んだことを、望んだことをまっすぐに。
東雲と一緒になったことを、悪いだなんて思ってはいない。東雲と過ごした短い日々は、幸せだった。それでも、言われたまま嫁いだ自分の人生が、少しだけすくい上げられた気がした。
あたたかくて優しい手。そんな手をした人を思い出せたのは、陵駕もまたそうだったからだ。
今はどこでなにをしているかわからない幼い日の兄。大好きだったその人と、陵駕はどことなく似ている気がした。だからこそ、生きていて欲しい。今度こそ、自分を置いてどこか手の届かないところへ行かないで欲しい。
そう自覚すると、さらに涙がこぼれ落ちた。
「わたしを置いて行かないでよ……」
「あなたがそうお望みなら」
陵駕が小さくほほ笑んだ気配がした。その手が桃の髪をなで、涙を拭う。
置いて行かれたくないのは桃の我儘だ。陵駕の返事は、それに合わせてくれたに過ぎないだろう。ここから逃げなくてもいつかは妻を娶り、桃よりそちらを優先する立場になるのだから。
それでも今だけは————。
◆ ◇ ◆
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