参 栄燿栄華
謀略
葉桜の緑が、燃えるような夕日の赤に美しく染め上げられる時間。
鈴鳴家家主・
最近、何かがつまらない。大股で歩きながら、柑子はふとそう思う。
毎日公務をこなして、それが終われば酒を飲んで。こんな生活を快いと思っていた時期もあったというのに。
いつからだっただろう、同じことの繰り返しに飽きて来始めたのは。
今だって、日々は快く過ごしている。が、ふとした瞬間になにかが足りないのだ。
なんなのだろう。
風が吹く。きっちりと一つに束ねられた黒髪が、頭の上で風に揺れる。少し長く伸びてしまった前髪の下には、精悍な瞳。細面の顔は、夕日に染まって赤い。
その瞳が夕日を仰ぎ見て、やがて息を吐く。
今日は疲れた。久しぶりに正妻の牡丹と会ったからかもしれない。
牡丹とは食事を共にした。ただそれだけなのに。
かつては柑子も、牡丹を愛していた。愛していたからこそ、柑子は家主でありながら側室を作らなかった。
それなのに、今は。今でも変わらず柑子のことを愛し続けてくれている牡丹に会うのが、おっくうに感じられてならない。彼女に対して、多少の罪悪感を感じているからかもしれない。
柑子はもはや、牡丹を愛してはいない。
そう、おそらく
東雲が儚くなったのは、牡丹のせいではない。それはわかっている。東雲は生まれつき身体が弱かったし、それは貴族にはままあることだ。むしろ、腹を痛めて産んだ牡丹の方が、よほど嘆き悲しんでいたように思う。
けれど、ただ一人の世継ぎを失ったことは、絶望だった。身体が弱くても、それを補うだけの聡明さを持ち、必ずや帝の役にも立てるだろうと思っていた。
それなのに。
なにもかもが終わった気がした。そう、牡丹への愛も。
賢く美しく、自分を愛し続けてくれている牡丹。しかし、今はただの飾り物でしかない。家主として、彼女を立ててやるだけだ。
今の自分に愛せるものなど何一つないと柑子は思う。義娘の桃など問題にもならない。東雲が是非にと望んだその聡明さは認める。さすがは貴子の孫だ。
しかし、東雲が望んだとは言っても、元々は政略結婚。彼女も飾り物のひとつ。娘などとははなから思ってなどいない。
その桃の養子の
おそらく向こうも同じだ。すべて政略だと分かっているのだから。
貴族を結ぶものは、血と身分。
おそらく貴族にはなにかが足りないのだろう。臣民が持っているような、なにかが。それがなんなのかは、根っからの貴族である柑子にはわからないものだが。
臣民になりたいとは思わない。けれど、貴族と臣民では、臣民の方が人として生きているという気はする。
何にも縛られず、臣民を守らなければという重責もなく。
ひとつため息をついて立ち止まる。なんとはなしに夕日を眺めた。
「ふん……私も歳を取ったものだ」
こんなことを考えて憂鬱になっているなんて。臣民を守る為に生まれ、それを誇りとして帝に仕える鈴鳴家の家主らしくもない。
そんなことを思って、柑子が肩をすくめたとき。
「柑子殿。失礼いたします」
女人の声。
後ろから歩み寄ってきたのは、柑子もよく見知った顔だ。彼女には、まるでその場が華やぐような愛らしさがある。それは常々思っていた。
いつも一緒にいる桃とは、雰囲気が大きく異なる。
「どうした」
微かに眉をひそめる。
彼女のことはよく知っている。時には親しく言葉を交わすこともある。しかし、今の彼女はなぜかいつもと雰囲気が違って見えた。
その瞳が、夕日を受けて赤く染まったような錯覚に陥る。
「柑子殿」
柑子を呼ぶ声色は、何かの決意に満ちているように強く響いた。その声に、女の音を発する唇に、柑子は無意識に吸い寄せられてしまう。
それは直感だった。何か、とてつもないことを告げようとしている。
「柑子殿は……」
ゆるやかに、女はその唇を開いた。柑子に触れられそうなほど近づき、言葉を紡ぐ。
「実の子に跡目を継がせたいとは思われませんか?」
◆ ◇ ◆
柑子には牡丹がいる。それは周知の事実だった。
貴族としては幸せなことに、愛し合って結ばれたのだ。柑子と牡丹は、鈴鳴家の中でも、比翼の鳥のようだと囁かれているほど仲睦まじい。
それゆえに、柑子は側室を持たなかった。それが、結果的に世継ぎがいないという悲劇を生んだのだが。
愛息の東雲はもう亡いが、陵駕を養子として迎え入れることから、柑子が側室をこれからも娶るつもりがないのだろうことはうかがえる。
最近、柑子と牡丹はあまり会っていないという噂も聞くが、本当のところは知るよしもない。
都での
勝算としては五分五分と言ったところだろうか。
(気に入らぬ……)
鈴鳴柑子。ことごとく自分の考えを否定していく鈴鳴家の家主。
昔からそうだった。貴族という身分とその役目に囚われるあまり、ほんの少しの融通さえきかない。貴族としての正しさが全てで、それはもう思考を放棄しているとしか思えないほど。
決して聡明ではない。それでも賢君ではあると思っていたから、これまでじっと耐えて来た。しかし、もう我慢の限界だった。
誰を裏切ることになろうとも、遂行してみせる。そのためになら手段は選ばない。
そのことによって、愛するものから蔑みの目で見られることになっても構わない。そんなことで揺らぐ愛情ではないのだから。
幸いにもあの娘は無知だ。無知で素直で、ひたむき。愛する者のためにと言えば、なんだってするだろう。
それが、自らの身の破滅だとも知らずに……。
◆ ◇ ◆
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