忠告

「陵駕」

 桃の部屋からの帰り。突然呼び止められて振り返ると、そこに居たのは貴子だった。

 ちょうど脇の部屋から出てきたところのようだ。

 冷たく光る瞳が、陵駕を真っ直ぐに射抜いてくる。

「……何か御用でしょうか、貴子姫」

 なるべく静かにそう返す。しかし、貴子の瞳を真っ直ぐに見ることが出来なかった。

「今まで何処に?」

「母上のところです」

 だからどうだと言うのだろう。桃と親睦を深めるのは良いことのはずだ。

 あの聡明な姫の事だ、おそらく仕事を共に行うことになるだろう。そうなれば、円滑な関係である方がいいに決まっている。

「二人でか?」

「最初は。あとから桜姫と、女官の蘭でしたか? 彼女と四人で」

 だから?

「そう。それはよろしいこと」

 貴子の眉が片方だけつり上がった。冷たい笑み。

 その冷ややかさは、陵駕の心をざわつかせる。

(なんだって言うんだ)

 その瞳は笑ってなどいない。わずかに細められた双眸は、氷よりも冷たく透き通っている。

「陵駕。其方そなたはいずれ鈴鳴家を背負って立つ身。くれぐれも、おかしな気を起こさぬよう」

「なっ————」

 おかしな気⁉︎

「それはどういう意味ですか」

 急激に腹の奥が熱を帯びた。頭に登ったそれが口から飛び出すのをなんとかこらえ、押し殺した声を紡ぐ。

 微かに語尾が震えたが、致し方ない。

「意味は其方が考えるがよろしい」

 ゆったりとした物言い。しかし、その声色には有無を言わさぬ響きが込められている。

 反論は許さない、と。

「わかれば行くが良い」

 その一方的な威圧感に押される。頷くしかない。

「わかりました。では」

 軽く貴子に礼をし、彼女に背を向ける。

 後ろで絹ずれの音が聞こえた。遠ざかって行くようだ。

「私は、別に……」

 貴子の耳に、女官たちの噂が入ったのだろうか。だから、わざわざあんなことを?

 桃は面白い。一緒にいて楽しい。身分や立場、役目などでがんじがらめなこの世界の中で、桃の前でだけは素の自分でいられる。だから、なにかと足が向いたのは事実。けれど。

 陵駕が世の中のことをわかって来た頃、桃はまだあまりに幼かった。人を驚かせては常盤に叱られているような。

 そして秋になれば、その子供は陵駕の母となる。だから。

(やれやれ……)

 貴子があんなことを言い出すくらいだ。もうそろそろ陵駕も妻を娶ることになりそうだ。

 鈴鳴家には、陵駕につり合う年頃の姫は、桜以外にいない。しかし、その桜でさえも、陵駕の叔母になってしまうため許されない。

 どうやら陵駕の妻は、他家の見知らぬ姫になりそうである。

(私の妻になったら苦労するな、多分)

 特に女性関係で。皆食わせものばかりだ。

 まず貴子。それから桃の母である常盤。桃。皆気が強くて聡明な者ばかりだ。おそらく桃だって、かなり良い位置で出仕を乞われるだろう。仕立てなどの手仕事よりも、きっと宮中政治の方が向く。負けん気も強く、さすがは常盤の娘だ。

 そうそうたる顔ぶれではないか。並みの姫ならば圧倒されて縮こまってしまうだろう。

 そう言えば、今まで生きてきた中で、貴子に盾突いたのを見たことがあるのは桃だけだ。おそらく常盤などはそういうこともやってのけていたかもしれないが、実際に目にしたことはない。

 陵駕が目にしたのは、いまだに桃だけ。

 まだ桃が幼かった頃。そう、あれも桜が散り始める季節で————。


   ◆ ◇ ◆


「どうして⁉︎」

「愚問ぞ、桃」

「どうして⁉︎ いや、絶対にいや‼︎」

 春の庭先。無数の桜吹雪の下で、桃は大声を上げていた。貴子を相手に。

「何が嫌だという? 其方の将来が確かになったというのに」

「知らないわ、そんなこと! わたしは嫌よ!」

 常盤が目撃していれば卒倒しそうな勢いで、地団駄を踏む桃。

 貴子はその時、桃の婚約について話していたのだ。とりわけ、桃の嫁ぐ相手である東雲のことを。

 東雲と桃の婚姻は、二人が幼い頃に決められたことだった。正確には桃とではなく、桃か桜のどちらかをという話だったと記憶している。貴子の意向としては、一の姫である桃だったようだ。

「ふ……。其方のような娘を娶ることになる東雲も哀れなものよ」

「じゃあやめて」

「たわごとを。其方が駄目でも桜を嫁がせるだけのこと」

 しかし、幼い桃にそんな話が理解できるはずもなかった。

 桜はどこにもやらないと、幼いながら母親みたいなことを言って口を引き結ぶ。

「どうして貴子様が決めちゃうの⁉︎ はるかお兄さまは、恋うた方に嫁ぐのがいいことだっておっしゃったわ!」

 遼。その名前に貴子の瞳がすっと冷たくなる。

 その色に、一瞬桃はたじろいたように身を引いた。

「あれはおかしい。あれの言うことを信じてはならぬ」

「どうして⁉︎」

 その頃の桃の全ては、遼お兄様のようだった。彼の言うこと、することを全て信じきっていた。

 それは、傍から見ていた陵駕でさえ、笑い出したくなるほどに。

「聡明さというのは正しく使われねばならぬ。今は桜の宮に置いてはおけぬな」

「どうして⁉︎」

 その桃の叫びもむなしく、その後元服した遼は、遠く離れた葵の宮へ出向という形で追い払われてしまった。桜の宮に置いてはおけないという貴子の言葉は本気だったのだ。

 そして桃とはそれきりになった。

「遼お兄さまも桜も、どこへも行かないわ‼︎」

 叫んだ桃の瞳が印象的だった。強くて真っ直ぐな瞳。

 桜の木に隠れるようにして二人を眺めていた陵駕は少し苦笑いして、その場を離れた。足音を立てぬように気を付けて、静かに。

 鈴鳴代赭たいしゃの一の姫、桃。彼女をきっと一生忘れないだろうなと思った一瞬だった————。

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