粘菌術師は穴熊る
──北海道、釧路湿原。
違法に増築されたメガソーラーユニットの撤去工事中に、地中ごく浅い範囲より新種の粘菌が多数発見された。およそ25平方キロメートルにおよぶ巨大コロニーを形成していた新種粘菌は『クシロスライム』と命名された。
私の足下、この釧路湿原の広大な地中にクシロスライムが息を潜めている。そのおぞましい光景を想像するだけで肌が粟立つ。ブーツが泥に塗れるのも構わず、湿地帯に整備された遊歩道を足早に歩き抜けた。
クシロスライムの根付いた大地に急拵えの一軒のログハウスがある。研究者が現場に寝泊まりしないでどうする、という無茶な要求により急遽建てられたクシロスライム研究室だ。
ウッドデッキがまるで北欧の湖畔リゾートを思わせる涼やかな風景の中、上半身ビキニ水着にだらしなく白衣を羽織った長身の女が一人。
「群雲! こっちだ!」
乃木和先輩はめざとくも私の姿を見つけて片手を振り上げた。白衣から覗く上半身ビキニ姿が湿原の風景に妙にマッチしている。乃木和カタナはクシロスライム主任研究者であり、大学時代の私の大事な先輩であり、マッドなサイエンティストである。
クシロスライム。あいつらは太古の時代から姿を変えず生き続けてきた単細胞生物だ。それこそ人類が栄える以前からこの地の支配者だった。そして現代社会が渇望する大いなる可能性を秘めた謎の生命体でもある。
「乃木和先輩、わざわざ来てやりました!」
クシロスライム。あいつらは二酸化炭素を食って熱を生む。光合成とは異なる機構で二酸化炭素を吸収する植物でも動物でもない小さな小さな生命体。これほど近代における人類の経済活動に適合する生命がいただろうか。
釧路湿原国立公園にて。違法に増築されたメガソーラー施設が本来ならば地面に吸収されるはずの太陽熱を遮り、湿原の自然環境に多大な影響を与えた。しかしそれはクシロスライムにとっては絶好の生息環境であった。太陽光によって地中深く活動を制限されていたクシロスライムは土壌表層まで活動域を広げて、湿原どころか道東地方を覆い尽くす勢いで爆発的に増殖している。
「よく来たな。まずは脱げ。もしくは飲め」
「脱ぎません。飲みます」
シワひとつない白ワイシャツの襟元を正し、黒くて細い刃物のようなネクタイを締め直す。いくら温度湿度が高いと言えど、乃木和先輩のような格好はしたくない。
ウッドデッキのガラステーブルには氷が浮かんだアイスコーヒーのデカンタが冷たそうにしずくをまとい、何かの焼き菓子みたいな得体の知れないブツが木皿に盛り付けられている。
「戦況はどうです?」
デカンタのアイスコーヒーを自分でグラスに注ぐ。カラン、と氷が涼しい音を聴かせてくれた。
「はっきり言おう」
上半身ビキニに白衣姿の乃木和先輩はアイスコーヒーのグラスを湿原の晴れた空に掲げた。祝杯を上げるように高らかと。
「このままではクシロスライムの勝ちだ。北海道全土が無秩序に侵食される日も近い」
10月の釧路湿原は暑かった。おかげでアイスコーヒーが冷たくて美味しい。クシロスライムが排出する熱と湿原から湧く湿気がほどよくブレンドされてまるで熱帯雨林のような気候だ。釧路湿原が釧路ジャングルになる日もそう遠くないだろう。そして乃木和先輩の野望が叶う日もまた、近い。
乃木和カタナは変人である。こと人工知能の扱いに関しては変態的な特殊能力を発揮する。女子高生時代からやれサイコパスだ、やれマッドサイエンティストだ、と言われていたものだ。
現在も、クシロスライムに将棋を教えている。マッドっぷりは健在だ。
「で、どんな具合だ? 国のアホどもの見解は」
ツーブロックに決めたショートカットを掻き上げて、乃木和先輩はゲーミングノートPCのモニターを睨んでいる。
苛立たしく耳にぶら下がる大きなイヤリングをカチリと指で弾いた。事態が上手くいっていない時のクセだ。
「そのアホどもには私も含まれますか?」
「いや、おまえはあたしの特別だ。違う見方が出来る観察者だ。だから呼んだ」
なら、いい。許す。
「厚生労働省と文部科学省、国土交通省まで出張ってきて、クシロスライムの取り扱いはうちにやらせろって揉めてます」
「どいつもこいつもクシロスライムの有用性に気付いてないのか。いや、別の意味で気付いてるからこそ横取りしようとしてる?」
USB接続端子から伸びる長いケーブルがウッドデッキを越えて地面に突き刺さっている。乃木和先輩が睨むモニターをそっと覗き込んでみた。
「厚労省は粘菌がヒトに悪い病気を持っていないか、感染性の健康被害を懸念してます。文科省は熱を生む能力を発電に使えないか、と画策中です。国交省は国土の開発ならうちだろうって一口噛みたいようです」
今のところ、私が所属する文部科学省がクシロスライム研究に一歩リードしてるという具合だ。
地面にケーブルを直接ぶっ刺しているノートPCの画面は将棋ゲーム。クシロスライムと対戦中だ。相変わらずイヤリングを指で弾いている。モニター内の将棋盤では相手側が一歩リードしてるという具合か。
「クシロスライム、強くなりそうですか?」
「そこでおまえの能力が必要になる。出番だぞ、群雲静」
乃木和先輩はあっけなくノートPCの前から退いた。片手をひらり翻して空いた席に私を誘う。いいのか、群雲静。この席に座れば同罪だ。
「敵の王将を獲るよりも逃げて逃げて生き延びる将棋を教えているんだが、なかなかうまくいかないもんだな」
生き延びる将棋を指すクシロスライム。厄介な相手だ。逃げる王将はとことん走る。それを捕らえるのは相当の先読みが必要だ。クシロスライムにはそれ以上の読み能力を教え込まなければならない。
「道理で、クシロスライムの行動範囲が広がってるはずです。旭川市近郊でもクシロスライムと思しき粘菌群体が発見されました。遺伝子情報から同体であると確認が取れました」
「旭川まで逃げたか。札幌まですぐだな」
乃木和先輩はケラケラと気持ちよく笑った。形だけでも進撃のスライムを食い止めようと見せかけて、将棋盤の王将同様に、クシロスライムを札幌まで誘導する。北は紋別、南は函館まで、北海道全域に勢力を伸ばしてやる。それが乃木和先輩の野望だ。
私は文部科学省の人間として、クシロスライムの拡散を食い止める使命を帯びている。乃木和先輩と文科省と、どちらを取る?
「だとしたら、次の一手はこっちです」
考えるまでもない。私は乃木和カタナにつく。速攻でマウスをクリック。クシロスライムを横のラインで走らせる一手を打ち込んだ。
将棋盤のクシロスライムはすぐさまリアクションを返してきた。私の狙い通り、攻撃の手が薄い方向へ逃げてくれる。北海道で言うならば、いったん襟裳岬方面へ逃れるように。
「反応速度すごいですね」
「直挿しだからな」
ノートPCから伸びるUSBケーブルを目で追う。確かに直で地面に挿してはいるが、何の接続端子を使っているんだろう。いやいや違う。どういう仕組みで情報のやり取りをしてるんだ。
「あの先に、クシロスライムがいるんですか?」
考えるだけで鳥肌ものだ。
「あいつらは古代単細胞生物だ。考えてることなんて餌を食うか刺激から逃げるか、くらいだ」
「だからまず刺激を回避する方向性を示してやるんですね」
「あたしの将棋の腕じゃ限界だ。だからこそおまえの力が必要なんだよ」
「逃げ延びたご褒美に美味しい餌も必要ですよ」
乃木和先輩のニヤニヤ笑いは止まらない。
「ちゃんと栄養豊富な甘い水も用意してある。将棋の迷路の向こう側にな」
「迷路をクリアして餌にたどり着く粘菌もいますよね」
「単細胞に記憶回路はないが、複数集まって群体としてパターンを認識する」
画面上の将棋盤をさらに俯瞰して全体を眺めてみる。戦況はクシロスライム側に有利な感覚がある。単純な将棋の腕前はもう乃木和先輩を越えているのだろう。このパターンで行くなら、少し痛い目に合って逃げ出させる方がいい。私は極端に攻める手を打った。
「神経細胞のシナプス結合に似てます」
クシロスライムはさらに逃げる。将棋盤を走るように、本体のクシロスライム群体も南へ移動するだろう。
「それよ。クシロスライム一匹じゃ餌を食うしか能がないが、そこらへん無数に存在する」
そこらへん。嫌すぎる。鳥肌が再発する。
「二酸化炭素を食って熱を発している時、あいつらはかすかに荷電する。それがオン状態だ。発していない時はオフ。もうわかるか?」
将棋で生かさず殺さず誘導する。脅威から逃げることと敵を攻めることを同時に教え込む。群体はそれをパターンで実践するだけだ。乃木和先輩と私の意図など関係ない。
「ゼロとイチ。二進数です」
乃木和先輩はニヤリと笑う。ある意味、クシロスライム以上に人類に仇なす素敵な笑顔だ。
「半径64匹のクシロスライム球体がある。中心から対となる64クシロをオン、反対側をオフに固定すればオンとオフが同時に両立するクシロ球となる」
「一つの球体が量子状態を維持、すなわち量子ビット化されます」
「それよ。量子ビットと化したクシロスライム球体が多層構造で三次元的に配備され、それが釧路から旭川、札幌小樽まで増殖するんだ。どうなる?」
私はアイスコーヒーを一口飲んだ。内なる興奮と潜在的恐怖がせめぎ合っている。冷たいコーヒーごときで冷静になれるものか。
「情報伝達速度が釧路札幌間で光の速さを越えます」
ものすごい数のクシロスライムを経由するが、群体として見ればクシロスライムは一匹だ。量子ビットのパターンを北端のスライムと南端のスライムが同時に認識する。
クシロスライムを北海道全域に繁殖させれば、紋別から襟裳岬まで、知床から函館まで、情報は同時間で伝達される。光の速度が遅く感じられるほどだ。
「処理速度ゼロだ。北海道全土量子コンピュータ計画は、この将棋ゲームにかかっている」
将棋盤で一コマ動きがあると、即座に指し返してくるクシロスライム。こいつらは人類の敵か。それとも味方か。私にとっては将棋の対戦相手で、乃木和先輩にとっては道具だ。
「北海道全土がクシロスライムに汚染されれば農作物に与える被害は甚大なものになります。そうなれば、日本人の命運もかかってます」
「大丈夫。奥の手もすでに用意してある」
「奥の手?」
無限に増殖するクシロスライムへの対抗手段など存在するのか。乃木和先輩はコーヒーに添えてあった焼き菓子のようなモノを口に放り込んだ。
「あいつら、焼いて食ったらすごい美味かった」
「……食った? 食った!」
新種の粘菌を! まだまだ研究途中の動物でも植物でもない謎の生命体を! 焼いて! 食った!?
「おまえも食うか? 量子ビット化したあいつらが害だとわかったら、日本人全員で食い尽くせばいい」
「先輩は、クシロスライムだけでなく日本人の敵ですか?」
「そうか? 食料自給率問題も解決するし、かなり美味いぞ。あくまで、こいつらが手に負えなくなったらの奥の手だ」
私は初めてクシロスライムに同情した。乃木和カタナと出会ったのが、奴らの運の尽きだ。
そんな時、クシロスライムが私に王手をかけた。
「お。やるな、クシロスライムめ。群雲、負けるなよ」
どうする? ここで私が投了すればクシロスライムの逃げるための学習は終わってこれ以上の生息域拡大はなくなるだろう。
私が王手を回避し、逆転して攻め続ければ、将棋盤だけでなく、クシロスライムは北海道全域に増殖を続ける。
どうする?
決まってる。乃木和先輩の望む通りに。そんな世界が一番面白いに決まってる。
「徹底的に、逃げってものを教えてやります」
私は焼き菓子のようなモノを一つ摘み上げた。思ってたよりも軽い。中身がスカスカなかりんとうみたいな硬さも指先に感じる。
意外と美味そう、に見える。でも、焼きが足りずにクシロスライムがまだ生き残っていたら、私はどうなってしまうんだろうか。胃液の勝利で無事に消化できるのか。それともクシロスライムに乗っ取られる?
ちらり、乃木和先輩の口元を覗き見る。美味そうにガリガリと咀嚼している、ように見える。
ペロリ、ピンクの舌先が唇から覗いた。乃木和先輩は笑ってこっちを見てる。
私は、クシロスライムの焼き菓子を、口に入れ──。
どうしよう?
クリプトクロムと電氣蜂 鳥辺野九 @toribeno9
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