第六話 八月十二日

 八月十一日、水曜日。


 雪斗は達也に連れられて、高校部の寮へとやってきていた。水橋に細工をした時に手に入れておいた合い鍵を使って、寮の一階、二年益田彩音の部屋へと侵入を果たした雪斗は、達也の指示で魔法円を部屋のいたるところに配置していった。


「こんな小細工必要なのか?」

「要るんだよ」


 床に一枚一枚、魔法円を置きながらの質問に、顔を上げないまま達也は答える。


「これは土星の第四の魔法円。対象に破壊と死をもたらすんだ。益田彩音は大事な大事な、最後の生贄だからね。念には念を入れておかないと。それに――」


 達也はそこで一旦言葉を切り、雪斗の方を見た。


「僕が死んだ後の、君の苦労を減らしておきたいんだ」


 その言葉を雪斗は笑い飛ばすことはできなかった。


 ――こんなにも真剣に言われると、本当に効果があるような気がしてくる。


 真偽のほどはどうあれ、ここまでまっすぐに向けられる好意が不快なはずはなかった。しかし同時に、そこに暗に込められた前提は、雪斗にとって好ましいものではなかった。


 ――雪斗が達也を殺すという計画。その一件について雪斗はずっと考えるのを後回しにしてきた。しかしもう考えないわけにもいかないだろう。


「確認しておくね。まず藤堂涼子の飲み物に毒を混ぜ、屋上に呼び出した塩田隆弘を突き落とす。次に君が僕を絞め殺す。そうすれば藤堂涼子は銃で撃たれて死ぬはずだから、あとは君が残った益田彩音を焼き殺すだけ」


 達也は鼻歌でも歌うかのように、そうやって気楽に言ってのける。


 自分が人を殺す。しかも直接、この手で。雪斗はその言葉の恐ろしさに身震いをした。


「雪斗くん」


 優しい声色で名前を呼ばれ、雪斗は顔を上げる。達也はへにゃりと笑った。


「僕を殺したら解体してもいいからね」


 雪斗は軽く目を見開いた。達也はいつもの黒々とした目ではない――正気そのものの目で笑っていた。


「だからちゃんと殺してね」


 達也はそうやって念押しをする。雪斗は――何も答えなかった。





 翌、八月十二日、木曜日。


 雪斗と達也は秘密基地で、彼女の死体の前で向かい合っていた。今日は計画の決行日。残りの生贄たちが全て捧げられる日であり――雪斗が達也を殺す日だ。


「なんだか緊張するね」

「……ああ」


 どこか浮かれた様子の達也に対して、雪斗の顔色は優れなかった。そんな雪斗の手を取って、達也は雪斗に笑いかけた。


「今日までありがとう、雪斗くん。……すごく楽しかったよ」


 雪斗は答えず、ただ俯いた。達也は雪斗の手を放すと、彼女の死体の前にひざまずいた。


「姉様ともお別れしなきゃね……」


 そう言うと達也は彼女の死体と何事かを話し始めた。それはどう見ても一方的な会話で、だけどとても幸せそうな光景だった。


 ほんの数分間彼女と会話をした後、達也は彼女の胸の上に蚕の形をした木片を置き、彼女の手の甲にキスをして立ち上がった。


「じゃあ行こうか」


 もう何の未練もないといった顔で梯子を登っていこうとする達也を、ずっと目を伏せていた雪斗は呼び止めた。


「なあ、その前にちょっといいか?」

「何? 雪斗くん」


 振り返った達也に、雪斗は笑いかけた。それは精一杯の作り笑いだった。


「見ててもらいたいものがあるんだ」


 言うが早いか、雪斗は足下に置いてあったビーカーを拾い上げ、その中身を一気に飲み干した。中身の液体は無色透明で、飲み下すごとに文字通り喉が焼ける感触がした。


 突然のことにうまく反応できなかった達也は、雪斗が液体を全て飲み干して、ビーカーを地面に置いてしまってから、震える声で尋ねた。


「待って、今、なにを飲んだの」

「なにって毒だけど」


 飄々と言ってのける雪斗に、達也は一瞬息をするのを忘れた。


「理科準備室から貰ってきたやつ、実は残してあったんだ」


 雪斗は吹っ切れた顔でそう語った。


「嘘だよね、ただの冗談だよね」


 達也の問いかけに雪斗は笑うばかりだ。棒立ちになっていた達也はハッと正気付くと、雪斗に駆け寄った。


「吐き出して! はやく!」


 ごぽり、と。吐き出されたのは毒ではなく、血の塊だった。血は音を立てて地面に落ち、雪斗の体もまた地面に向かって崩れ落ちた。達也は何もかもが遅すぎたことを知った。


「生贄は、首を折って、死ぬんだろ」


 息も絶え絶えになりながら、雪斗は達也に語りかける。


「だったら、早く殺さないと、その前に毒で、死んじまうぞ?」


 何を言われたのか達也には分かった。分かってしまった。つまり雪斗は達也の代わりに生贄になろうとしているのだ。


「ほら、早く、時間ないぞ」


 足下から急かされ、達也は必死に考える。


 ――どうしよう、どうしよう。このままじゃ雪斗が死んじゃう。嫌だ。そんなの嫌だ。そうだ、死んじゃったら儀式ができない。雪斗の言うとおりに僕の代わりに雪斗を殺す? でもそんなの、そんなこと――


 達也は雪斗を見た。雪斗はちょうど二回目の吐血をしたところだった。あれはもう、きっと助からない。素人の達也の目にも、それがはっきりと分かってしまった。


 それなら、そうなら、やっぱり――


 達也は震える手で雪斗を仰向けに寝かせ、その首に手をかけた。雪斗はかすかに笑った気がした。


「どうしてこんなことしたの……」


 震える声で尋ねると、雪斗はうっとりと熱に浮かされた目をした。


「俺、気づいたんだ。俺が、彼女の死体に惹かれたのは、彼女の腐り方が、美しいからで……俺も、彼女みたいに、腐ってみたかったん、だって」


 雪斗の告白を達也は雪斗の上で聞き続けた。雪斗は力なく笑った。


「だから、ここで死にたかったんだ。彼女の隣で、腐りたかったんだ」


 ぽた、ぽた、と雪斗の顔に滴が落ちる。達也は震える声でしゃくりあげた。


「馬鹿、雪斗くんの馬鹿」

「うん」

「生贄の順番もめちゃくちゃになっちゃったじゃないか」

「うん、ごめんな」


 達也の恨み言に、雪斗は穏やかに謝り続けた。達也は雪斗から目を離せないまま、目から大粒の涙を流し続けた。何度もしゃくりあげ、何か言葉を繋げようとして、何度も失敗し続けた。雪斗は穏やかにほほえんだ。


「ありがとな、達也。俺も楽しかったよ」


 手に力が込められる。体重がかけられた二本の親指が気道を押しつぶし、雪斗の呼吸を奪っていく。


 ――最後にふっと笑い声のようなものを残して、雪斗はそれっきり息をするのを止めた。




 それを見届けて、達也はようやく雪斗の首から手を放した。大きく見開かれた目からは、相変わらず涙がこぼれ続けている。しゃくりあげる声はいつしかうなり声になり、うなり声は叫び声となって、達也は雪斗に覆い被さるようにして涙を流し続けた。


 数分だったのか、数十分だったのか。達也はぴたりと泣くのを止めると、立ち上がって天を仰いだ。月はのぼりかけ、そろそろ約束の時間だということを示している。


 達也は雪斗の亡骸を引きずって姉様の死体の隣に横たえると、ふらふらとよろめきながら梯子を上って目的地へと向かうのであった。







 どん、と。


 ぶつかるようにして押した塩田の体は、いっそおかしいほど予想通りに足を踏み外し、校庭めがけて落下していきました。


 数秒後、何かが地面にぶつかる音、そして益田彩音の悲鳴が聞こえてきました。全て、計画通りです。――雪斗の死さえなければ。


 雪斗の最期を看取った僕は、高校部校舎の屋上に来ていました。そこで計画通り、呼び出した塩田の背中を押して突き落としたのです。


 僕は屋上の縁から下を覗き込み、遙か下方で錯乱している益田彩音と藤堂涼子を睨みつけました。


 あの二人が最後の生贄です。魔法円で保険はかけたとはいえ、下手を打たないようにしなければ。――でなければ雪斗が死んだ意味がなくなってしまう。


 僕は唇を噛みしめると、下の階に続く階段へと向かいました。


 かつん、かつん、と誰もいない廊下に僕の足音だけが響きます。僕はこの一ヶ月半のことを考えていました。


 姉様に出会い、彼女の従者となり、雪斗という協力者を利用し続けた日々。それはとても充実していて、これまで生きてきた中で一番楽しくて、愉快で、愛おしくて――


 再び溢れてきそうになった涙を袖で乱暴に拭いさります。まだ終わってはいないのです。最後の儀式が成功するかは僕にかかっているのですから。今はまだ、泣いているわけにはいかないのです。


 その時、校庭の方から銃声が一発聞こえてきました。きっと涼子が発砲したのでしょう。


 そして数分後、もう一発銃声が。


 僕はゆっくりと階段を下り終わると、開けておいた昇降口から校庭へと出ました。


 そこには無惨な姿になった藤堂涼子の死体がありました。儀式の宣言通り、顔はすっかり爆ぜてしまっていて、もはや判別することすらできません。


「可哀想な人」


 僕はぽつりと呟いて歩き出し、それっきりその死体を振り返ることはありませんでした。




 最後の生贄は益田彩音。彼女を焼き殺すまで、儀式は終わらないのです。





 篠谷達也編 了

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