第三話 理科室の探検

 姉様はどうして死んだのか。


 そういえばまだ知らなかったそのことについて、僕は姉様に尋ねてみることにしました。それにしても姉様の声が聞こえないだなんて雪斗は本当に可哀想な奴です。姉様のあの美しい声をひとたび聞けば、体の芯が震えて、どうしようもないほどの渇望に身を焼くことになるというのに。


 僕を通してでしか姉様の言葉を聞くことの出来ない雪斗を内心下に見ながら、僕は姉様へと向き直りました。


「姉様、その……姉様はどうして死んでしまったの?」


 考えてみればおかしな質問です。死体に自分の死因を尋ねるだなんて。だけど姉様はそんな僕に微笑みかけて答えるのでした。


「私は殺されたのだよ。……我が親愛なる魔女たちによって」


 その微笑みは心底嬉しそうにも悲しそうにも見えて、僕は心臓をどきりと跳ねさせました。姉様はそんな蠱惑的な笑みを浮かべながら、言葉を続けました。


「繭というやつを知っているかい?」


 ――繭。


 つい最近、授業で聞いたような気がするその単語に僕は頭をフル回転させて、やっとそれを思い出しました。


「繭って蚕の……?」


 僕たちは理科の時間に蚕の幼虫を育てていました。葉っぱをあげて育てた後、高校生との合同授業でできあがった繭から糸を取る予定なのです。


 姉様は小さく頷いたように見えました。


「そうだ。私は今からそれにこもるのだよ」


 姉様の言葉の意味は僕には分かりませんでした。僕は困った顔をして姉様を見ました。姉様は一層笑みを深めて言いました。


「繭の中で蛹になって、羽化する時を待つのだよ」


 蛹。羽化。どういう意味でしょう。


 困惑する僕をよそに、姉様は歌うように言いました。


「君たちにはその繭を作る手助けをしてほしい」


 その言葉はまるで柔らかな毒のように僕を包み、僕は無条件で姉様の頼みを聞きたいという気分になっていったのでした。





「――殺人?」


 何を言われたのかうまく理解できず雪斗はおうむ返しに聞き直す。達也は大きく頷いた。


「姉様は魔女たちに裏切られて殺されたんだ。だから姉様を殺した魔女たちを殺さなきゃいけないんだ」


 その言葉の途方もなさに、雪斗はおののきながらも再び尋ね返した。


「それは……その姉様の復讐をするってことか?」

「違うよ、雪斗くん。これは儀式なんだ」




「糸を吐く蚕の群れ。二つは木より吊られ、一つは地に落ち、一つは首を折り、一つは顔を爆ぜさせ、一つは火に焼かれる。六の生贄が捧げられた時、繭は破られ、魔女は生まれ直すだろう」




 魔法の呪文でも唱えるように、達也は嬉しそうにそう言う。なんとなくではあったが、雪斗にも達也の言いたいことが理解できてきていた。――達也はその奇妙な呪文通りに、殺人をしようと言っているのだ。


「そんな、殺人なんて……お前、本気で言ってるのか?」

「本気だよ、雪斗くん。だって姉様がそう言うんだ」


 ――駄目だ。話が通じない。どうやらこいつは本当に狂っているらしい。


「……バッカバカしい。俺たちは小学生なんだぞ。人殺しなんてできるわけないだろ!」


 それは虚勢を張った言葉だった。目の前の不気味な存在たちに対しての、精一杯の抵抗の言葉だった。雪斗は吐き捨てるようにそう言うと、踵を返してこの場所を立ち去ろうとした。


 しかしそんな雪斗の手を達也は素早く掴んだ。咄嗟に振り払うこともできず雪斗は硬直する。達也はそんな雪斗に顔を寄せた。


 殺される……!


 そんな予感に怯えて、雪斗は必死で後ずさろうとする。しかしそれほど広くない穴の中では逃げることのできる場所もなく、雪斗はすぐに壁際に追いつめられた。達也は雪斗の顔を見上げて笑った。


「知ってるよ、雪斗くん。君は――死体が好きなんでしょう」


 雪斗はひゅっと息をのんだ。


 ――何故そのことを。誰にも言っていないはずなのに。いや、違う。別に好きなわけじゃない。ただ興味があるだけだ。そう、これはただの好奇心で――


「だって雪斗くん、姉様のことじろじろ見てるんだもん。すぐに分かるよ」


 明るい声でそう言われてしまえば言い返すこともできず、雪斗はただ、達也の得体の知れない視線にさらされることしかできなかった。達也はそんな雪斗の手を引き寄せると、彼女の死体の前へと雪斗を押し出した。


「雪斗くんは姉様の死体に興味がある。違う?」


 体の奥底から震えが走った。目の前の死体はぼんやりと目を開いてどこか虚空を見つめている。セーラー服は相変わらず不格好で、その下に隠されたあの痣たちをどうしても思い出させてしまう。雪斗は生唾を飲み下した。


 そんな、こんな感情は嘘だ。だけど駄目だ。体の芯が熱く震えている。やっぱり隠せない。この気持ちをなかったことにはできない。


 俺はこの死体を見ていたい。あの痣が、あのおぞましい欠点が広がって、いつか全身を飲み込むのを見てみたい。腹に穴が空き、目に蠅が集り、この美しい死体が崩れていくのを、医者として見てみたい。


 そう、医者として。これは医者としての興味なんだ。だったら何も問題はないんじゃないか。


「否定しないんだ」


 達也は雪斗の背後でそう言って含み笑う。


「僕に協力すれば、君は姉様の死体のすぐそばにいられるよ。姉様の死体を観察できるよ」


 雪斗は浅く息をした。ぐるぐると回る思考で笑い出してしまいそうになりながら、必死で恐ろしいものから逃れようとしていた。


「姉様の死体を保存するためには君の協力が必要なんだ」


 達也は雪斗の顔をそっと見上げると、目を細めてニイと笑った。


「……協力してくれるよね?」





 同日深夜。雪斗と達也は初等部の用務員室の前へとやってきていた。二人の目的のためには――二人が姉様の死体を保存するための薬品を手に入れるためには、この用務員室にある鍵が必要だったのだ。


「大丈夫なのか? 誰かに見つかるんじゃ……」

「大丈夫。僕には魔法円があるからね」


 不安そうに尋ねる雪斗に、達也はポケットから取り出した二枚の紙を掲げてみせた。紙には正円の中に三角形や円が複数入れ込まれ、その縁に複雑な文字が記されている模様が描かれていた。


「太陽の第六の魔法円。持つ者を透明にすることのできる魔法円だよ」


 得意げにそうやって説明すると、達也は魔法円のうちの一枚を雪斗の手の中へと握り込ませた。


「今までは僕一人の力だったから効果はなかったけれど、姉様が力を貸してくれたから、魔法円の効力は強くなってるはず」


 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、雪斗は達也から渡された魔法円を見下ろす。するとまるで魔法円がこちらを睨みつけているかのような気がして、雪斗は慌ててそれをポケットの中へと押し込んだ。


「でも透明になってるだけだから静かにね」


 口の前で指を立ててしーっと言う達也に、雪斗はなんだかおかしくなってしまって小さく笑った。


 二人は音を立てないようにそっと用務員室のドアを引き開ける。用務員室には明かりはなく、この部屋の主は眠っているようだった。達也は鍵の棚を開けると、まるで最初から知っていたかのように目的の鍵を手に取り、雪斗へと見せた。二人は無言で頷きあうと、再び音を立てないように用務員室から出ていった。


 用務員室のすぐそば、比較的低い位置にある窓を開いて、二人は寮の外に出ようとした。先に雪斗が窓枠へとよじのぼり、達也もその後に続こうとする。しかし、身長の低い達也はうまく窓枠にのぼることができず、窓枠を持って何度もジャンプした。


「……ほら」


 見かねた雪斗が手を差し伸べると、達也は目を見開いて驚いたようだった。その表情はこれまで不気味そのものだった達也が見せた初めての無防備な表情で、雪斗は手を差し出したまま面食らった。


「……うん、ありがとう」


 達也は雪斗の手を取って、二人は窓枠を乗り越えた。寮の裏手へと出た二人は、初等部の校舎に向かって歩き出した。


「なんだか探検みたいで楽しいね」

「……脳天気だなお前は」


 どことなく嬉しそうに戯言を言い出す達也に、雪斗は眉をひそめる。どうして急にこんなに浮かれ出したのか。少し思い返してみて、雪斗はあることに思い至る。


 ――まさか手を貸してもらえたことが嬉しかった?


 いや、まさかな。思い浮かんだ想像を打ち払い、雪斗は前を向いた。今はさっさとこの「冒険」とやらを終わらせてしまわなければ。


 二人は校舎の西の端、あらかじめ内側から鍵を開けておいた理科室のドアを通り、校舎の中へと侵入した。目的地は理科準備室にある鍵のかかった戸棚だ。


「早くしろよ」

「待ってて」


 雪斗が辺りを警戒している間に達也は鍵穴に鍵を差し込んでひねり、理科準備室へのドアを開けた。二人は急いで準備室へと入ると、窓から差し込む月明かりだけを頼りに戸棚へと近づいた。


「俺が取るから鞄につめていけ」

「うん、分かった」


 雪斗の言葉に達也は素直に頷く。雪斗は椅子を引きずってきて踏み台にし、戸棚の鍵を開けた。


 戸棚の中にはラベルの貼られた薬品がずらりと並んでいた。雪斗はその中のいくつかを無作為に掴み取ると、下で待機している達也へと手渡した。達也はそれを順々に鞄に詰めていく。ついでにビーカーとガラス棒も拝借して、雪斗は椅子から下りた。


「ほら、ぼさぼさするな。行くぞ」

「ま、待ってよ、雪斗くん」


 元の通りに鍵をかけて、二人は理科室をあとにする。そしてそのままの足で、裏山の秘密基地――彼女の死体が待つあの場所へと向かったのであった。





 秘密基地の底で、雪斗は薬品をいくつかビーカーの中に取って、ガラス棒でかきまぜた。無色透明の液体は、混ぜてみてもやっぱり無色で、ほんのりと刺激臭がする以外には水と変わらないように見えた。


 達也が固唾をのんで見守る中、雪斗はその液体を死体に振りかけた。達也は不安そうに雪斗を見た。


「本当にこうすれば姉様は腐らないの?」

「……ああ」


 雪斗が俯きながら肯定すると、達也はほっと胸をなで下ろしたようで、彼女の傍らへとひざまずいて彼女の手を取った。


 実際は雪斗のしたことはでたらめだった。振りかけただけで人間を腐らせない薬品なんてあるわけがないし、それに――雪斗が見たいのは彼女が腐るところなのだから当然だ。死体を腐らせないようにしてしまっては元も子もないのだから。


「……お前こそ本当にやるつもりか? その、人殺しなんて」

「うん、殺すよ。姉様のためだもん」


 雪斗に答えたその声は今までの無防備な声色ではなく、死体を前にした時の冷え冷えとしたものへと変わっていた。雪斗は不用意に問いかけてしまったことを後悔しながら、僅かに後ずさった。


「臥子学園高校部用務員、水橋健一郎。三年一組、塩田隆弘。三年一組、蜂谷ゆき。二年二組、益田彩音」


 指を折りながら達也は順々に名前を挙げていく。


「そして――二年二組、藤堂涼子。これが姉様を殺した共犯者たち」


 据わった目で達也は死体を見つめていた。それは怒りに燃えているようにも思案を巡らせているようにも見えた。そんな達也に雪斗は思わず尋ねていた。


「相手は高校生と大人なんだろ? どうやって殺すって言うんだ?」


 達也は立ち上がると笑顔で雪斗に振り返った。


「殺したい相手がいる。だけど自分の力では殺せない。……雪斗くんだったらどうする?」


 問い返されて雪斗は考え込む。自分の力じゃ殺せない。殴り殺すことも首を絞めて殺すこともできない。毒を飲ませるにしたって簡単じゃないだろう。だったら――


「……誰かに殺させる?」

「正解!」


 達也は飛びつくようにして雪斗の両手を掴んだ。雪斗は咄嗟に逃げることができず、されるがままに硬直する。


「藤堂涼子は姉様の信奉者なんだ。だからそれを利用する」


 達也は掴んだ雪斗の手を持ち上げて頬ずりをした。


「手紙を出すんだ。藤堂涼子を操り人形にするためのね」





 それから雪斗と達也は毎日のように授業後に彼女の死体のもとに通っていった。しかし達也はそれ以上には雪斗に殺人の計画を明かすことはしなかった。もしかしたら雪斗が殺人計画について乗り気ではないことに、そしてその計画が本当に成功するのかを信じきれていないことに気づいていたのかもしれない。


 そして、七月十八日、日曜日。毎日のように死体のもとに通って、それが日常の一部となり、手紙のことは忘れかけた頃になって達也は雪斗の部屋を訪れた。


「雪斗くん、雪斗くん」


 夜の九時、寝る準備をしていた雪斗の部屋のドアがノックされ、雪斗はしぶしぶではあったがドアを開けた。そこには予想通り、黒く濁った目をした達也の姿があった。


「行こう」


 それだけを言うと達也は雪斗の手を取って引っ張った。


「姉様が言ってたんだ。そろそろ死体が一つできあがっているはずだって」


 その言葉に雪斗は体をこわばらせた。


 ――死体ができあがる。つまり、本当に達也は人殺しをしたのか?


「い、いやだ。行きたくない」


 急に恐ろしくなった雪斗は足を踏ん張って抵抗しようとした。しかし、達也はその細い腕のどこにそんな力があるのかというほどに強い力で雪斗の腕を引いたのだった。


「来ないと姉様の死体を一緒に隠してるってこと、先生にバラすよ」


 顔を近づけられてそう言われてしまえば雪斗は抵抗することもできず、達也に誘われるままに死体があるという場所に向かうしかなかった。





 ぶらり、ぶらり。


 死体が一つ、枝にぶら下がっている。その足下には遺書らしきものが残され、その目はほんの僅かだけ開かれてぼんやりとどこかを見つめていた。


「本当に、死んでる……」


 震える声で呆然と呟くと、達也は自慢げに胸を張った。


「ほらね。姉様の力は本物なんだ」


 場違いなほど明るいその声に恐怖しながら、しかし雪斗は死体から目をそらせずにいた。


「さあ、魔法円を残しておこう。彼らに不和をもたらさないとね」


 達也の言葉にも反応することができないまま、雪斗は死体を見つめ続けた。死体の太股には弛緩して漏れ出た体液が伝っている。死体本来のおぞましい匂いが辺りに漂っている。


 雪斗はそんな死体をじっと見つめていた。

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