第二話 僕と雪斗くん

 僕は最初、その死体のあまりの美しさに打ちのめされ、ただ立ち尽くしていました。カアカア、カアカアとやかましく鳴くカラスたちの声を遠くに聞きながら、僕は自分の内側から湧き上がってくる何かに打ち震えていました。


 まるで時間が止まったかのような心地がしましたが、彼女の足元の小川だけは流れ続け、僕の足元まで流れてきています。午後四時の険しい顔をした太陽が、僕と彼女を容赦なく照らしています。日の光に照らされた彼女は、真っ白な肌をほんの少しだけ色付かせていました。


 やっとのことで僕は足を動かし、彼女のそばへと歩み寄りました。傍らにひざまずき、彼女の顔を覗き込みます。恐ろしいほどに整ったその顔はぴくりとも動かず、それが死体なのだと改めて僕は認識しました。


 ――ああ、これだ。これこそが僕の探し求めていた最愛の。


 僕は恐る恐る彼女へと手を伸ばしました。美しくも恐ろしい、その存在に触れてみたかったのです。


 しかし僕の手が触れる寸前、その出来事は起きました。


「はじめまして」


 鼓膜を震わせたその声に、僕は彼女に伸ばしていた手を止めました。慌てて顔を上げると、彼女の黒く濁った目と僕の目がぴたりと合ったのです。


「君の王は見つかったかい?」


 何を問われているのか分からず、何が起きたのかも分からず、僕はただ硬直するしかありませんでした。すると死体の彼女は小さく笑ったように見えました。


「聞こえていたよ。あれは『詩編』の一節だろう」


 小さく笑ったのです。彼女は死体であるはずなのに。実際、彼女は瞼一つ震わせてもいないのです。なのに僕には、まるで彼女が動いているかのように見えるのでした。


「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに」


 歌うように美しい声で唱える彼女に、僕は浅く息をしました。


 僕は必死で考えました。一体何が起こっているのか。彼女は何を言っているのか。しかし考えても考えても答えは出ず、しかしそれ以上にある感情が僕には芽生えていました。


 それは畏怖。それは畏敬。それは恐れであり、渇望。それは――彼女に服従したいという途方もない欲求でした。


「君の王は見つかったかい?」


 彼女が重ねて問いかけます。僕は確かに芽生えた感情のまま、震える唇を開きました。


「ぼ、僕にとっての王は――」


 あなたです。


 細かく震える声でそう言うと、彼女は満足そうに笑ったように見えました。


「君が来てくれて助かったよ。カラスは本来私の使い魔ではないから、少し不安だったんだ」


 その言葉に、僕は彼女の信徒であることを許されたことを知りました。その瞬間、彼女は僕の王であり、僕の神になったのです。


「君に頼みがあるんだ。聞いてくれるかな?」


 優しく問いかけてくる彼女に、僕はそっとその手を拾い上げ、手の甲にキスをしました。


 体温のない彼女の手は出来の悪いゴム人形の感触がしました。







 高梨雪斗は優等生である。


 成績は優秀、教師からの心証も良く、特にこれといったもめ事を起こすこともない。


 しかし高梨雪斗は完璧ではない。


 そもそも雪斗がこの学校に通うことになった理由は、都会の私立学校への受験に失敗したからである。医者の息子である雪斗は周囲から大いなる期待を受けて育ってきたが、医者の息子としての優秀さには一歩及ばず、こうして地元の私立小学校で教育を受けているのだ。




 一九九九年、七月五日、月曜日。


 そんなコンプレックスにまみれた日々を送っている雪斗は、授業後も教室に残って、図書館から借りてきた科学雑誌を読みふけっていた。今月号の特集は人体の不思議について。可愛らしくデフォルメされた人体模型が、人間の内臓について解説している。


 高梨雪斗は幼い頃から死体というものをよく見てきた子供である。とは言っても別に日頃から葬儀屋に通っていたというわけでも、身内に不幸が多かったというわけでもない。


 雪斗の家は町医者の一家だ。臥子町には山間のかなり小さな町であり、大病院もない。それ故、雪斗の家では町の人間を看取ることが多く、家の仕事を手伝う雪斗が死体を目にする機会も多いのも当然の流れであった。


「死体、か……」 


 誰もいない教室で、雪斗は一人呟く。その声はからっぽの教室にやけに大きく響いてしまい、雪斗は自然と口を押さえていた。


 死体の話題だなんて好き好んでするものでもない。それが分かるぐらいには雪斗には分別があった。しかし、どうしても死体という単語は雪斗を引きつける何かがあった。


 もしかしたら自分は町医者ではなく、外科医の方が向いているのかもしれない。そんなことを思いながらページをめくったその時、控えめな声が雪斗のすぐ近くからかけられた。


「ゆ、雪斗くん」


 顔を上げると、いつのまに教室に入ってきたのか、一人のクラスメイトが雪斗のすぐそばに立っていた。一応クラスの全員の顔と名前を覚えている雪斗にはそれが誰なのかはすぐに分かった。


 一方的に数度話したことがあるだけのクラスメイト、篠谷達也だ。


 何の用だろうか。自分とそれほど接点はない奴のはずだが。


 疑問と拒絶を込めて胡乱な目を向けると、達也はこれまで見たこともない黒く濁った目でじっと雪斗を見たのだった。


「ついてきてほしいところがあるんだけど……」





 何故ついてきてしまったのだろう。ついてくる必要なんてなかったのに。


 本来立ち入り禁止である学園の裏山をずんずんと登っていってしまう達也の後ろ姿を追いながら、雪斗は考える。


 達也は普段あれほど気弱そうな性格をしているというのに、今日の彼は何故か自信に満ちあふれているように見えた。だけどそれは決して健全なものではなく、どこか薄暗く纏わりつくような雰囲気を醸し出している。


 それに、自分を誘った達也のあの目に、雪斗はどこか見覚えがあるような気がした。


 黒く、濁って、どこを見ているのか分からないぼんやりとしたあの目。あれは――もしかして死体の目?


「ついたよ」


 恐ろしいほど平坦な声で告げられ、雪斗は俯かせていた顔を跳ね上げる。そして目の前にあったものに、雪斗は目を見開いた。


 それは泥で薄汚れた人間だった。その人間の手足は妙な方向に投げ出されていて、顔もどこでもない方向に背けられている。全身は傷だらけで、明らかにもう生きてはいないことが分かった。


 だけど何故か雪斗は、確かに心臓が高鳴るのを感じたのだ。


「姉様をここから運びたいんだ」


 立ち尽くす雪斗の手をそっと取り、うっとりと目を細めながら達也は言う。


「手伝ってくれるよね、雪斗くん」






「せーのっ」


 どこか間抜けなかけ声に合わせて、雪斗と達也は彼女の死体を持ち上げた。死体は二人がかりで持ち上げてもやはり重く、道中、ほとんどひきずるようにして彼女を運ぶことしか二人にはできなかった。


 日の暮れかけた山道を、小学生二人が死体を持って歩いていく。雪斗はぼんやりとした頭のまま、何故か達也の指示通りに死体運搬の片棒を担がされていた。


 いや、本当はその理由は分かっていた。雪斗は今まさに自分が運んでいる彼女を、仰向けのままわきの下に手を入れて持ち上げているために、こちらに逆さまの顔を向けている彼女をじっと見つめた。


 こんなに美しい死体を、雪斗は初めて見たのだ。


 艶やかな髪は地面に向かって垂れ、首もまた重力に従ってだらりと上向き、喉をさらしている。どうやら既に死後硬直は解けているようで、体が固まっているということはなかった。だというのに目はまだ濁っておらず、黒々とした眼差しを死体を運ぶ雪斗へと投げかけていた。


 その視線を受けて、雪斗はぞくぞくと背筋を震わせた。


 決して綺麗な死体というわけではなかった。むしろ大きく侮辱された上で死んだ死体だということは明白だった。


 だが、動かない顔の造作も、制服に色濃く残る暴行のあとも、手に触れる低い体温も、これ以上なく好ましい。


 ただこの死体を見ていたい。もう少しだけ彼女を見続けたい。それだけが今の雪斗を動かしている原動力だった。


「せーのっ」


 かけ声とともに、彼女の死体を浅い穴の中に投げ入れる。穴の底にはオカルト誌などが転がっており、どうやらここが達也の秘密基地のような場所なのだということが窺い知れた。


 てっきり大人がいるところまで死体を運ぶのかなどと思っていた雪斗は、穴の底に下りていく達也を棒立ちになって見送っていた。


 達也は穴に落ちた死体を壁のくぼみにもたせかけると、その傍らに膝をつき、まるで死体と会話をしているかのように話し出した。


「姉様、次は何をしたらいい? ……うん、うん、そうだね」


 もしかしたらこいつは頭がおかしいのかもしれない。こんな奴に協力してしまって本当によかったのか。


 そんな一抹の不安を覚えながら、雪斗は梯子を使わずに穴の中に飛び降りた。すると、目の前の達也は死体の彼女に手を伸ばしたところだった。手を伸ばして――彼女のセーラー服を脱がせようとしているところだった。


「な、何してるんだお前!」


 咄嗟に腕を掴んで、それを押しとどめる。すると達也はきょとんとした顔で雪斗を見上げてくるのだった。


「こんなに汚れた姿じゃ、姉様が恥ずかしいって」


 一切疑問を感じていない顔で、達也はそう言い放った。まるで当然のことを言っているかのようなその態度に、雪斗は硬直する。その隙に達也はたどたどしい手つきで彼女からセーラー服の上を脱がせると、それを雪斗へと差し出してきた。


「雪斗くん、一緒に洗おっか」






 差し出された制服を受け取ってしまった雪斗は、混乱しながらも達也の案内に従って小川へと向かっていた。ここ最近の快晴のせいで、小川にはほとんど水はなく、しかし制服の汚れを洗い落とす程度であれば問題はないぐらいの水量はあった。


 達也と雪斗は無言で川縁にしゃがみ込むと、セーラー服を水に浸して洗い始めた。


 ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせながら、制服の生地を擦り合わせる。こびりついていた泥が落ちて、水の中に流れていく。十数分それを続け、泥のほとんどが落ちたあたりで、雪斗は切り出した。


「なあ」

「何、雪斗くん?」


 達也はまだ水に指先を浸しながら顔を上げる。その表情はどこか楽しそうで、雪斗は少し気圧されながらも尋ねた。


「そろそろ教えてくれ。あの人は誰なんだ? お前の姉なのか?」


 雪斗の問いに達也は目を見開き、とても嬉しそうな、照れくさそうな顔をした後、首を横に振った。


「違うよ。姉様は黒魔女様なんだ」


 答えになっていない。不満を込めて睨みつけてやるが、達也は気にする様子もなく、歌うように言葉を続けた。


「姉様は僕に『姉様』と呼ぶことを許してくださったんだ。だから僕はあの人のことを『姉様』と呼ぶんだよ、雪斗くん」


 そうやって偉そうに自慢げに語る達也に、雪斗は眉をひそめる。


 どうやらこいつは本当に幻覚を見ているようだ。死体が喋るだなんて、あるわけがないのに。


「姉様が喋るなんて嘘だって思ってるでしょ」


 水に浸していた制服を持ち上げ、達也はこちらを見上げてきた。真っ黒に塗りつぶされたその目に見つめられて、雪斗は硬直する。


「姉様は確かに息をしていないよ。口も目も動かないよ。でも姉様はこちらに語りかけてくださるんだ。姉様を信じればそれが聞こえるんだよ」


 瞬き一つしないまま達也はそう言う。雪斗は何か言い返そうとしたが、言い返すべき言葉も浮かばずに口をぱくぱくと開け閉めすることしかできなかった。達也はそんな雪斗を見て、にっこりと笑った。


「姉様の声が聞こえないなんて雪斗くんは可哀想だね」


 口の端がひきつる。恐怖と怒りの両方でだ。雪斗は口の中をからからにしながら、やっとのことで言葉を絞り出した。


「……お前は本当にムカつく奴だな」


 その後も木にひっかけた制服が乾くまでの間、ぽつりぽつりと雪斗と達也は会話をしていた。それは学校のことだったり宿題のことだったり、そんな他愛もないことだった。それ以外の話題を話すことは不思議とはばかられたのだ。特に――秘密基地で待っているあの死体については。





「ただいま、姉様」


 なんとか着られそうなぐらいには乾いたセーラー服を持って、二人は死体の待つ穴へと戻ってきた。達也は明るい声色で死体に声をかけると、下着姿の彼女に服を着せようと奮闘を始めた。


 雪斗は後ろからそれを覗き込み――真っ白な彼女の腹についたいくつもの痣を視界に入れた。


 その瞬間、何か突き上げるような衝動が体を揺さぶったような気がした。


 赤黒く染み着いたいくつもの痣。それはきっと、彼女が生きていた頃に受けた暴力の痕跡。こんなに綺麗な肌についた無様な欠点。雪斗の目には、その痕跡こそがこの死体を美しいものに仕立て上げているように見えた。


「あれ、なんでできないんだろ、おかしいな」


 達也の困惑する声に雪斗はハッと正気付き、達也の方を見た。達也はうまくセーラー服を着せることができずに徐々に機嫌を悪くしているように見えた。


「……手伝うよ」


 ――これ以上、あの傷を見ていてはおかしくなってしまいそうだ。


 そんな本心を押し隠し、雪斗は達也と一緒になって彼女にセーラー服を着させ始めた。


 思いの外に重い腕を持ち上げ袖に通し、前のホックを留めてスカーフを縛る。スカートはどうしても再び土に汚れてしまったが、なんとか腰の辺りまで持ち上げてくることに成功し、腰の横で留め具をはめた。


 そうしてできあがった彼女は、なんとか形にはなっているもののどこか不格好で、まるで幼児が遊んだ後の着せかえ人形のような印象を受けた。


 しかし達也にはそれで十分だったようで、達也は彼女の傍らにひざまずくと、彼女の手を取って頬ずりをした。


 その様子を一歩引いた場所で雪斗はしばらく眺めていた。どうしてここまで協力してしまったのだろう。死体を見つけた時点で、死体をここに運んだ時点で、死体の服を洗い終わった時点で。雪斗にはここを離れる機会は何度もあったはずだった。


 いや、その理由を雪斗は知っていた。雪斗には一つだけどうしても確認しておかなくてはならないことがあったからだ。


「なあ……どうして彼女は死んだんだ? まさかお前が殺したのか?」


 恐ろしくてずっと尋ねることができずにいた問いを達也に投げかけてみる。すると達也は振り返ってきょとんと目を丸くした。


 ――もしかして、こいつ自身も知らなかったのか?


 その予測はどうやら正解のようで、達也は真面目な顔になると、死体の彼女へと向き直った。


「待ってて、姉様に聞いてみるよ」


 それから二言三言、達也は彼女と会話したようだった。雪斗にはその内容は分からなかったが、達也の言葉だけを聞く限りは、会話は成立しているようだった。


 やがて何を言われたのか、達也は恍惚とした表情で頷いた。


「うん、姉様」


 そう言うと達也は雪斗に向き直った。その表情は心底嬉しそうで、雪斗は本能的に口の端をひきつらせた。



「殺人をしよう、雪斗くん」

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