篠谷達也編

第一話 信仰というもの

 一九九九年、七月五日、月曜日。


 臥子小学校五年一組の教室で僕、篠谷達也は本を読んでいました。昼休みなので騒がしいクラスメイトたちはほとんどが校庭へと遊びに出ていて、教室は静まり返っています。


 僕が読んでいるのは俗に言うオカルトの情報誌でした。もう何十回も読み返したそれはページの端がよれてしまって、表紙も歪んできてしまっています。


 僕はもともと信仰というものに興味がありました。


 信仰とは信じ仰ぐと書きます。つまり何かを――多くの場合は神を上に頂き、下からそれを拝するのが信仰ということです。オカルト雑誌を多く読んでいる僕には、同年代の誰よりも信仰には多くの種類があるということが分かっていました。


 それ故に僕は考えたのです。僕にとっての信仰とは何だろうと。


 僕が生まれたのは、この学園のふもとにある一般的な家庭でした。家族構成は父と母と自分。住んでいるのは二階建ての建売住宅。一応、小さな仏壇はありましたが、毎日それを拝むというわけでもありません。つまり、僕には熱烈な信仰体験というものがなかったのです。


 だからなのでしょうか、僕は幼い頃からオカルト的な話題を好んでいました。一九九九年のノストラダムスの大予言を間近に控え、最近ではテレビや雑誌もその話題ばかりでしたから、僕のその傾向はさらに加速していきました。


 降霊術、古代文字、式神、魔術儀式、生贄の作法、ソロモン王のペンタクル。


 オカルト雑誌は多くのことを僕に教えてくれました。そしてそれは本物の聖典や魔術書を手に入れられない僕にとって、信仰の寄る辺になっていきました。


 僕の信仰は何なのだろう。おとぎ話のようなオカルトの世界を垣間見るたびに、僕はまだ見ぬ僕の信仰に思いを馳せていました。まるで未来の恋人に恋い焦がれるかのように。


「お前、またそんなの読んでんの?」


 頭上から嘲るような声が降ってきて、僕は思索の海から引き戻されました。立てて読んでいた雑誌からほんの少しだけ目を上げると、そこには気の強そうなクラスメイトがこちらを見下ろしていました。彼の名前は覚えていません。僕はあまり人とは関わらない性質でしたから、覚える必要もなかったのです。


「それ、学校に持ってきちゃいけないやつだろ、先生にチクってやろうか?」


 言うが早いかクラスメイトは僕の手から雑誌を奪い取りました。僕は慌ててそれに手を伸ばしましたが、クラスメイトは背の低い僕には手の届かないところまでそれを持ち上げてしまっていて、僕は彼の体に縋って背伸びをすることしかできませんでした。


「やめてよ、返してよ!」

「返すかバーカ!」


 げらげらと笑いながら彼は、僕の聖典を頭上高くにひらひらと動かし続けました。僕が届かないのを分かっていて僕を弄んでいるのです。


「返せっ、返せよー!」


 僕はもう情けなくなってきて涙が出そうになってきていました。そんな僕を見て、クラスメイトはまた笑うのです。


「ははは! こんなもん持ってきてるお前が悪いんだろ!」

「おい、そこ」


 ぶっきらぼうな声が僕たちにかけられたのはその時でした。声の主はメガネをかけたクラスメイトでした。彼は自分の席に座ったまま、後ろの黒板を指さしました。


「いじめは良くないぞ」


 そこにあったのは『いじめはダメ!』と書かれた一枚のポスターでした。先生から言い渡されている今月の標語で、もし破ればきつい罰が下されることが決まっています。


 もし言いつけられてしまえば今自分がしているこれがいじめにあたるかもしれない。僕のオカルト雑誌を奪ったクラスメイトはそう気づいたのでしょう。僕の手に乱暴に雑誌を押しつけると、どこかへと行ってしまいました。


「あ、ありがとう……」

「フン」


 助けて貰ったお礼を言うと、メガネのクラスメイトは鼻を鳴らして自分の本へと視線を戻してしまいました。


 あまり話したことがないクラスメイトでしたが、同じようにいつも休み時間は教室にいましたから、名前ぐらいは知っています。


 彼の名前は高梨雪斗。ものすごく勉強の出来る秀才です。テストでは常に高得点、先生にはよく褒められ、クラスでの友達は少ない。そういう人物でした。


 彼をちらちらと見ながら、僕は席に座り直し、もう一度オカルト誌を開こうとしました。しかしその直後、休み時間の終わりを告げる予鈴が鳴り、僕は慌ててオカルト誌を鞄に詰め込みました。





 五限目。図工の時間。授業内容は彫刻刀で小さな彫刻を作るというものでした。教壇に立った担任は僕たちに向かって声を張り上げます。


「できあがった人は先生のところに持ってくること! それが終わった人から寮に帰っていいからねー」


 はあい、と気のない返事がクラスメイトたちから聞こえてきます。僕は自分の彫刻を見てうつむきました。


 もう何度も繰り返されてきたこの授業で、周囲のクラスメイトたちの多くは彫刻を作り終えていました。しかし僕の目の前にある彫刻はほとんど手つかずでした。好きなものを彫れと言われても僕には何を彫っていいかすら分からなかったのです。


 僕は自分の彫刻を手にとって眺めてみました。元となっているのは十センチ四方の分厚い木板で、その四隅が何かの言い訳のようにほんの少しだけ削れている。そんな彫刻でした。


 学校というのは一種の檻のようなものです。無抵抗な生徒たちを閉じこめて、同じようなことをさせ続ける場所なのです。


 この授業だって好きなものを彫るように、とは言われましたが、本当に好きなものを彫っていいわけではないのです。実際、人気キャラクターを彫ろうとして叱られたクラスメイトもいました。


 僕は彫刻をぎゅっと握りしめます。いつまでも彫り始めようとしない僕に業を煮やした先生は、とうとう先週の授業で蝶を彫るように僕に言って、勝手に僕の彫刻に蝶の下絵を書きました。その下絵の下にあった何か大切なものが、上書きされてしまったような心地がして、僕は暗澹たる気持ちでいっぱいになりました。


 薄い茶色の、木目のある、ざらざらの。


 もしかしたら僕はここに僕の信仰を彫りたかったのかもしれません。どこにでもあるこの木の欠片を、神聖なアミュレットにしたかったのかもしれません。だけど考えても考えても、僕にはここに彫りたいものは思い浮かばず、信仰もまた見えてはこなかったのでした。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、クラスメイトたちは次々と自分の作品を先生のところへと持っていきはじめました。一人減り、二人減り、とうとう教室に残っているのは僕と先生だけになってしまいました。


「駄目じゃない、達也くん。ちゃんと最後までやらなきゃ」


 先生は僕に歩み寄り、僕の手元を覗き込んできました。そこには僕が彫り損ねた信仰の成れの果てがありました。


「どうして先生の言うとおりにできないの?」


 優しい声色で問われても、僕自身にも理由は分からないのです。僕は震えながら先生から目を逸らしました。


 先生は膝を折ってそんな僕に語りかけてきました。どうして、どうして、どうして。繰り返される問いかけに、僕はただ震えるしかありませんでした。


 そんな時、徐々にヒートアップしていく先生に声をかけてきた人物がいました。高梨雪斗です。


「すいません先生、ちょっと質問があるんですが」

「え? うん、ちょっと待っててね、今こっちの話を――」


 チャンスだと思いました。僕は素早く荷物をまとめると、大慌てで教室から走り出ました。


「あっ、待ちなさい! 達也くん!」


 背後から先生が追い縋る声が聞こえてきましたが、気にしている暇はありません。僕はひたすらに足を動かして、僕を苛む場所から逃げ出したのです。





「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの縄を、解き捨てよう。』」


 オカルト誌に記されていた聖書の断片を口ずさみながら、僕は学校の裏山を歩いていきました。この裏山は多くの縦穴が空いていて危ないので、立ち入りは禁止されています。だから、僕の秘密の場所を作るのには最適なのでした。


「天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らを恐れおののかせる。『しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。』」


 初等部の校舎から少し登った場所に、僕の秘密基地はありました。そこは一メートルほどの浅い縦穴で、僕はたてかけられた梯子でそこに出入りしているのでした。


 僕は梯子を下り終わると、穴の横のくぼみへと体を寄せて、ぽつりぽつりと呟いていた暗唱を止めました。くぼみにはこれまでに持ち込んだオカルト誌や拾ってきた雑貨が転がっています。僕はその中に作りかけの彫刻を置いて、ため息を吐きました。


 こんなものはただの子供だましの遊びにすぎないということは分かっていたのです。そう思っていたのです。僕が運命の人を見つける――その時までは。




 きっかけはぼんやりと空を見上げていたことでした。


 カアカア、カアカア、と。


 いつもは蝉の鳴き声しか聞こえない空に、カラスが騒がしく飛び交っていたのです。僕はくぼみから体を起こすと、梯子を登って外の様子を窺ってみました。


 すると、一羽のカラスが僕の目の前にやってきて、カアと鳴いたのです。何故か僕は、そのカラスに招かれているような気がして、カラスへと近づいていきました。カラスは飛んで、少し僕から距離を取ると、再び僕に向かってカアと鳴きました。


 ついてこいと言われているのだと確信した僕は、カラスのあとを追いかけはじめました。


 カラスは僕がついていけるギリギリの速さで僕を導いていきました。行き先はどうやら山の上の方のようです。人の通れそうな場所を選んで導いてくれるカラスに感謝しながら、僕は上へ、上へと登っていきました。


 僕を導くカラスは一羽増え、二羽増え、その場所に辿り着く頃には数十羽にまで増えていました。カアカアとやかましくがなり立てるカラスをほとんどかき分けるようにして歩み寄り、僕は何に導かれていたのかを知りました。


 沢の中に浸った黒い髪、黒いセーラー服。目はぼんやりと開き、血の気のない唇はほんの少しだけ開いている。辺りに仄かに甘い香りを漂わせる――美しい人が、そこでは死んでいました。




 その時、僕はやっと、僕の信仰を見つけたのです。

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