第六話 八月十二日
八月十一日、水曜日。
結局、黒魔女会の金を手に入れられなかった塩田は苛立っていた。あの日、水橋を殺した後に指定された場所に行ってみたが、金はどこにもなかったのだ。
――つまり俺は誰かにはめられたってことか?
塩田は、食堂の椅子に一人で座りながら考え込む。食堂には塩田の他には誰もおらず、しんと静まりかえっていた。
水橋はあの手紙を自分が出したとは一言も言わなかった。むしろ地図を受け取って嬉しそうにしていた。――ということは、水橋は俺と同じ手紙を貰っていたんじゃないか?
そこまで思い至り、塩田は握り込んだ拳で机を叩いた。予想以上に大きな音が響き、廊下を歩いていた生徒が振り返る。
――馬鹿にしやがって。きっとあの手紙の差出人は俺たちで遊ぶためにあんなものを送ってきたんだ。
塩田は椅子を蹴って立ち上がると、足音荒く自分の部屋へと歩いていった。
階段を上ったところにある自室にはすぐに辿りついた。塩田は勢いよくそのドアを開けて、足元に一通の手紙が落ちていることに気がついた。
そこに書かれていた文面に、塩田は手紙をぐしゃぐしゃに握りしめた。
『本当の金の在処を知りたいのなら、明日の午後十一時に本校舎の屋上まで来い』
――馬鹿にしやがって。金の在処が分かるにしろ分からないにしろ、とにかく一発ぶん殴ってやらなきゃ気が済まねえ。
塩田は人知れず拳をぐっと握り込んだ。
翌八月十二日、木曜日。深夜十一時。塩田は屋上に続くドアを押し開けていた。
ドアには何故か鍵がかかっておらず、簡単に屋上に侵入することができた。強い風に目を細めながら、塩田は辺りを見回す。自分の他には誰もいないようだ。
ふと振り返ると自分が今通ってきたドアに「鞄の中」と書かれた紙が貼り付けられていることに気がついた。
「鞄の中ぁ?」
不審に思いながらも辺りを見渡すと、屋上の縁のすれすれの場所に一つの学生鞄が置いてあるのが目に入った。恐らくあれのことだろう。
「ったく、なんでこんな場所に……」
ぶつぶつと呟きながら、塩田は鞄へと歩み寄ってしゃがみこみ――
とんっ。
軽い感触が塩田の背中を押した。それは本当に些細な力で、もし塩田が普通の場所に座っていたならば少しよろめいただけで終わっただろう。
しかし塩田は今、屋上の縁にいた。
一歩だけ、たった一歩だけよろめいて、塩田は足を前方に動かしてしまう。しかしその動かした足を受け止めるべき地面はそこにはなかった。塩田の体はバランスを崩し、前のめりになって、頭が下になり――
*
八月十二日、木曜日。深夜十時五十分。本校舎前に私と彩音はやってきていました。
何が起こるのか分かっていない彩音は、怯えた様子で辺りを忙しなく見回しています。かく言う私も今回ばかりは何が起こるのか正確には知りませんでしたが、なんとなくであれば理解していました。
すなわち、今日ここで誰かが死ぬのです。――『黒魔女の繭』の生け贄として。
「何かしらこれ、黒い土……?」
彩音は何かを見つけたようでしゃがみ込んでいます。私はそんな彩音を後ろから見て、その足元にあるものの存在に気がつきました。
「あ、彩音ちゃん、もしかしてこれ……」
「ひっ」
それは黒く湿った土で書かれた巨大な魔法陣でした。彩音は咄嗟に立ち上がり、飛び上がるようにして後ずさりました。
ちょうどその時です。頭上から塩田が落ちてきたのは。
「き、きゃあああ!」
悲鳴を上げる彩音をよそに、私は塩田へと駆け寄り、その生死を確かめました。塩田の頭は、もう半分砕けてしまっており、息を確かめるまでもなく死んでいることははっきりと分かりました。
「駄目、死んでるみたい……」
そうやって彩音に伝えると、彩音は今にも吐きそうな顔で口に手を当てました。
「きっと屋上から落ちたんだ」
「だ、誰かがあそこから塩田を突き落としたっていうの……?」
「でも口論する声も聞こえなかったし、その……自殺したとしか……」
私の言葉を聞いた途端、彩音は真っ青になってがたがたと震え出しました。
「……千鶴よ。やっぱりアイツが蘇ったのよ!」
私はその言葉を聞いて満足しました。
その通り。お前が気づいていなかっただけで、そんなことははじめから分かっていたのです。これは――黒魔女様の儀式なのだと。
「黒魔女様……」
あれだけ頑なに黒魔女様の素晴らしさに気づいてこなかった彩音が、こうして黒魔女様の実在を信じたことに私は歓喜していました。そして私は次の段階に進まなくてはならないと気づきました。つまり――私にとっての最後の試練です。
「逃げよう、彩音ちゃん」
「え……」
「事件のことを隠すのはもう無理だよ。それより、このままじゃ私たちまで呪い殺されちゃうよ」
彩音はまるで神でも見るかのような眼差しで私を見てきました。いいえ、それは正しいのです。何故なら私は黒魔女で、黒魔女とは神なのですから。
「とにかく荷物をまとめて逃げよう?」
私の提案に、彩音は泣きそうな顔で何度も頷きました。
「準備ができたら寮の入り口で待ってて。私もすぐに行くから」
そうやって言い残して、私は自分の部屋へと駆け込みました。するとそこには、一通の手紙とコップに満たされた液体、そして机に凭れかけられた猟銃があったのです。
『魔女の霊薬を授けましょう。これを飲んで、最後の生け贄をあなたの手で殺すのです』
私はそれを読み、コップに入った魔女の霊薬を持ち上げました。魔女の霊薬は緑色に濁っており、見るからにそれがおぞましいものであることを主張しています。
――これが魔女の霊薬。一人前の魔女の証。
そう思うとおどろおどろしいその色も、どこか神聖なもののように思えました。私は満面の笑みを浮かべると、魔女の霊薬を一度持ち上げて明かりに透かした後、一気に飲み干しました。
味はあまり感じませんでした。ただ、飲み終えた直後から妙に体が火照り、私の体が魔女へと変わっていくということが自分でも分かりました。
『一つは顔を爆ぜさせ』
あの手紙にはそう書いてありました。つまり、この猟銃で彩音の頭を打ち抜けという意味でしょう。
私は顔に笑みを貼り付けながら、猟銃を掴み取り、寮の玄関で待つ彩音のもとへと急ぎました。
「お待たせ、彩音ちゃん」
「涼子……?」
至近距離から囁いてやると、彩音は慌てて私の方を振り向いてきました。彩音の顔には恐怖と混乱が張り付いています。その様が可笑しくて可笑しくて私はもう我慢ならなくて笑ってしまっていました。
「涼子、そんなものどこから……」
「彩音ちゃん、これは罰なの」
手にした猟銃を持ち上げ、彩音へと向けます。狙いはもちろん頭です。
「必要な生贄は六人」
一歩踏み出します。すると彩音も一歩後ずさりました。
「あと二人死ねば、それでおしまいなんだよ」
私の手で最後の生け贄を捧げる。そうすれば黒魔女様は蘇る。私は恍惚となりながら、引き金へと指をかけました。
心臓がばくばくと跳ね回ります。それでいて背筋には寒いものが走っています。私は引き金にかけた指を握り込み――その寸前に恐怖で顔を歪めた彩音は、無様にも転びそうになりながら運動場へと駆け込んでいきました。
「駄目だよ、逃げないで彩音ちゃん。ちゃんと頭に当てないといけないんだから、動かないで待っててよ」
そう、頭を打ち抜かなければならない。それが、黒魔女様が私に課した試練なのだから。
私は必死で逃げる彩音に狙いを定めると、引き金を引きました。
だんっと重い音がして、同時に腕が跳ね上がって、銃弾は明後日の方向へと飛んでいきます。
しまった。こんなに反動が強いものだったのか。
一発目を外してしまったことには焦りましたが、彩音は銃声に腰を抜かしたのか、倒れ込んだまま起きあがることができずにいるようでした。
私はこれ幸いと次の銃弾を詰め、彩音へと歩み寄りました。
「ひぃっ」
彩音は情けない悲鳴を上げて私を見上げてきます。その様が無様で無様で、私はいっそ彩音が哀れにすら見えてきていました。
野蛮で粗野で不躾で無様な生き物。救いようもなく愚かな生き物たち。
だけど、私の中の黒魔女はそんな彼らを許すと言っていました。黒魔女はそんな彼らを愛すと言っていました。
私はとても安らかな気分になって、彩音へと微笑みかけました。この銃弾は憎しみによって放たれるものではありません。愛によって彼らは儀式の生け贄となったのです。
「さようなら、彩音ちゃん」
歌うようにそう言うと、私は再び引き金へと指をかけました。そうしてそのまま引き金を引き絞り――
――銃弾が放たれる直前に、その指は引き金から離れました。
「なんで」
私の口からごぼりと液体が吐き出され、私は訳も分からず膝をついて何度も咳込みました。よく見てみれば、どうやらそれは血のようなのです。そうしているうちに、体は細かく痙攣を始め、私は起きあがることもできなくなりました。
「黒魔女様……」
か細い声で彼女の名を呼びます。しかしそれに答える者はありません。私は何が起きたのか分からないまま、必死に考え始めました。
どうして、私は黒魔女様の指示に従ったはずなのに、儀式は間違っていなかったはずなのに、彼らは黒魔女様の儀式の生け贄になったはずで、私は何も間違っていないはずなのに。
その時、座り込んでいた彩音はふらふらと立ち上がると、地に落ちた猟銃を拾い上げました。そしてそのままぶつぶつと何事かを呟きながら、私の頭へとその銃口を向けてくるのです。
待って、何をするの、どうして私が、そんなことされたら死んじゃう、やめて、やめてやめて!
彩音は変わらず私に銃口を向けてきます。私は必死に考え始めました。
どうしよう、どうすれば、どうすれば、どうすれば――そうだ、そうだ、私は黒魔女なんだ、黒魔女ならこんなときどうするんだっけ、黒魔女なら、黒魔女なら。
私の脳裏に、黒魔女様の姿が浮かびました。彼女はいつもと変わらず、穏やかな笑みを浮かべていました。
そうだ。黒魔女なら。黒魔女様なら。
――最後に私は彩音を見て、ニイ、と笑いました。
藤堂涼子編 了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます