第五話 無意味ということ
六月。
黒魔女様から渡された繭を、自作した厚紙の箱の中に入れて、私は羽化の時を待ちました。
そもそも繭というものは蚕の幼虫が吐きだした一本の長い長い糸でできています。人間はその繭から糸を取り、織物の材料としてきました。そして、その用途ゆえに羽化をした繭は取るべき糸が千切れてしまっている失敗作になるのです。
そんな繭を黒魔女様は羽化させろと仰いました。
白く、ざらざらとした、楕円形の繭。その中にくるまれてしまって、何が起ころうと為す術もない蚕。
それを見守り続けているうちに、私には黒魔女様の言わんとしていることがなんとなく分かってきていました。
蚕が無事に羽化した日の深夜、私は黒魔女様と二人で黒魔女会の金を燃やしながら、黒魔女様に自分の考えを述べました。
すると黒魔女様は満足そうに笑ったのです。
「その通りだ、涼子くん」
黒魔女様は炎に紙幣を振りかけていた手を止めて、私に向き直りました。
「蚕を殺さなければ糸は取れない。糸を作るためだけに生きている蚕を羽化させてしまっては繭の意味がなくなる。……すなわちこれが、無意味ということだ」
そう、黒魔女様は私に無意味とはどういうものなのかを教えようとしてくださったのです。黒魔女様は蚕蛾を両手に乗せている私に歩み寄りました。
「涼子くん、もう一つ問題だ」
私は唇を引き絞り、ごくりと唾を飲み込みました。
「糸のために殺された蚕の死は、蚕にとって意味があるものかな?」
歌うように尋ねられた言葉に、私は咄嗟に返すことができませんでした。黒魔女様はさらに私に歩み寄ると私の耳元で囁きました。
「糸のために死んだ蚕は絹の美しさを知っているかい? 織物の優美さを語るかい?」
私はあまりにも近い距離に硬直してしまって、俯くことしかできませんでした。黒魔女様は微笑んで私の顎を指で持ち上げ、私の目を覗き込みました。
「答えは否だ。死人は何も語らない。死とは無意味なものなのだよ」
私を覗き込んでくるその目は真っ黒で、何も映していないようにすら見えました。私はすっかりその瞳に魅入られてしまって、体の奥底から湧き上がってくる熱に身を震わせました。
「涼子くん」
黒魔女様が私の名前を呼びます。たったそれだけの行為が例えようもないほど嬉しくて、私はひきつった声でなんとか返事をしました。黒魔女様は両手で私の手を包み込みました。
「その蚕を火にくべなさい」
私は自分の手の中を見下ろしました。黒魔女様が離れていったそこには、まだ小さくうごめき生きている蚕の姿があります。黒魔女様は生きたままこの哀れな生き物を焼けと言っているのです。
「さあ、涼子くん」
もう一度名前を呼ばれ、私は頷きました。躊躇いなど微塵もありませんでした。私はまるで聖なるものに対してするかのように炎の上に蚕を掲げると、一息にその手の平をひっくり返しました。
自力で飛ぶことすらできない蚕は、なす術もなく重力に従って落下し、炎の中へと消えていきました。
「ああ……」
私は感動のため息をつきました。
本来取れるはずだった絹糸を台無しにしてまで生かした命。それが炎にまかれてあっさりと燃え尽きていく様を見て、私は興奮を覚えていたのです。
これが無意味であるということ。これが黒魔女様の見ているもの。
黒魔女様はそんな私の背中を抱いて、腕の中の私に向かって囁きました。
「背徳を信じなさい。無意味を愛しなさい。それが、それこそが、魔女というものなのだから」
*
八月六日、金曜日。黒魔女たる私は、堂々と廊下の真ん中を歩いていました。
今、この寮に残っているのは、勤勉な学生か黒魔女会の魔女たちだけです。魔女たちは私が黒魔女様の代行者だということを薄々感じ取っているらしく、私が通る度に軽く会釈をしてきました。
ああ、あの私を見下していた連中が、私を軽んじていた連中が、私に頭を垂れている。それが例えようもなく嬉しくて、私はますます背筋を伸ばして廊下を歩いていきました。
あの日、あの場所から黒魔女様の死体は消えていた。つまり黒魔女様は蘇っている。でもそれならどうして黒魔女様は私たちの前に姿を現さないのでしょう。私は一週間近くそれを考え続け、一つの結論に辿りつきました。
きっと黒魔女様はまだ完全には蘇っていないのです。私たちの前に姿を現すためには、私に課された『魔女の試練』をクリアする必要があるのでしょう。――そうすれば黒魔女様は完全に復活する。私にはそんな確信がありました。
そういえば彩音は黒魔女様の復活を知って、いよいよおかしくなってしまったようでした。叫び声を上げて頭をかきむしり、あの場所から転がり落ちるように逃げ去っていったのです。翌日以降になっても彩音は時折挙動不審になっているようでした。黒魔女様の影に怯えているのでしょう。いい気味です。
その時、ちょうど彩音が数メートル先を歩いているのに私は気づきました。どうやら爪を噛んで、何事かをぶつぶつと呟いているようです。私は、私の中の黒魔女様は、そんな彩音を後ろからじっと見つめながら彩音の後をついていきました。すると彩音はこちらの視線に気づいたのか一度立ち止まり、それから歩調を早めて歩き出しました。私はそんな彼女を追いつめようとそれよりも早く歩み寄り、彼女の部屋の手前で彼女の肩に手を置きました。
「ひっ……」
情けない声を上げて彩音は飛び上がり、こちらを振り返りました。怯えがたっぷりと含まれたその表情に笑い出してしまいそうになりながら、私は平然とした顔を作りました。
彩音は分かりやすく安堵した顔をすると、自室のドアへと向き直りました。そして、何かを見つけると、再び体をこわばらせたのです。
覗き込んでみるとそこにあったのは、ゆきや水橋の足元にあったものとはまた違った模様の魔法陣のカードでした。
「何これ……」
思わずそう口に出すと、ヒステリックに彩音は叫びました。
「知らないわよ! そんなの私が聞きたいわよ!」
これはきっと黒魔女様の仕業です。ですがその意図が分からず、私は困惑するしかありませんでした。
八月十日、火曜日。謎の魔法陣が届いてから四日後。彩音は私の部屋へとやってきました。
「り、涼子」
震えながら彩音は言います。その様子はいっそ哀れなほどに怯えきり、かつての威張りっぷりなどどこにもありませんでした。
「ちょっと見てほしいものがあるんだけど……」
『糸を吐く蚕の群れ。二つは木より吊られ、一つは地に落ち、一つは首を折り、一つは顔を爆ぜさせ、一つは火に焼かれる。六の生贄が捧げられた時、繭は破られ、魔女は生まれ直すだろう』
今日届いたというそんな手紙を彩音は私に見せてきました。私はそれを見て、黒魔女様のご意向が予想通りのものであったと直感してきていました。
すなわち、この一連の殺人は黒魔女様を復活させる儀式である、と。
八月十一日、水曜日。私たちは彩音の提案で初等部の校舎へと向かっていました。無言で歩いていく私たちに容赦なく日光は降り注いできます。
私はふと思いつき、彩音に話しかけてみることにしました。
「彩音ちゃん」
「何」
「……あの手紙なんだけどさ」
そうやって切り出すと彩音は顔を一層こわばらせました。
やはりこれが黒魔女様の仕業であるということを彩音に確信させる必要があります。でなければ、十分な罰にはならないのですから。
「やっぱり黒魔女様のことなのかな……」
彩音は何も答えませんでした。答えられなかったのでしょう。彩音自身これが黒魔女様の仕業だと確信し始めているのです。
その後、初等部での目的を果たせなかった私たちは、高等部へと戻り、彩音の部屋へと向かいました。彩音は自室が見えてくると、明らかに緊張した顔になりました。またあの魔法陣があるのではないかと怯えているのでしょう。
しかし、今日は魔法陣はドアに差し込まれていませんでした。
「今日はないみたいだね」
「そう毎日のようにあってたまるもんですか」
彩音は強気な言葉を発してはいましたが、その言葉は確かに震えていました。私は気づかれないようにうっすらと笑いながら、彩音がドアを開けるのを待ちました。
しかし、ドアを開け放った彩音は部屋の中の光景に硬直したのでした。
「なんなのよ……なんなのよもう……!」
そこにあったのは大量の紙。そして、そこに記されたあの魔法陣でした。私はその光景に圧倒されながらも部屋に入り、魔法陣の中央あたりに置き去りにされた手紙を拾い上げました。
『八月十二日、夜十一時、本校舎前』
「……来いってこと?」
それを彩音に見せると、彩音は震える声で問い返してきました。私はきっとそれは正解だと思いました。明日、この時間、この場所で、きっと何かが起こるのです。きっと黒魔女様にとっては愉快な何かが。
「行ってみようよ、彩音ちゃん」
混乱している様子の彩音に私は提案しました。彩音は怯えた顔で私を見てきました。
「このままじゃ私たち、脅され続けるだけだよ」
彩音は暫く沈黙した後、こくりと頷きました。
私は彼女の行動の主導権を握れたという事実に歓喜を覚えていました。しかしここでそれを出してしまえば何もかもが台無しです。私は真面目な顔を作ると、頷き返しました。
恐怖に震える彩音を部屋に置き去りにして、私は自室への道を足取り軽く歩いていきました。
次は一体、何が起こるのでしょう。次は一体、誰が死ぬのでしょう。奇妙な事件が起これば起こるほど、きっと黒魔女様の復活は近づくのです。私は鼻歌を歌い出しそうになりながら廊下の真ん中を歩いていき、自室のドアを開けました。
そして、そこにあったものに、私は自分の選択が正しかったということを知りました。
『八月十二日、夜十一時、地に落ちた死体を見届けた後、一度部屋に戻りなさい。そこで最後の託宣を授けましょう』
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