第四話 魔女の試練

 五月二日、深夜。


 魔女洗礼を終え、無事に魔女となった私は黒魔女様に呼び出されていました。黒魔女様は真っ黒なセーラー服を夜風に靡かせて、私を待っています。その様子はあまりにも神々しく、私は思わず黒魔女様の前に膝をついていました。


「頭を上げなさい、涼子くん」


 頭上からかけられた黒魔女様の優しい声に、私はそっと顔を上げました。予想したとおり、黒魔女様は柔らかな笑顔で私を見下ろしていました。


「ついてきなさい。特別に、君だけに見せたいものがある」


 そう言って黒魔女様は私をある場所へと案内してくださいました。そこは魔女集会の行われている小屋よりもう少しだけ登ったところで、何のために用意されたものなのか、鬱蒼と生い茂る木々の中にぽっかりと空いた小さな広場でした。


 広場の中央には一斗缶が用意してありました。近寄ってみると、それの中には焼け焦げて炭化した紙のようなものがあって、どうやらそれは小さな焼却炉のようなのです。


 黒魔女様は近くに置いてあったポリタンクの中身を一斗缶の中に入れると、マッチを擦って、その中へと放り込みました。ぼうっと音を立てて、炎が燃え上がります。


 淡々と行われるその作業に、私は手出しをすることさえ躊躇われ、ぼんやりとそれを見つめることしかできませんでした。


 立ち尽くす私をよそに、黒魔女様はここまで運んできた学生鞄を開きました。本来、教科書が入っているはずのそこに入っていたのは――はちきれそうなほどの札束でした。


 黒魔女様は札束を両手で包み込むように持ち上げると、一斗缶の真上からそれを降らせました。


「ああっ」


 私は思わず声を上げてしまいました。だってそうでしょう。普通の学生ならば手にできないような大金が、ひらひらと舞い落ちて、炎の中に吸い込まれて、無惨な灰になっていくのですから。


 そんな私に、黒魔女様は声をかけました。


「涼子くん」


 その静かな声に私はハッと正気に戻りました。黒魔女様は私のことを黒々とした目でじっと見つめていました。


「あれを惜しむかい? あの薄っぺらな紙に描かれた価値を惜しむかい?」


 黒魔女様の目はニイと細められ、まるで私の内面を探っているようでした。私は今し方の自分の失態に、赤面して黙り込みました。黒魔女様はそんな私に目を細めてから、燃える炎へと目を移しました。


「あれのために黒魔女会をやっているわけではないからね、こうして定期的に燃やしているのさ」


 炎の中では何十枚もの紙幣が端から黒く染まり、欠けて、崩れ去っていきます。黒魔女様は私の手にも札束を握らせました。 


「さあ君も燃やすんだ。価値を踏みつけ、全てを無意味にしてしまうんだ」


 私は震える手でそれを受け取りました。それほど裕福な家で育ったわけではない私には、手の平の中のこれがどれほどの価値を持つものなのか、痛いほど分かっていました。


 しかし黒魔女様の言うことは絶対なのです。私は札束をぎゅっと握りしめると、意を決してそれを炎の中へと投げ込みました。


 紙幣はひらひらと舞い落ち、炎の中へと吸い込まれたものもあれば、地面に落ちてしまったものもありました。ですが私はそれを惜しいとは思いませんでした。


 こんなものは、無価値なのです。この世で唯一尊いのは、きっと黒魔女様だけなのです。


 黒魔女様はそんな私を見て、よしとされました。


「今日、君は晴れて魔女となった」


 ぱちぱちと音を立てて燃え上がる炎に、黒魔女様の顔が照らされます。私はそんな黒魔女様の横顔に見惚れていました。


「だが、君はまだ魔女として半人前だ」


 黒魔女様はちらりと私に目をやりました。その視線には責める意図はまるで感じられず、むしろ愛おしいものを見つめているようなものにすら見えました。


「魔女というのはね、先輩魔女の持つ『魔女の霊薬』を飲んで初めて一人前になるのだよ」


 魔女の霊薬。そんなものがあるだなんて、私はその時初めて知りました。しかし何故黒魔女様が私にそんな話をされているのか分からず、私は黒魔女様を恐る恐る見上げました。すると黒魔女様は私に歩み寄り、私の頬を撫でてくださったのです。


「君には素質があるからね、完璧な魔女になるための『魔女の試練』をやってもらおうと思ったのだよ」


 ひんやりとした黒魔女様の手の温度を感じ、私はぞくぞくと背筋を震わせました。この方に触れていただけるということは、既に私にとって特別な行為となっていたのです。


 黒魔女様は私から手を離すと、ポケットからあるものを取り出し、私に差し出しました。


「……繭?」

「そう、蚕の繭だよ」


 私の両手の上に乗せられたのは、真っ白な糸で作られた一つの繭でした。黒魔女様はそれを私に握り込ませながら、私の耳元で囁いたのです。


「これを、私だと思って、大切に育てるんだよ」


 私はその声に体の底が熱くなる思いがしながら、震える声で『はい』と返事をしました。





 七月十九日、月曜日。蜂谷ゆきの死の翌日。死体に残された魔法陣に、私は混乱していました。


 昼食後、五限目の気怠い空気の満ちる教室で、私は鉛筆を握りしめて俯いていました。周囲がかりかりと鉛筆で板書をとる音が、教師が教科書を読み上げる音が響いています。


 あれは何なのでしょうか。あれは何だったのでしょうか。誰が、どういう意図で、あんなことをしたのでしょう。


 ゆきを殺したのは塩田です。それは間違いありません。あの時私は、物陰に隠れて全部見ていたのですから。


 でも塩田はあんな細工はしていなかったはずです。ならば誰が一体。


 魔法陣を思い出します。あの邪悪な模様を思い出します。あんなものを知っているのは、あんなものを行使できるのは、


 ――やっぱり黒魔女様が。


 そう思うと震えが止まりませんでした。


 私はきっと恐怖しているのです。罰が下るのではと恐れているのです。


 ――黒魔女様を裏切って、黒魔女様を殺した私に。


 いえ、いいえ、恐怖のはずがありません。これはきっと歓喜です。私は黒魔女様の帰還に歓喜しているのです。


 だって私は何も悪くないのですから。


 ノートに押しつけた鉛筆の先が、ぱきりと音を立てて割れました。




 同日、夕方。私は自分の部屋に向かっていました。いつもであれば彩音が一緒に来るように言ってきますが、今日は何故か藤花が誰かと話しているのを見て、顔色を変えて走っていってしまったのです。


 藤花と話していたあれは多分、黒魔女様の件でこの学校にやってきている刑事でしょう。かなり背の高い男性でしたから、恐らく間違いありません。彩音は藤花から事件が明るみにならないように焦ったのでしょう。


 そんなことを考えながら私は自室のドアを開け――目の前に落ちていたものに小さく悲鳴を上げてしまいました。


 それはあの時と同じ、三通の手紙でした。私は慌ててドアを閉めて鍵をかけました。



『黒魔女の金をやる。証拠に半分だけ地図を渡しておくから、今日の夜九時に小屋裏まで来い』



 三通のうち二通の手紙にはそうやって書いてありました。そして最後の手紙にはこう書いてあったのです。



『必要な生け贄は全部で六つ。塩田と水橋に手紙を送りなさい。その死によって黒魔女の繭はより強固になるでしょう』



 全てを読み終わった私は、震えによって足が動かなくなっていることに気がつきました。この手紙の差出人は、私にもう一度、人殺しの手伝いをしろと言っているのです。


 いいえ、別に手伝いではありません。私はただ、人殺しが起きやすくする環境を作っただけなのですから。


 そうやって自分に言い聞かせながら、私は考え始めました。


 この手紙には塩田と水橋に手紙を送れという指示が書いてある。事件のことを知っているのはあいつら共犯者だけ。ゆきが死んだ今、こんな手紙を私に送れるのは彩音だけなんじゃないか。


 私は立ち尽くしながらそう結論づけました。その時の私はきっと、手紙の送り主が黒魔女様であることを認めたくなかったのです。私は手紙を引き出しの中に隠すと、慌てて彩音の部屋へと向かいました。


 ドアをノックしても彩音は部屋から出てきませんでした。ですがどうにも彼女は中にいる気がして、私はドアノブをひねりました。あっさりとドアは開き、そして予想通り彩音は部屋の中にいました。どうやら彩音は考え事をしていたようなのです。


「それで何の用よ、勝手に入ってきたりして」


 どこか焦った風の彩音に、私は探るような目を向けます。


「あの時、ゆき先輩の手に魔法陣があったじゃない? あの魔法陣ってさ、もしかしてその――黒魔女様の呪いなんじゃないかって……」


 私のその言葉に、彩音はびくりと肩を震わせました。その目は見開かれ、怯えを含んだ視線を私に向けてきます。


 ――これは違うな。


 私はそう確信しました。彩音はあの手紙には無関係のようです。


 ではやはりあれは、黒魔女様の手紙なのでしょうか。


 私は部屋に置いてきた手紙を思い、ぶるりと全身を震わせました。




 その後、彼女から聞き出したところによると、彩音には刑事による見張りがついたらしいのでした。つまりそれはいつも一緒にいる私にも見張りがついたということに他なりません。


 私はあの手紙の決行日を遅らせるしかありませんでした。




 そして八月一日、日曜日。


 水橋の部屋の前で私は水橋と彩音の会話を立ち聞きしていました。


「捜査打ち切り?」

「ああ、どうやら千鶴の親が捜索願を取り下げたようだ」


 その言葉に私は悲しい気持ちになりました。黒魔女様のご家庭の事情は存じ上げていませんでしたが、この分では黒魔女様はあまり家族と良い関係ではなかったと窺えたからです。


 ですが、見張りがなくなったのは僥倖です。私は隙を見て、水橋の部屋にこっそりと手紙を忍ばせました。





 八月一日、日曜日。塩田は再び自室に届いた手紙を睨みつけていた。



『黒魔女の金をやる。証拠に半分だけ地図を渡しておくから、今日の夜九時に小屋裏まで来い』



 こんな偶然が続くものだろうか。似たような方法で似たような手紙が別人から届くだなんてことが。


 ――まさか誰かが俺をはめている?


 そんな疑念が脳裏をよぎったが、証拠はどこにもない。そしてこの手紙の提案は俺にとって得しかない。


 共犯のうちの誰かからならいいが、もし外部の人間からなら手紙の送り主が誰なのか確認する必要もある。


 結局、塩田には手紙に従って小屋裏に向かうしか道は残されていなかった。



 同日、夜九時。

 塩田は小屋裏の近くに身を潜めていた。数週間前と同様に、まずは相手の顔を確認しようという算段だった。


 九時ちょうど。今度の相手は時間通りにやってきた。辺りを忙しなく窺いながら小屋の方から歩いてきたのは、半袖のTシャツにジーンズ姿の用務員、水橋だ。


 塩田は素直に外に出るか出まいか迷った。前回のゆきの時とは違い、水橋は裏切ることはしないだろう。だがもう少し様子見をするべきか――


 しかしちょうどその時、隠れている塩田の方を水橋は振り返ったのだった。


「誰だっ」


 鋭い声を飛ばされ、渋々と塩田は水橋の前に姿を現す。水橋は目に見えて安心したようだった。


「なんだお前か、塩田。紛らわしい……」


 そんな水橋に、塩田は歩み寄りながら早々に尋ねた。


「水橋、例の地図は」

「あ、ああ。ほら、これだろ」


 素直に地図を差し出した水橋から、奪い取るようにして塩田はそれを受け取る。地図は組み合わせると確かにこの山の中のある位置を指しているようだった。


「早く金の場所に行こうぜ」


 そう言うと水橋は塩田に背を向けて歩き出した。


 塩田はじっと地図を見た。竜崎千鶴が所有していた金はどれぐらいになるのか。数十万、いや数百万は下らないだろう。それで俺たちで山分けするとして、俺にはいくら分け前が来るんだ?


 金を見つけたのは水橋だ。きっと多めに分け前を欲しがるだろう。彩音と涼子にも分け前を与えるとすると、自分の分は数十万程度になってしまうんじゃないのか。


 数十万。人殺しをしてたったの数十万。それだけで俺は満足できるのか? だったらいっそ、これを独り占めしてしまえばいいんじゃないのか?


 塩田は足元に落ちていたロープを拾い上げ、数歩先を歩いている水橋を見て口元を歪めた。





 同日、夜十時。魔女集会の開始時間。


 私は今日も黒魔女様の代わりに、壇上で宣言を行おうとしていました。


 塩田が戻ってきて水橋がいないということは、塩田が水橋を手にかけたのでしょう。今回はその場で確認していませんが、ちゃんと間違いなく殺したでしょうか。


 平然とした様子の塩田をちらりと見て、そんなことを考えてしまいます。私は頭を振って、雑念を追い払いました。


 駄目だ。黒魔女様の復讐のために動いている私はきっと黒魔女様の代行者。黒魔女様に恥じない行動をしなければ。


 一度大きく深呼吸をすると、私は前をしっかりと見ました。


「ようこそ、親愛なる黒魔女の娘たち。そして醜悪なる欲望の悪魔たち」

「あなた方の血は既に汚れ、あなた方の肉は既に主のものではない」

「邪悪なるものに足を広げ、二本角の悪魔と契約した背徳の子らよ」

「さあ、主の御名を汚す儀式を始めましょう」


 私の指先は、頭の端は、興奮と酸欠でびりびりと痺れていました。私は淫奔な魔女たちを見て笑みました。


 ――そうです。私は黒魔女様の代行者。きっと私こそが次代の黒魔女なのですから。


 意気揚々と段から降りた私を待っていたのは、俯いて何事かをぶつぶつと呟いている彩音の姿でした。きっと度重なる事件へのストレスで少しおかしくなってしまっているのでしょう。私は彼女の後ろ姿をじっと見つめました。 


 ――哀れな女。


 以前の私ならば、不機嫌そうな彩音に怯えるだけだったでしょう。しかし今の私には、黒魔女たる私にはああやって焦る彩音の姿はとても可哀想なものとしか映りませんでした。


 しかし私は復讐の手を休めることはしません。あの手紙の差出人が誰であれ、きっと黒魔女様の復讐は続くのですから。


 それだけお前たちの犯した罪は重いのだ。思い知れ。


 私は暫くの間、じっと彩音の背中を睨みつけ続け、ふと気まぐれに彼女の様子を窺ってみようと彼女に歩み寄りました。


「彩音ちゃん?」


 私が肩に手を置くと、彩音はまるで幽霊でも見たかのような顔をして私を振り返りました。


「どうしたの、顔真っ青だよ?」

「涼子……」


 心底安堵したといった表情で彩音は息を吐きました。その様子を見て、私は声をかけたことを後悔しました。


 彩音は、黒魔女様を殺した犯人たちはもっと苦しむべきなのです。黒魔女たる私の名にかけて、彼女たちを断罪しなければならないのです。


「なんでもないわ。……ちょっと外の空気、吸ってくる」


 そう言って出ていった数分後、彩音は慌てて小屋の中へと戻ってきました。何故戻ってきたのかは分かり切っています。小屋裏で水橋の死体が見つかったのでしょう。


 そして魔女集会が終わった夜十一時。案の定見つかった水橋の死体を囲んで、私たちは顔をつきあわせていました。


 水橋の死体は首を吊った状態で見つかりました。きっと塩田が細工をしたのでしょう。それだけならば私も動揺しません。


 しかし、水橋の死体のそばには前回同様、あの魔法陣も残されていたのです。それも、黒い雄鳥の死体のおまけつきで。


 私はもう半ば真実に気づいていました。これは――黒魔女様の仕業なのだと。




 数十分後、水橋の死体を片付けた私たちは、黒魔女様の死体を確認しに行くことになりました。


 私は内心、恐ろしくて仕方がありませんでした。黒魔女様の死体があるということは、黒魔女様の死を私が完全に認めるということになるのですから当然です。


 ああ、麗しき黒魔女様。本当に死んでしまっていたら、今頃その死体は黒くくすんでおぞましい姿に成り果ててしまっているでしょう。


 一足先にあの崖へとたどり着いた塩田たちが崖下を覗き込んでいます。私は怯えながら崖に近づくと、そっと崖下を覗き込みました。




 ――しかし、そこには誰もいませんでした。




 全身に震えが走るのを感じました。まごうこともない歓喜の震えです。やはり私の罪など無かったのです。全ては黒魔女様の手の平の上の出来事だったのです。


 私は確信しました。これは、黒魔女様が私に課した『魔女の試練』なのだと。

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