藤堂涼子編
第一話 涼子の信仰
――私にとってのあの方は、とても尊いお方でした。
塗りつぶしたかのような夜闇の中、私たち二人は地面に膝をつき、頭を垂れていました。私は全身をもって目の前のお方に敬意を払っていましたが、隣でひざまずく彩音は私とは違って何か打算的な眼差しをしているようでした。
私たちの目の前にいるのは、真っ黒な髪と目をした美しい方でした。彼女は季節はずれの長袖のセーラー服に身を包み、その手には分厚い本が握られています。
彼女の名前は竜崎千鶴。これから私たちが入会する黒魔女会の総帥、通称――「黒魔女」です。
一九九九年五月二日。淡く柔らかかった木々の葉は深い緑に変わり、学園の裏山を威圧的なまでに彩るようになった季節。私たちは魔女となるべく、黒魔女様による洗礼を受けようとしていました。
時刻は午後十時過ぎ。欠けはじめた月は黒雲に隠れ、その光を地面に届かせることはありません。私はちらりと目だけで隣の彩音を見て、それから黒い地面へと視線を戻して、目を閉じました。
「――汝ら、楽園の追放者よ」
沈黙のみが支配する空間に、黒魔女様の声が響きます。私たちを取り囲み見下ろしている先輩の魔女たちから、感嘆のため息の音が漏れ聞こえてきました。それほどまでに黒魔女様の声は魅惑的なものでした。
「神の目をかいくぐらんとする者よ」
彼女の声は柔らかく、優しく、絞め殺そうとしてくるかのようなものでした。私は浅い息を何度も繰り返し、胸の前で組んだ指をぎゅっと握りしめます。
「額に泥を塗り、幼子を殺し、悪魔の足裏を舐める者よ」
彼女の言葉にはまるで毒が含まれているようでした。甘く、気怠く、彼女の吐き出された息を吸い込む度に、私の肺は萎んでいくのです。
「私は原初の魔女アラディアの名において宣言しよう。汝らは人の道を外れ、我ら魔女のきょうだいとなるのだと」
まるで浅ましい犬がそうするかのように、私は自然と舌を出して息をしていました。舌に触れる空気は仄かに甘く、びりびりと脳が痺れていくのを感じます。
「……顔を上げなさい、二人とも」
優しい声色で許可を出され、私はゆっくりと黒魔女様を見上げました。黒魔女様は真っ黒な瞳で私たちを見下ろしました。そしてニイと目を細め、私たちに微笑みかけたのです。
私はその時、息ができなくてもいいのだと思いました。この方に生殺与奪を握られていることこそが幸せなのだと、それが魔女というものなのだと理解したのです。
するとあれほど苦しかった息が、一気にできるようになりました。私はその時、自分は人であることを捨て、魔女へとなったのだと感じました。
「藤堂涼子くん、益田彩音くん」
黒魔女様が私たちの名前を呼びます。私はその事実に打ち震えながら、まだ残る頭の痺れに黒魔女様の声が反響するのを感じていました。
「ようこそ黒魔女会へ。私は君たちを歓迎しよう」
その日から私たちは黒魔女様に仕える魔女の一人となったのです。そうして御身の近くに置いていただける光栄を賜り、私は黒魔女様のために身を粉にして働きました。
あの方は知れば知るほど素晴らしい方でした。何をなさっても全て正しいように事が進み、この世の忌まわしいもの全てが黒魔女様に服従しているかのようでした。
本当に素晴らしい方でした。あの方に仕えることこそがやがて私の至上の喜びとなっていきました。
それなのに。ああ、それなのに。
黒魔女様は殺されたのです。
他ならぬ――同胞たる魔女たちの手によって。
*
七月三日、土曜日。七月の第一サバトの前日。彩音たち四人の反逆者は黒魔女様を学校の裏山に呼び出していました。私はここに来るはずではなかったのですが、彩音に同行するように求められ、断ることができずについてきてしまったのでした。
でもきっとそれでいいのです。もし彩音たちが黒魔女様に危害を加えようとしたのなら、私が身を挺して守ればいいのですから。
裏山のその場所には悪巧みをしている四人――彩音、ゆき、塩田、水橋の四人が揃っていました。四人は可憐に立つ黒魔女様の前に、欲望にまみれた醜悪な姿を晒して立っていました。
「どうしたのだい? こんな時間に呼び出して」
「大した用事じゃないわ。すぐに終わるわよ」
彩音は得意げに笑っています。私はこっそりと目を鋭くしました。この女は何も分かっていない。黒魔女様がどれだけ素晴らしい方なのかも、どれだけ力のあるお方なのかも。
「単刀直入に言うわ。千鶴、アンタ、『黒魔女会』で稼いだ金を私たちに渡しなさい」
威圧的に放たれた彩音の言葉が黒魔女様にぶつかります。黒魔女様はその言葉に一度大きく目を見開いた後、ゆっくりと笑みを深めました。
「これはまた、大きく出たものだね」
黒魔女様の言葉を聞いた彩音たちは怯んだようでした。当然です。黒魔女様の言葉には力があるのですから。
「私としてはどうでもいいことではあるのだが、ここは一応言っておこうか。――『この裏切り者め』」
その言葉が私に向けられたものではないと分かっていながらも、私は胸の前で軽く手を組みました。いけないことをして叱られた時のあの恐怖と、下腹部から沸き上がってくる快感が震えとなって私の体を駆け抜けます。
「大人しく私たちの言う事を聞きなさい。さもないとアンタの悪行を世間に暴露するわ。アンタ一人だけが悪いって証拠はもうできてるのよ」
彩音はまだ諦めてはいないようで、黒魔女様に向かって一歩踏み出しました。しかしその足を黒魔女様の言葉が絡め取ります。
「困った。それは嫌だな」
地面に縫いつけられてしまった足を動かせないまま、彩音は怯えを含んだ目で黒魔女様を見ました。黒魔女様は右足を軸にしてくるりと回ってみせました。芝居がかったその様子は、黒魔女様に相応しいもののように思えました。
「私はできるだけ続けたいんだ。この無意味で無価値な行為をね」
「心配しなくても、アンタは今まで通り売春のお仕事をしてればいいのよ。利益だけ私たちに貢いでくれればそれでいい」
「駄目だね。君たちはそのうち、会の活動内容にも口を出してくるようになるだろう。それが権力欲というものさ。……そうすればすぐに『黒魔女会』は崩壊する」
確信を持って囁かれたその言葉に、彩音たちは硬直しました。黒魔女様は慈愛の微笑みをたたえたまま、彩音たちを見回しました。
「君たちはそれでいいのかな? 君たちの求めているのは、より長く甘い汁を吸い続けることではないのかな?」
常よりも声量の多い声でそう問われ、彩音たち全員はその言葉に打ち据えられているようでした。彩音たちは黙りこくり、黒魔女様はその様を見て、良しとしました。
「異論はないようだね。いいことだ。今回のことは黒魔女の名において不問としよう。君たちへの報酬も少しだが上げようじゃないか。それで万事解決だ」
黒魔女様は両腕を広げます。そう、これが黒魔女様の器。どのような愚か者でも救いを与えてくださる背徳の女王。魔女たちの王。そして、私にとってのただ一人の女神。私は黒魔女様の言葉の余韻に浸りました。
その時、不躾にも塩田が声を張り上げました。
「ふ、ふざけるなよ、竜崎!」
塩田は心底怒り狂っている様子でした。黒魔女様はそんな塩田に対して冷静に尋ねました。
「何を怒っているのだい、塩田?」
すると塩田は足音荒く黒魔女様に詰め寄り、あろうことか黒魔女様の胸ぐらを掴み上げたのです。
「あんまり調子に乗るんじゃねえぞ、お前がそうやってボス面していられるのは俺たちの協力のおかげだってことを忘れてるんじゃないだろうな!」
突然のことに、私は咄嗟に動くことができませんでした。黒魔女様は余裕をたたえたお顔で塩田の顔を見ました。
「ふふ、お前はそういう子だね。普段は澄ました顔をしている癖にいざ追い詰められると野蛮な本性が溢れ出す。おお、怖い」
黒魔女様の微笑を受けた塩田は、一気に顔を真っ赤にしたかと思うと、腕を振り上げて黒魔女様の顔を殴りつけました。続いて倒れ込んだ黒魔女様の腹を蹴り上げ、黒魔女様はげほげほと咳をします。
私はといえば、元の場所から未だ一歩も動けずにいました。黒魔女様を守る決意はどこへやら、私はただ行われていく暴力に立ちすくむことしかできませんでした。
私は黒魔女様に出会うまでの自分を思い出しました。
殴られ蹴られ、痣だらけになった手足を思い出します。黒魔女様に出会うまで向けられてきた、あの蔑みの視線を思い出します。
あれが再び私に向けられるかもしれないと思うと、情けないことに私は動くことができなかったのです。
「おい、お前らも殴っとけよ」
ふと振り返った塩田は私たちに向かってそう言いました。
「こいつはこうやって一度痛い目に遭っとくべきなんだよ」
彩音たちは目配せをすると、倒れ込んだままの黒魔女様に歩み寄り、黒魔女様に暴力を加え始めました。
私は絶望的な思いになりながらもそれを遠くから見つめることしかできませんでした。
泥が跳ね上がる。黒のセーラー服に皺が寄る。黒魔女様が汚されていく。黒魔女様がけがされていく。
私は必死に息をして、その様子を見つめ続けました。すると、ふと黒魔女様の顔がこちらを向きました。黒魔女様の目と私の目が合いました。
黒魔女様は私に向かって――ニイと笑いました。
「ああ、そうか」
たったそれだけで私は納得しました。
これは『黒魔女様のご意向』なのだ。こうして殴られることも、いいようにされていることも、全て黒魔女様がそうあれと願われていることなのだ。
許された気分になった私は黒魔女様に歩み寄りました。私の目の前にはぼろ雑巾のようになって倒れている黒魔女様がいます。本当はすぐにでも手をお貸しして立ち上がっていただきたい。でもそれでは駄目なのです。黒魔女様のご意向はそんなことではないのだから。私は黒魔女様からのご指示の通り、黒魔女様に足を振り下ろしました。
――がつん。
靴裏から伝わってきた黒魔女様の感触は、まるで普通の人間のそれのようでした。骨は硬く、肉は柔らかく、蹴られる度に黒魔女様の体は跳ね上がりました。
――がつん、がつん。
慣れないながらも、たどたどしく私は黒魔女様を足蹴にし続けました。
息はどんどん上がっていきます。口の端も何故かどんどん吊り上がっていきます。私は興奮しているのでしょうか、それとも楽しんでいるのでしょうか。それは信仰を試されているようで、信仰を汚しているようでもありました。
塩田が離れていったのを合図にして、彩音たちは黒魔女様から離れていきました。最後に残った私は、信仰を示すためにひときわ大きく足を振り上げると、黒魔女様を蹴りつけました。
「こ、これに懲りたら私たちには逆らわないことね!」
震える声で彩音は言い放ちます。黒魔女様に暴力を加えたことに怯えているのです、この女は。本当に何も分かっていない女です。
「ふふ、ふふふ」
彩音の言葉を受けて、それまでぴくりとも動かなかった黒魔女様は、口元だけで笑いながら起きあがりました。それはまるで人間を演じる人形であるかのようで、私はその美しさに息を呑みます。
「ああ、野蛮だね。野蛮で粗野で不躾で、非常に無様だ」
黒魔女様は一言一言を慈しむように発していきます。そして、誘うように両腕を差し出して、黒魔女様は宣言しました。
「だがそれでいいんだ。私はそんな君たちを許そう」
それは確かに託宣でした。原初の魔女アラディアの代行者たる、黒魔女様からの託宣でした。
「塩田、水橋」
黒魔女様は優しい眼差しを二人に向けました。
「今回の一件は、大方、君たちが言い出したことなのだろう?」
その問いかけに塩田と水橋は動けなくなりました。黒魔女様は今度は彩音とゆきを指さします。
「その場にいた彩音が話に乗り、ゆきは彼氏の塩田に誘われた。そして、」
黒魔女様の目が私に向きました。私は断罪されると思いました。ご意向に沿ったとはいえ、愛すべき黒魔女様に暴力を振るったのです。断罪されてしかるべきだと思いました。そもそも彩音たちとともにこの場にいること自体、罪深い裏切りなのですから。
そんな私の考えを知ってか知らずか、黒魔女様はとても優しい声色で私に問いかけました。
「――涼子くんは彩音に連れてこられた。違うかい?」
その言葉に私は黒魔女様の愛を感じました。黒魔女様は全て知っていたのです。全て知った上で私に自分を殴らせて、信仰を試そうとされたのです。
彩音たちはそんな黒魔女様に怯えているようでした。全てを見透かされていたことが恐ろしいのでしょう。黒魔女様は軽く肩をすくめました。
「なに、ただの推測だよ。誰にだってできるさ」
黒魔女様がそうやって嘯いても、彩音たちの困惑が消えることはありませんでした。黒魔女様は軽く口角を上げました。
「だからそう、そんなに怯えないでおくれ」
綺麗な形の唇から艶めかしい響きがこぼれます。私は胸の前で指を組んで、黒魔女様に向かって身を乗り出しました。
ああ、ああ、偉大なる黒魔女様! その唇で私のことも一呑みにしてくださればいいのに!
「私は君たちを許そう。君たちは黒魔女会に属する欲深い魔女と魔物たちだ」
静かな宣言に私たち全員は聞き入ります。黒魔女様は皆を見回しました。
「欲のままに生き、倒錯的な感情に溺れ、無意味なことをしてまわる。それだけが私の――黒魔女の願いだよ。愛しい愛しい子供たち」
黒魔女様は右腕を差し出し、まるで私たちの喉を撫でるかのように動かしました。私たちは黒魔女様の前に無様に喉を晒して沈黙する他ありませんでした。
「そうすればきっと、とろけるように甘いごほうびをあげよう」
どんな毒よりも苦く、どんなチョコレートよりも甘い言葉が耳から入ってきては脳を揺らします。黒魔女様は腕を下ろすと、ただ微笑みました。怪我や泥だらけだというのに、その姿はとても美しく見えました。
「それでは私はここで失礼するよ。君たちも早く寮に帰りなさい」
黒魔女様は私たちに背を向けると、まるでここでは何事も起こらなかったかのような様子で立ち去ろうとしました。
「ま、待ちなさい!」
それを呼び止めたのは彩音です。彩音は黒魔女様に駆け寄ると、ちょうど階段に足をかけていた黒魔女様の肩を強引に引っ張り――
そこから先はまるでスローモーションを見ているかのようでした。
バランスを崩した上体。
浮いた右足。
足下は昨夜に降った雨でぬかるみ。
まるで狩人に撃たれた小鳥がそうなるように、重力の楔に従ってあっという間に姿が見えなくなって――
「黒魔女様!」
私は黒魔女様の名を叫び、崖下を覗き込みました。
そこには黒魔女様の体がありました。目を見開いたままぴくりとも動かず、清流に体を浸し続けるだけの黒魔女様の姿がありました。
その有様に私は――悲鳴すら上げることもできませんでした。
*
七月十日、土曜日。
「金を見つけたら、ここにいる全員で山分けだ。でなけりゃ抜け駆けしたそいつの犯行を警察にバラす。……いいな?」
塩田の念押しに、その場にいる共犯者たちは神妙な顔で頷きました。私はといえば、一週間経った今になっても、あれが夢だったのか現実だったのか分からずにいました。
黒魔女様は完璧なのです。黒魔女様は間違えないのです。だからあんな、あんな呆気ない死に方をなさるはずがないのです。
だけどあれから一度も黒魔女様は姿を見せませんでした。授業にも出ず、寮にも帰っておらず、黒魔女様の存在はこの学園から忽然と消えてしまっていたのです。
でもそんなはずはありません。きっと性質の悪い冗談か何かなのでしょう。そう思う一方で、私は黒魔女様が死んでしまったということが現実だとも思い始めていました。
その証拠に、私はあの崖下の死体を確認しにいく勇気を持つことができないでいたのです。
共犯者たちの集まりから逃れて、私は自室に向かって歩いていきました。足取りは重く、視線は自然と俯いてしまいます。
あれは現実だったのでしょうか。それとも夢だったのでしょうか。幾度も繰り返した自問自答を巡らせ――私はやがてぴたりと立ち止まりました。
今でもはっきりと思い出せます。清らかな流れの只中で仰向けに横たわるあの方の姿を。驚いているかのように目を見開いたまま動かなくなったあの方の姿を。
――現実だ。
私は唐突に理解しました。理解してしまいました。それと同時に鈍く錆び付いていた感情が一気に噴き出してきたのです。
どうしよう、そんな、私があの方を、そんなつもりじゃ、だってあの方は私の、
体中が震え、その場に崩れ落ちそうになります。私はなんとかそれをこらえて、自室へと駆け込みました。その途端、私の両目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち始めました。
死んでしまった。死んでしまったのだ。私の王が。私の神が。
私はドアを背にしてずるずるとしゃがみ込みました。湧き上がってくる震えが止められず、がちがちと奥歯を鳴らします。
死んでしまった。違う。死んでしまったのではない。殺されたのだ。私たちに。違う。あいつらに。あいつらのせいだ。全部あいつらのせいだ。
激しい感情の奔流はやがて矛先を見つけ、私は激しく彼ら――黒魔女様を殺したあの四人のことを憎み始めました。
あいつらのせいだ。あいつらのせいだ。あいつらのせいだ!
拳で床を何度も殴りつけます。しかしそれだけでは何も変わるはずもなく、ただ空しく拳が痛むだけでした。
私はひりひりと痛む拳を撫で、俯きました。私一人が怒ったところで何が変わるでしょうか。何も変えられないに決まっています。私は激しい悔しさを抑え込むため、唇をきつく噛みました。
その時、私は見つけたのです。私がしゃがみこんでいるすぐ近くの床に、真っ白な何かが落ちているということに。
「え……?」
それは――見覚えのない一通の手紙でした。
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