第八話 八月十二日

 翌八月十二日、木曜日、午後十時五十分、本校舎前。立ち込める雲によって月明かりは陰り、校舎の影をぼんやりと落としている。彩音と涼子は呼び出された場所へとやってきていた。時間が時間のため、幸か不幸か校舎前には人っ子一人いない。そのことに少しだけ安堵しながら、彩音は辺りを見回していた。


「……誰も来ないわね」

「うん……」


 涼子も頷いて同意する。十一時ちょうどに来るにしても、人の気配が無さすぎる。彩音は恐怖よりも苛立ちが勝り、不機嫌そうな声を出した。


「どこかに隠れてるんじゃないでしょうね」


 そう言いながら周囲を警戒しながら歩き回り――ふと彩音は何かを踏んだことに気がついた。周りの土よりも少し盛り上がったようになっているそれを、彩音はしゃがみ込んでつまみ上げてみる。


「何かしらこれ、黒い土……?」


「あ、彩音ちゃん、もしかしてこれ……」


 怯えた声で涼子が後ずさる。彩音もつられて立ち上がり、黒い土の全貌を見た。


「ひっ」


 それは正円に三角形を組み合わせて作られた、例の魔法陣だった。彩音は咄嗟に飛びすさり、魔法陣から一歩距離をとる。その時、


 ごしゃり。


 突然重いものが地面にぶつかる音がして、彩音の目の前に服を着た塊が現れた。数秒硬直した後、それが校舎からこの魔法陣めがけて落下してきた人間であることに彩音は気付き、絶叫した。


「き、きゃあああ!」


「塩田先輩!」


 涼子が落ちてきた人間へと駆け寄る。彼女の言ったとおり、その人間は塩田のように見えた。冷静な涼子を見て少しだけ落ち着いた彩音は、涼子に近寄り、その人間の顔を見る。目を見開いたまま硬直しているそれは、やはり塩田だった。


「駄目、死んでるみたい……」


 涼子が震える声で言う。


 魔法陣の上には、塩田の死体から流れ出た液体が広がっていた。夜目にもそれが血であることが、もしくは頭の中身であることがはっきりと分かり、彩音はこみ上げてくる吐き気を口に手を当てて飲み下した。


「きっと屋上から落ちたんだ」


 頭上を見上げて涼子が言う。つられて彩音もその視線の先を見上げた。屋上にはフェンスがはまっているはずだったが、一カ所だけそのフェンスが外れていた。


「だ、誰かがあそこから塩田を突き落としたっていうの……?」


「でも口論する声も聞こえなかったし、その……」


 涼子は一度口ごもり、それから彩音を窺うようにして言葉を続けた。


「自殺したとしか……」


 ――自殺。ゆきや水橋と同じように。残された遺書と魔法陣。不可能な場所にばらまかれたカード。死因をほのめかす手紙。体の奥底からわき出てくる震えを、彩音はもはや止めることができなかった。


 あの手紙には何と書いてあった。二人の首吊り、一人の転落死、一人は首を折られ、一人は頭を砕かれ、最後の一人は焼死する。この中にもし私が入っていたら。いいや、絶対に入っている。だって、だって竜崎千鶴を殺したのは、私なのだから。


 じっと視線がこちらに向けられている。纏わりつくような、こちらを抱擁してくるかのような柔らかで恐ろしい視線が私を見ている。竜崎千鶴が、黒魔女が、私を。ほら今も、見上げれば竜崎千鶴の影がそこに――


 彩音の中で、ぷつんと何かが切れた気がした。


「千鶴よ」


 今まで否定してきたのは何だったのかと思えるほど、あっさりとその推測は確信へと変わっていた。黒魔女はいる。私たちが殺したアイツは蘇ったんだ。そして私たちに復讐しようとしているんだ。


「やっぱりアイツが蘇ったのよ!」


「黒魔女様……」


 ぼんやりとした声で涼子も答える。


 そうだ、全部アイツがやっていたんだ。ゆきと水橋と塩田を自殺させて、今度はきっと私たちだ。私たちも三人みたいに自殺させられるんだ。


 恐怖で息が荒くなる。寒くもないのに奥歯ががちがちと鳴る。そんな彩音の手を、涼子は唐突に取った。


「逃げよう、彩音ちゃん」

「え……」


 力強い涼子の言葉に、彩音は間抜けな声で返事をしてしまう。涼子は震える彩音の手を両手で包み込み、言葉を続けた。


「事件のことを隠すのはもう無理だよ。それより、このままじゃ私たちまで呪い殺されちゃうよ」


 彩音は涼子にすがりつくような眼差しを向けた。涼子はそんな彩音の視線をまっすぐに受け止めた。


「とにかく荷物をまとめて逃げよう?」


 涼子の提案に、彩音はこくこくと何度も細かく頷いた。




 二人は足早に寮に戻っていく。


「準備ができたら寮の入り口で待ってて。私もすぐに行くから」


 彩音は涼子に言われるがままに頷いた。涼子もそれに頷き返すと、二人はほとんど走るようにして自室へと駆け込んだ。彩音は普段使わない荷物を引っ張り出し――その中から小さな財布を取り出した。


 非常用の財布だ。これさえあれば麓の町から自分の家まで帰ることができるはずだ。彩音はそれだけをひっつかむと、寮の入り口に向かって駆け出した。


 寮の入り口にはまだ涼子はやってきていなかった。彩音は忙しなく辺りを見回し、誰も近づいてこないかどうかを確認する。しかし彩音の周りでは草むらで鳴く虫の声が響くばかりで、怪しい動きはどこにもない。それでも安心できずに、彩音は涙目になりながら涼子の到着を待った。


「お待たせ、彩音ちゃん」


 至近距離で囁かれた声に、彩音はばっと振り返る。そこには目をニイと細めた涼子がすぐ近くに立っていた。


「涼子……?」


 思わず彩音は後ずさり、涼子を見た。おかしい。何かがおかしい。


 涼子は笑顔のまま、彩音に向かって一歩踏み出した。その手には町に下りるための荷物はなく、その代わりに――一丁の猟銃が握られている。


「涼子、そんなものどこから……」


「彩音ちゃん、これは罰なの」


 涼子たちのような女子高生が持つにはあまりに不似合いな猟銃を、涼子はたどたどしい手つきで構える。銃口の先にいるのは、もちろん彩音だった。


「必要な生贄は六人」


 もう一歩、踏み出す。彩音も一歩後ずさった。


「あと二人死ねば、それでおしまいなんだよ」


 そう言いながら涼子はうっとりと微笑んだ。彩音は唐突に理解した。


 ああそうか。涼子は、この女は、私を殺して自分だけは呪いから逃げようとしているのだ。


 銃口がぴたりと頭に向く。足が竦んでしまって動けない。


 駄目だ、逃げないと、早く、ねえ動いて、お願い、逃げないと、殺される、動いて、動いて、動け、動け、動け!


 弾け飛ぶようにして彩音は走り出した。寮の前の舗装された道を駆け抜け、転びそうになりながらも運動場へと駆け込む。――後方から涼子の猫なで声が聞こえた。


「駄目だよ、逃げないで彩音ちゃん。ちゃんと頭に当てないといけないんだから、動かないで待っててよ」


 ダンッと、腹に響くような音がして、驚いた彩音は足をもつれさせて倒れ込む。撃たれた。本当に撃ってきた。今のは当たらなかったけれど、あんなものに当たったら本当に死んでしまう。


 全身ががたがたと震え、彩音は立ち上がれないまま這いずって逃げようとする。しかしそれよりも早く追いついてきた涼子が、彩音の頭に猟銃を向けた。


「ひぃっ」


 情けない悲鳴を上げて、彩音は涼子を振り返る。涼子は相変わらず感情の読みとれない笑顔を彩音に向けていた。


 彩音はその笑顔に見覚えがあった。超然的で、全てを包み込むようで、何を考えているのか分からない黒々としたこれは、この目は――黒魔女の目だ。


「さようなら、彩音ちゃん」


 涼子の人差し指が引き金に掛かる。彩音は浅い息で尻餅をついたまま、それを見つめることしかできない。そのまま引き金は引き絞られ――銃弾が放たれる直前に涼子の人差し指は弛緩した。


「なんで」


 握りこんでいた手が緩み、涼子は猟銃を取り落とす。彩音の見ている前で彼女は膝を突き、音を立てて地面へと倒れ伏した。彼女の口からは泡混じりの血が吐き出され、彼女の体は細かく痙攣している。


「黒魔女様……」


 か細い声で言う涼子を、ふらふらと立ち上がった彩音は見下ろす。銃口を向けられた恐怖と興奮は未だ冷めておらず、全身は震えている。


 だめだ。このままじゃだめだ。きっとこれは演技だ。私を騙そうとしているんだ。


 何故かそんな考えが彩音の頭の中に降ってくる。今の彩音にとって、涼子はもはや敵にしか映っていない。見下ろすと足下には涼子が取り落とした猟銃が転がっている。彩音はそれを両手で拾い上げ、涼子へと向けた。


 いやだ、死にたくない。やらないとやられるんだ。このままじゃだめだ。死にたくない。だめだ。仕方ないんだ。やらなきゃやられるんだから。


 恐怖と混乱でぶれる銃口をなんとか押さえつけ、引き金へと指を掛ける。


「アンタが悪いのよ、私を裏切るから、アンタのせいなんだから……」


 涙目でぶつぶつと呟きながら、彩音は怯えた目で涼子をみる。涼子も痙攣しながらも彩音を見る。




 涼子は最後に、ニイと笑った。




 銃声が響く。重い重い破裂音が散弾を押し出して、あっという間に涼子の頭蓋へと食い込んでいく。ほとんど破裂するような形で、涼子の頭が砕け散る。吹き出した血が彩音へと降りかかり、彩音は手も顔も足も、全身が血みどろになってしまう。


 その生温かい感覚に彩音ははっと正気に戻り、目の前の涼子の死体を見た。涼子の頭蓋は爆ぜ、顔はもはや判別がつかず、頭の中身が露出していた。その死体から立ち上る鉄の匂いをかいだ彩音は、そこでようやく自分が何をしたのかを自覚し、滅茶苦茶な悲鳴を上げて猟銃を投げ捨てた。


 投げ捨てられた猟銃は涼子の亡骸に当たってバウンドする。彩音はよろよろと数歩後ずさりながらぶつぶつと何事かを呟いていたかと思うと、急に甲高い叫び声を上げて走り出した。


 半狂乱になった彩音は、泣きわめきながら、ほとんど転がるようにして学園の出口を目指して坂を駆け下りていった。当然、何度も足をもつれさせて転んでしまい、その度に彩音の体には傷が増えていく。膝を擦りむき、顔を打ち付け、それでも足を動かして逃げようとしていた彩音であったが、幾度目かに転んだ拍子に足首が変な方向へと曲がってしまい、倒れ込んだ。


 どうやら完全に捻ってしまったようで、彩音の足は思うように動かない。ふらふらと歩いてはみたものの、学園の出口はまだまだ遠く離れている。やがて痛みと恐怖で蹲り、彩音はすすり泣いた。


 どうして、私がこんな目に。


 自分がしてきたこと全てを棚に上げて、彩音は膝を抱える。――その時、聞き覚えのある声が、彩音の頭上からかけられた。


「彩音先輩」

「ひぃっ」


 悲鳴を上げて彩音は尻餅をつく。顔を上げたそこにいたのは、あの時の少年のうちの片割れ、篠谷達也だった。


「大丈夫、僕は味方だよ」


 達也は彩音の首に抱きつくと、まるで幼子をあやすかのように彩音の背中を何度も撫でた。


「お姉ちゃんに言われてここに来たんだ」


 彩音は疑問を込めた目で達也を見る。しかし達也はそれには答えず、彩音に手を貸して、彼女を立ち上がらせた。


「こっち」


 達也は彩音の手を軽く引っ張った。彼が向かおうとしている先は学園の出口とは違う、森へと繋がる獣道だった。


「そっちは危ないから」


 困惑した様子の彩音にそう説明する。彩音は不思議とそれを信じてしまった。


「一緒に逃げよう、彩音先輩」


 優しい声色で提案される。裏表なんて無いような声色で少年が言う。――断る理由は彩音にはなかった。


 彩音の手を達也は引く。彩音は足を引きずりながらもそれについていく。


 草むらから響く虫の鳴き声に見送られながら、彩音と達也は連れ立って夜の森へと消えていった。




益田彩音編 了

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