第七話 彩音を追い詰める影

 あの日、千鶴の死体を見つけることができなかったあの後、彩音はどうやって寮に戻ったのかうまく思い出せなかった。ふと気づいた時には彩音は自室のベッドの上で、シーツを被って震えていたのだ。


 翌日、涼子がこちらを気遣うような態度を見せてきたことから考えるに、どうやらかなりの醜態を晒してしまったらしい。だがそんなことを取り繕う余裕は彩音にはなかった。


 あの日から時折、まるで泥のように纏わりつく竜崎千鶴の視線が、彩音の背中には張り付いていたのだ。





 八月六日、金曜日。


 彩音たちにとっては幸運なことに、毎年長期休暇中は用務員の不在によって臥子学園高等部学生寮の門限はなくなる。そのため、水橋の姿が見えなくなっても、学生寮の鍵が開放されたままになっていても、誰も不審には思わなかった。


 だが夏休みが終われば、水橋の失踪は明るみになってしまうだろう。学園外で失踪したことになればいいが――どちらにせよ騒ぎが大きくなるうちに裏切り者を特定して釘を刺さなければ。


 彩音は不機嫌そうに顔をしかめながら、学生寮の廊下を歩いていた。


 門限がなくなったとはいえ、学生寮に残っている生徒は少ない。その半数は勉学に励む者、もう半数は黒魔女会の会員だった。――つまり堂々と聞き込みができるということだ。


 しかしあまり堂々としすぎてもまずい。大っぴらに調査をして裏切り者に勘付かれ、背信の証拠を消されても困る。


 あくまでひっそりと、それでいて迅速に。それが彩音の成さなければならない聞き込みの課題だった。


 そんなことを考えながら歩いていた彩音は、向かいからある人物が歩いてくるのに気がついた。――黒魔女会の魔女、浜西藤花だ。


「藤花、ちょっといい?」


「えっ、う、うん……」


 動揺した様子で頷く藤花を彩音はそっと睨みつける。こいつは刑事に事件のことをバラそうとした前科がある。裏切り者の可能性もあるだろう。


 ちょうど近くにあった藤花の部屋に彼女を引き込み、ドアを閉める。先日の件があったせいか、藤花は目に見えて怯えているようだった。


「そう構えないでちょうだい。黒魔女会の規律が守られてるかどうか確かめて回ってるだけだから」


 努めてにこやかに彩音は藤花に言う。


「規律……?」


「そう、規律。黒魔女会の秘密を誰にも話していないかっていう簡単な決まりよ。藤花、アンタ誰にも秘密をバラしてないわよね?」


 彩音は優しい口調で尋ねる。藤花は怪しい反応は見せない。彩音は加えて、こうも尋ねた。


「例えばそう……初等部の男の子に、だとか」

「初等部?」


 彩音の問いかけに藤花はきょとんと目を丸くした。彩音はじっと藤花の顔を見る。しかしその表情に嘘をついている様子はない。


「そう……。もういいわよ。呼び止めて悪かったわね」


 一気に不機嫌そうな顔に戻ると、彩音は部屋から出ようとドアの方へと歩いていった。


「ああでも」


 ふと立ち止まり、彩音は藤花を振り返る。藤花は思わず体をこわばらせた。


「今日私に聞かれたことはきれいさっぱり忘れるのよ。……いいわね?」


 こくこくと藤花は頷く。彩音はそんな彼女を軽く睨みつけた後、フンと鼻を鳴らして部屋の外へと出ていった。


 背中でドアをばたんと閉め、彩音は自室に向かって歩き出す。一体誰が裏切り者なのか。黒魔女会の会員は他学年にもいる。彼女たちにはどうやって聞き込みをするべきか。


 知らずのうちに親指の爪をがりがりと噛みながら彩音は歩いていく。その険悪な雰囲気に圧されたのか、数少ない道行く生徒たちは彩音に道を譲っていった。――と、その時、




 ぬらり、と。




 何かが首元に纏わりつくような感覚を覚え、彩音は立ち止まる。その感覚はまるで何かに後ろから抱きつかれているかのようで、彩音は小さく悲鳴を上げる。彩音は必死になって足を動かし、目に見えないその感覚を振り払おうとした。


 彩音は足音荒く歩いていく。背中に視線を感じる。竜崎千鶴の視線を感じる。


「気のせい、気のせいよ……」


 小声で自分に言い聞かせながら、彩音は自室へと急いでいく。あと七メートル、五メートル、三メートル――


 何かが彩音の肩を叩き、彩音は飛び上がるようにして振り返った。


 そこにいたのはきょとんとした顔の涼子だった。


「り、涼子……驚かせないでよ……」


「え、うん、ごめん……?」


 状況が飲み込めていない様子の涼子をよそに、彩音はホッと安堵の息を吐いていた。やっぱり今のは気のせいだったんだ。大丈夫。千鶴はちゃんと死んだはずだ。蘇ってなんていない――はずだ。


 彩音はありもしないものに怯えてしまった自分に少しだけ笑いながら、自室のドアへと歩み寄った。しかしそこにあったものを見て、彩音は再び顔をこわばらせた。


「何よこれ……」


 彩音の部屋のドアには、一枚のカードが差し込まれていたのだ。


 そこに描かれていたのは、正円の中に三角形と二つの円を入れ込んだ――


「魔法陣……」


 彩音は愕然として呟く。そんな彩音の後ろに立っていた涼子は、彩音へと声をかけた。


「彩音ちゃん?」


 彩音の視線の先を覗き込んだ涼子は、彩音同様に目を見開いてその魔法陣を見た。


「何これ……」

「知らないわよ! そんなの私が聞きたいわよ!」


 ヒステリックな叫び声が、二人の他には誰もいない廊下に響く。彩音は乱暴にそのカードをむしり取ると、力任せにそれをぐしゃぐしゃに握りつぶした。





 八月十日、火曜日。依然、黒魔女会の裏切り者は見つからず、彩音は焦りを募らせていた。


「アンタ、黒魔女会の秘密をバラしてないでしょうね」

「まさか。そんなことして何の得になるっていうの」

「そうよね、その通りだわ。……ああ、実は学園の小学生と会う機会があったのだけど――いえ、何でもないわ」


 幾度も繰り返した問いを魔女の一人へと投げかける。しかし彼女は小学生というワードに反応することはなく、彩音は言葉を濁してその場を去ることにした。


 どうすれば裏切り者をあぶり出せるのか。そもそも裏切り者は本当に存在するのか。何か別の存在が、黒魔女会の秘密を握ってしまっているだけなのではないか。巡る思考に、彩音はがりがりと爪を噛む。


 それにこの前部屋のドアに貼られていた魔法陣のことも考えなければならない。誰が、何のためにあんなことをしたのか。


 あの時は思わず捨ててしまったが、冷静になって思い返してみると、あの魔法陣は今まで首吊り死体の横に置かれていた魔法陣とは違うものだったような気がする。


 あれに何かメッセージがあるのなら、どんなメッセージなのか。この魔法陣の意味さえ分かれば、それも分かりそうなものを。


 噛みしめた爪先がぱき、と割れる音がした。彩音は忌々しげに爪を見ると、ぎゅっと手を握り込み、大股で自分の部屋へと歩いていった。


 自室の数メートル手前で彩音は立ち止まる。彩音の視線の先には白いカードがあった。ドアの隙間にあの時同様にカードが挟まっていたのだ。


「また……!」


 彩音は怒り狂いながらそれをむしり取ると、乱暴にドアの鍵を開け、部屋の中へと入った。しかしそこで待っていた光景に彩音は再び硬直した。


 それは部屋の中央に置かれた一枚の手紙だった。


 おかしい、そんなはずはない。だってこの部屋には鍵がかかっていたはずで、誰も中に入ることなんてできないはずなのだ。


 震える手で手紙を拾い上げ、彩音はその内容へと目を通す。


『糸を吐く蚕の群れ。二つは木より吊られ、一つは地に落ち、一つは首を折り、一つは顔を爆ぜさせ、一つは火に焼かれる。六の生贄が捧げられた時、繭は破られ、魔女は生まれ直すだろう』





 八月十一日、水曜日。彩音と涼子は連れだって、初等部の校舎へと向かっていた。


 あれからカードの犯人を目撃した者を探したが、見つけることはできなかった。それどころか誰一人として、怪しい動きをしている者すら見ていないという。そして裏切り者の手がかりもまた見つけられずにいた。


 暗礁に乗り上げた調査を進めるため、彩音たちは初等部のあの少年たちを訪ねることにしたのだ。あの少年たちであれば裏切り者の情報を持っているかもしれない。魔法陣の意味も分かるかもしれない。裏切り者やこの先行われるであろう水橋の失踪に関する聞き込みに対して不利な行動ではあったが、それ以外に現状を打破する方法は彩音たちには思いつかなかった。


 二人は無言のまま初等部への坂道を下っていったが、沈黙に耐えかねたのか、涼子はふと口を開いた。


「彩音ちゃん」


「何」


「……あの手紙なんだけどさ」


 手紙。「魔女が生まれ直す」と書かれたあの気味の悪い手紙だ。涼子は顔を伏せて彩音に尋ねた。


「やっぱり黒魔女様のことなのかな……」


 馬鹿な問いだと笑い飛ばすことはできなかった。竜崎千鶴の死体が消え、何者かが彩音の部屋に魔法陣を送りつけている現状では、そう考えるのが自然だった。その上、あの手紙にはゆきと水橋の死因らしきフレーズも書いてあった。誰かが事件のことを知って、私たちを脅そうとしているのかもしれない。


 ――もしくは、本当に千鶴が蘇って私たちを殺そうと……。


 脳裏に浮かんだ馬鹿げた考えを、首を振って追い払う。とにかく少年たちに魔法陣を見せれば何かわかるかもしれない。彩音たちはまた無言になって、初等部への道を急いでいった。





「あまり寮に帰ってこない、ですか?」


「そうなのよ。達也くんは元々あまり真面目な子ではなかったのだけれど、最近は更に酷くなって。雪斗くんも一緒になってどこかに行ってしまうことが多いから困ってるのよ」


 初等部に残っていた用務員から「あの子たちがどこに行っているか知らない?」と逆に尋ねられてしまい、彩音たちは笑って誤魔化しながら帰途につくしかなかった。


 高等部に彩音たちが戻ってきたのは午後四時過ぎだ。日は若干傾いてきたものの、まだまだ日差しは強く、彩音たちの首の後ろをじりじりと焼いている。


 二人は本校舎から少し離れた場所にある学生寮の入り口をくぐった。屋内は当然冷房は効いておらず、むっと立ちこめる熱気が充満している。


「また明日違う時間に出直しましょ。そしたらあの小学生たちもいるかもしれないし」

「うん、そうだね……」


 そうやって会話しながら、彩音は自室へと歩いていく。そして、部屋のドアが見えてきた辺りで、彩音はごくりと唾を飲み込んだ。


 もしかしたらまた魔法陣があるかもしれない。もしかしたらまた気味の悪い手紙があるかもしれない。


 彩音は緊張した面持ちでドアへと近付き――その様子を見て、ホッと息を吐き出した。自室のドアにはあのカードは差し込まれていなかったのだ。


「今日はないみたいだね……」


「そう毎日のようにあってたまるもんですか」


 フンと鼻を鳴らしながら彩音は答えたが、心臓の鼓動はまだ激しく鳴り響いていた。


 彩音は自室の鍵を取り出すと、ドアの鍵穴に差し込んで捻った。がちゃりと音を立てて鍵は開く。そのまま彩音はドアを引き開け――目の前に広がる光景に硬直した。


 紙、紙、紙。


 足下にあったのは床を埋め尽くすほどに散乱した、あのカードだ。カードには一つ一つ魔法陣が描かれ、まるで彩音を睨みつけているかのようだった。


「なんなのよ……なんなのよもう……!」


 声を震わせながら、彩音は後ずさる。涼子はそんな彩音を受け止めると、彼女より先に部屋の中に入り、カードの中に置き去りにされた一枚の手紙を拾い上げた。




『八月十二日、夜十一時、本校舎前』




 涼子は彩音にもその内容を見せる。彩音は震える声で尋ね返した。


「……来いってこと?」


 恐らくそれは正解だ。きっと、この魔法陣を用意した人物が、事件の全容を知っている人物がその時間、その場所で待っているということなのだ。断じて竜崎千鶴が待っているはずはない。そんなことはありえない。


「行ってみようよ、彩音ちゃん」


 思いの外冷静な声で涼子が言う。彩音は涼子の顔を窺った。


「このままじゃ私たち、脅され続けるだけだよ」


 その言葉に彩音はぐっと言葉に詰まり、しばらくの間沈黙した後に、首を縦に振って頷いた。

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