第六話 黒魔女は蘇る

 八月一日、日曜日。臥子署所属の刑事、古林は臥子学園への道を登っていた。


 こめかみあたりから垂れた汗は顎を伝って服にぼたぼたと落ちていく。空には入道雲が立ち上っているというのに日は一切陰っていない。じりじりとうなじを焼く真夏日だ。


 これが良い知らせを持っての行軍ならばまだいいが、今回の用件はそういった類のものではなかった。


 あまりの暑さに息を切らせて立ち止まった古林に、熱のこもった風が吹き付ける。と、その時、聞き覚えのある声が古林にかけられた。


「おや、刑事さん」


 声をかけてきたの用務員の水橋だった。水橋は被っていた帽子を取って、古林に近づいてきた。


「今日も聞き込みですか?」

「いえ今日は……」


 歯切れ悪く古林は答える。敗北宣言をするようで忌々しいが仕方がない。言わないわけにもいかないだろう。古林は肩を落として言葉を繋いだ。


「実は竜崎千鶴さんの捜査が打ち切られることになりまして――」







「捜査打ち切り?」


 用務員室で水橋から告げられた言葉に、彩音は鸚鵡返しに尋ねた。


「ああ、どうやら千鶴の親が捜索願を取り下げたようだ」


 水橋は用務員室で自分の荷物を片づけながら答える。こちらを見ようとしないままの水橋に多少苛立ちながらも、彩音は水橋に詰め寄った。


「じゃあ私についてる監視も!」


「無くなるだろうな。ゆきも日頃の素行が悪いせいで捜索願は出ていないらしいし、これでひとまずは安心ってことだ」


 荷物を詰め終わった水橋は押さえつけるように鞄を閉めて振り返った。窓の外は日が落ちかけ、薄暗くなりつつある。


「後は誰かが自首しない限り、事件は露見しないってことだな」


 ――自首。そんなことをされれば全ては水の泡だ。しかしかすかな不安を飲み込んで、彩音は水橋を嘲笑った。


「自首って……そんなことして誰の得になるっていうの?」


 そうだ、何の得にもならない。自首したところで自分の罪が軽くなるわけでもなし、そんなことをしても意味がないのだから。


「得にはならないが楽にはなるさ。こんなヤバい秘密、抱え続けるのもきついだろう」


 ぐ、と彩音は言葉に詰まる。確かにその通りだ。罪悪感に負けて誰か一人でも裏切れば、私たち全員の人生はおしまいなのだ。


 咄嗟に答えることができずに二人の間に気まずい沈黙が落ちる。彩音は黙りこくった後、水橋の手元の鞄をふと見咎めた。


「……その荷物、町に帰るの?」


 町に帰る――つまり隔離されたこの学園の外に出るということだ。この学園の生徒たちは長期休暇の時に限り、町へと降りて家に帰ることを許されている。


「ああ、休暇だよ。お前は帰らないのか?」


「千鶴の残した金がまだ見つかってないじゃない。人がいない今がチャンスなのよ」


 それに黒魔女会の裏切り者――あの小学生に黒魔女のことを漏らした奴も突き止めなければならない。こんな懸念を残してのうのうと休暇を楽しめるほど、彩音は図太くはなかった。


「涼子も塩田も残るそうよ。アンタもさっさと休暇なんて終わらせて、金を探すのに協力しなさいよね」


「……まあ、その前に今夜の魔女集会を乗り切ることからだな」


 頭をボリボリと掻きながらの塩田の言葉に、彩音はぎゅっと眉を寄せた。





 同日、午後十時。学園の裏山。


「……さあ、主の御名を汚す儀式を始めましょう」


 涼子の声と蝋燭の合図を皮切りに、少女たちのざわめきと嬌声が響き始める。少女たちの白い肌が夜闇に浮かび上がっている。醜悪な欲望をぶつけられて、少女たちは喜び合っている。


 ――本当に馬鹿な奴ら。


 少女たちへの嫌悪を隠しながら彩音は彼女たちを見渡す。この中に黒魔女会の情報を外部に漏らした裏切り者がいるはずだ。なんとかして炙り出さなければ。……でもどうやって?


 それに千鶴の金は結局どこにあるのだろう。ここまで見つからないとなると、千鶴は誰かに金庫番をさせていたのかもしれない。それとも、この広い裏山のどこかに隠してしまっているのか。そうなったらもうお手上げだ。


 ぐるぐると思考を巡らせながら彩音は俯き――急に背筋が寒くなる感覚がして全身を硬直させた。





 目が、真っ黒な目が、こちらを見ている。


 背後から、私の背中に焼き付けるかのように、二つのまなこがこちらを見ている。


 大きな目が彩音の全身を絡め取るかのように視線をよこしている。全てを見透かされているような、同時に全てを包み込むかのような不気味な視線だ。


 強く覚えのあるその感覚に、彩音は嫌でも理解した。


 これは黒魔女――竜崎千鶴の視線だ。


 冷や汗が噴き出す。呼吸が浅く、速くなる。


 アイツが、竜崎千鶴が後ろにいる。


 どうして、なんで、アイツは死んだはずだ。


 視線の主は一歩一歩、こちらに歩みを進めてくる。指一本動かせないまま彩音はそれを待つしかない。彼女の吐息が近づき、肩に手が置かれ――






「彩音ちゃん?」


 振り返ったそこにいたのは、きょとんとした顔の涼子だった。


「どうしたの、顔真っ青だよ?」

「涼子……」


 彩音は固まっていた体を弛緩させ、大きく息を吐いた。


 大丈夫。ただの気のせいだ。そうだ、もしかしたらこの一ヶ月で二つも死体を見て、気が滅入っているのかもしれない。


「なんでもないわ」


 彩音はそう言うと少しふらつきながら小屋の出口へと歩いていった。


「ちょっと外の空気、吸ってくる」


 返事を待たずに小屋の外へと出た彩音は息を吐いて空を見上げた。鬱蒼と生い茂る木々に遮られて、夜空はあまり見ることができない。立ちこめる草の匂いと足元から響く虫の鳴き声だけが彩音の目の前には存在していた。


 千鶴の金、黒魔女会の裏切り者、ゆきの死。


 何か一つでも手がかりを見つけることができればいいのだが、何をどう調べたらいいのかすら彩音には分からなかった。


 彩音は振り返り、売春小屋を睨みつける。


 そうだ、この際だ。もう一度、ゆきの自殺現場を調べておくべきかもしれない。


 不意に思い立った彩音は小屋の端の狭い道を通って、小屋の裏へと回ることにした。


 ぶん、と一匹の蠅が視界を横切る。それを手で追い払い、彩音は息を吸い込む。かすかなアンモニア臭が鼻孔をくすぐる。彩音はひゅっと息を呑んだ。


 覚えのある匂いだ。つい二週間前にも嗅いだ匂いだ。彩音はほとんど駆け出すようにして歩みを進めた。小屋の角を曲がり、ゆきが死んでいた場所へと走り寄る。




 ぶらり、ぶらり。




 既視感が彩音を打ち据える。丈夫なロープを首に巻いた人間が、木の枝からぶら下がっている。


「水橋……」


 そこでは、共犯者のうちの一人、用務員の水橋が首を吊って死んでいた。





 同日、午後十一時。


 千鶴殺しの共犯者たちは小屋の裏に集まっていた。彼らの目の前には、脱力して木にぶら下がったままの水橋の死体がある。


「なんで水橋まで……」


 ぼんやりと呟かれた彩音の問いに答えられる者はいなかった。つい数時間前まで生きていた水橋には、自殺の兆候などどこにも見えなかったのだから当然だ。


「おい、足元のそれ、遺書じゃないか?」


 塩田の言葉に足元に目を落とすと、そこにはゆきの時と同様に二枚の紙が石で押さえられていた。


 遺書があるということはやはり自殺なのだろうか。彩音はそれを拾い上げ、中身を読み上げた。


「これ以上、千鶴殺しを隠しきれる気がしません。さようなら、ね……」


 一枚目に目を通し二枚目をめくったその時、彩音はヒッと悲鳴を上げて、その紙切れを取り落とした。


「ま、また魔法陣……」


 そこにはゆきの足元にもあったあの図形が描かれていた。


 ――火星の第三の魔法円。あの小学生が言っていたことが脳裏によぎる。


「きゃっ」


 傍らで小さな悲鳴が上がり、彩音は涼子の方を振り向いた。


「彩音ちゃん、それ……」


 涼子は震える指で、水橋の死体のそばを指さした。


 そこに落ちていたのは――引き裂かれた鶏の死体だった。首にはハサミが突き立てられ、これが人間に殺されたものだということを雄弁に語っている。


「こんな、鶏の死体なんて、どうしてここにあるの……」


 混乱しながらも彩音は一歩後ずさる。誰がこんなところに、何のために。


 ――まるで黒魔術の儀式のあとのような……。


 自分でしてしまった想像に、彩音はぶるりと体を震わせた。竜崎千鶴のあの真っ黒なまなこが背中に張り付いている気がする。あの泥のように纏わりつく視線がじっとこちらを見つめているような気がする。


「……とにかくこの死体も隠しちまおうぜ。ゆきみたいにさ」


 塩田のその言葉にはっと正気に戻った彩音は、ぶら下がる死体を見上げ、頷いた。




 ゆきの死体を投げ込んだ縦穴は売春小屋の裏手から五メートルほど下ったところにあった。なんとか今回も同じ穴を見つけることができ、水橋の死体を引きずってきた彩音たちは、ほっと息を吐く。


 一旦死体を地面に下ろし、穴の中を覗き込む。……予想通り、ゆきの死体は無惨な有様になっていた。


 穴の入り口には蠅が飛び交い、すえた匂いが辺りに立ちこめている。カラスにでも漁られたのかゆきの体はバラバラになっており、もはや原型を留めていなかった。


 彩音たちは再び水橋の死体を持ち上げると、勢いをつけてその穴の中へと死体を放り込んだ。


「せーのっ」


 ぐしゃり。


 何かにぶつかり潰れた音がして、死体は穴の底へと転がった。それをわざわざ確認する勇気は彩音にはなく、彼女はすぐに穴から遠ざかった。


「ね、ねえ、あの魔法陣と鶏の死骸、何だったのかな……」


 涼子に袖を引かれ、彩音は振り返る。涼子の問いに答えたのは彩音ではなく塩田だった。


「何って……遺書なんじゃないのか、やっぱり」


「でも二人とも同じ魔法陣を残してるんだよ。今回は鶏の死骸まで……。誰か他の人の仕業なんじゃ……」


「それって……二人は誰かに殺されたってこと?」


 言葉にしてしまった可能性に、彩音は身を震わせる。


 二人の不可解な死、魔法陣、鶏の死骸。そして、今もまだ背中に張り付いている気がする、竜崎千鶴の視線。


 彩音は震える両手を握りしめた。


「あの、さ」


 いつの間にか、からからになった喉から絞り出すように切り出す。視線を感じる。体の底から沸き上がってくる震えが止まらない。


「わ、笑わないでほしいんだけど」


 塩田と涼子はどこか怪訝そうな目で彩音を見た。彩音はそんな二人をちらりと見て、おそるおそる尋ねた。


「アイツの……黒魔女の呪い、ってことはないのよね?」


「はあ?」


 彩音の震える声に返されたのは、塩田の呆れかえった表情だった。彩音は塩田に言い募った。


「だ、だけどもう二人目よ! 自殺にしたって他殺にしたって、どうしてこんなものを残さなきゃいけないの!?」


「落ち着けよ彩音。お前は何か? 竜崎千鶴が生き返って事件を起こしているとでも言いたいのか?」


「それは……!」


 言葉に詰まる彩音を塩田はじっと見つめて、それから踵を返してどこかへと歩き始めた。


「じゃあ確かめにいこうぜ」


「……何を」


「決まってるだろ。竜崎千鶴の死体をだよ」






 足元からジイジイと虫の鳴き声が響いてくる。無言のまま、彩音たちは山道を歩いていく。


 雑草に覆われてほとんど見えなくなっている道を通って、三人は千鶴が転落した現場へと辿りつく。崖の縁に歩み寄り、恐る恐る覗き込んだ彩音たちはそこに広がっていた光景に体をこわばらせた。


「どうして……」


 そこには黒魔女の姿はどこにもなかった。


 野犬に死体が食い散らかされていたというわけではない。腐乱して溶けてしまったというわけでもない。


 竜崎千鶴はそこに『いなかった』。髪の毛一本も、セーラー服や靴といった衣服すらも残さずに竜崎千鶴は消えていた。


「黒魔女様」


 呆然としていた彩音たちの中から、涼子がぼんやりと呟く。彩音が涼子を振り返ると、彼女は怯えと興奮の入り交じった顔をしていた。


「黒魔女様が蘇ったんだよ!」

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