第五話 合同授業

 七月二十日、火曜日、海の日。


 彩音は、高校部と初等部の合同授業に参加していた。場所は初等部の家庭科室。内容は蚕蛾の糸取りだ。


 茹だるような暑さの中で鍋に湯を沸かし、繭を作った蚕を生きたまま熱湯に放り込む。残酷だとは思うが、それ以上の感傷は彩音には浮かんでこなかった。今の彩音にはそんなことに意識を割いている余裕は無かったのだ。


 家庭科室のドアの向こうには、刑事の古林が壁に背を預けて立っているのが窓越しに見える。彩音はその後頭部を一睨みすると、目の前の鍋へと視線を戻した。


 あの宣言通り古林は彩音にぴったりと張り付いていた。どこへ行くにも彩音の少し後ろをついてまわり、彩音が怪しい動きをしないか嗅ぎまわっている。


 ――これじゃあ千鶴の死体を隠しにいけないじゃない。


 舌打ちをしたい気分を押さえながら、彩音は沸騰するお湯を見つめた。ぐらぐらと泡立つお湯の中で真っ白な繭がまるで逃げ回るかのように踊っている。顎に汗が伝う。蒸気で貼りつく髪が鬱陶しい。一度差し水をし、また沸騰するのを待つ。そうしてからようやく繭をぬるま湯の中へと取り上げた。


 鍋から離れて汗を拭う。こんなに暑いのだから冷房の一つも入れればいいものを、何故かこの学校には全校舎に冷房が備え付けられていないのだ。


 ――伝統があると言えば聞こえはいいけど、ただのオンボロ校舎よこんなの。


 内心毒づきながら、彩音は鍋のお湯を捨てにいく涼子を見た。


 こんな暑さでは今頃、ゆきは無残な姿になっているだろう。肉が腐って、蠅が集って、蛆が湧いているに違いない。想像してしまったグロテスクな姿を、頭を振って追い出し、彩音は不機嫌そうに繭へと近づいた。


「彩音先輩、もう火を使う作業はおしまいですか?」


 そうやって声をかけてきたのは彩音と同じ班の小学生だった。名札には高梨雪斗と書いてある。背は平均的で眼鏡をかけている、ガリ勉の典型例のような少年だった。


「何か手伝えることはありますか?」


 ――鬱陶しい。

 目を輝かせて尋ねてくる雪斗に、彩音はうんざりした顔をしながら適当に返事をした。


「……涼子と一緒に繭の様子を見てきてちょうだい。繭がふやけたらもう勝手に糸を取っちゃって」

「分かりました。ほら、達也。お前も手伝えよ」

「う、うん」


 雪斗が達也と呼んだ少年――胸元に篠谷達也という名札をぶら下げた少年は頷くと、雪斗に従って涼子の方へと歩いていった。


 達也は雪斗に比べてかなり身長が低く、言われなければ小学三年生ぐらいにすら見える。その上肉付きも悪く、見るからに体育が苦手そうな少年だった。


 良い子ぶろうとするガリ勉に、何をするにも怯えたような仕草をする陰キャラ。どちらも彩音にとって嫌いなタイプだ。


「蚕っていうのは人の手によって作り出された品種でね、自然界では生きられないんだ。幼虫は外に置いても逃げ出そうとはせず、成虫も翅はあっても飛ぶことができない。人間が管理してやらないと生きてはいけない家畜なんだよ」


「雪斗くん、詳しいんだね」


「調べましたからね!」


 雪斗は堂々と胸を張る。その様子から人に媚びようとしているのが透けて見えて、彩音は舌打ちをしそうになった。


 涼子と小学生たちが繭から糸を取っていく。彩音はそんな三人を眺めながら、さりげなく教室の入り口に目をやった。そこにはやはり刑事が張り込んでいる。


 ――本当に息が詰まる。黒魔女がいなければこんなことにはならなかったのに。


 彩音はふと思い出してポケットの中に入れっぱなしになっていた一枚の紙を取り出した。奇妙な魔法陣の書かれたあの紙だ。他に何も描かれていないか何度も裏返し、彩音はその模様をじっと見つめる。


 この模様は一体何なのか。誰が何を考えてこんなものを置いたのか。せめてこの模様の意味さえ分かればこの事態も何とかなりそうなものを。


「ね、ねえ! それ、火星の第三の魔法円だよね!」


 突然かけられた声に彩音は頭を上げる。いつの間に糸を取り終わったのか、彩音の目の前には達也が立っていた。これまでの内気な様子はどこへやら、彩音の持つ紙を前に目を輝かせている。


 だがそんなことはどうでもいい。今こいつは何と言った。


「……待って、これが何だか分かるの!?」


 彩音の問いかけに達也は目を輝かせて答えた。


「『ソロモン王の鍵』に記された火星の第三の魔法円。戦争や不和、敵対心を引き起こす魔法円だよ。円の周囲に書かれているのは全能の神の名前で……」

「達也、お前またそんな話してるのか」


 呆れた様子で雪斗が歩み寄ってくる。雪斗は彩音を見上げて説明した。


「こいつオカルトが好きなんですよ。いつもノストラダムスの大予言がどうとかってうるさいんだ」


「ノ、ノストラダムスの大予言は当たるんだよ! 今年の七月に恐怖の大王が降りてくるんだ!」


「もう七月も終わるだろ」


「それでも降りてくるんだよ!」


 熱っぽく語る達也から目を逸らし、彩音は魔法陣をじっと見つめる。


 不和を引き起こすソロモンの魔法陣。これを置いた奴は私たちに仲違いをさせたかったの? でも何のために?


 考え込む彩音をよそに、達也の語調は徐々にヒートアップしていく。


「この魔法円を作るにはね、まず『詩編』の数節を唱えるんだよ。その後にこう唱えるんだ。『最も力あるアドナイよ、最も強きエルよ、最も神聖なアグラよ、最も正しきオンよ、最初と最後のアレフとタウよ。我々はいみじくも祈願します。あなたの神聖な威厳によってこれらの魔法円が聖別され、霊に対抗する徳と力を得ますように』ってね。そうすると魔法円にはどんな悪魔も従えられる力が備わるんだ!」


 熱っぽく語った達也は、そこで一度ため息を吐いて、しみじみと言った。


「あーあ、本物の魔女に会ってみたいなあ。きっとすごく綺麗な人なんだろうなあ」


 そこでようやく現実に意識を戻した彩音は、小さく吐き捨てた。


「……馬鹿馬鹿しい、本物の魔女がいるわけないじゃない」




「え? でも魔女はいるんでしょう?」




「は」


 妙に冴え冴えと響いた少年の言葉に、彩音は間抜けな声を上げて固まった。背の低い少年はこれまでの勢いやおどおどとした態度はどこへやら、落ちていきそうなほど真っ黒な瞳でじっと彩音を見上げてきた。


「お姉ちゃんが言ってたんだ。この学園には黒い魔女がいるって」


 一切の感情を消し去った顔で、篠谷達也は彩音を見た。彩音はまるで化け物の前に放り出された生け贄のような気分がして動けなくなった。


 これは誰だ。この目は誰の目だ。私はこの目を見たことがある。一体誰の――


 ――黒魔女?


 そんなわけはない。違う、そうじゃない、そんなことよりもっと重要なことがあるはずだ。そうだ、どうしてこいつが黒魔女のことを知っている。まさか黒魔女会の誰かが漏らしたのか。


 一瞬でからからに渇いた喉を唾で潤し、彩音は目の前の不気味な少年を睨みつけた。しかし、


「実習はこれでおしまいです! 小学生の皆さんは集合してくださーい!」


 彩音が疑問を口にする直前、教室中に引率の教師の声が響いた。


「ほら行くぞ、達也」

「うん、雪斗くん」


 小学生二人組は教師の指示に従って、彩音から離れていってしまう。


 追いかけて問いつめたい気持ちはあったが、刑事の見ている場所で呼び止めるわけにもいない。


 彩音はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。

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