第三話 蜂谷ゆきの死

 七月十八日、日曜日。


 日曜で学校が休みだとは言っても、当たり前だが寮の消灯時間は存在する。夜の七時半の消灯時間を間近に控え、彩音と涼子は食堂へと向かっていた。


「だ、大丈夫かな、彩音ちゃん」


「大丈夫よ。堂々としなさい、涼子」


 突き放すようにそう言いながら、彩音は食堂へと足を踏み入れる。それに続いて食堂に入ってきた涼子はおどおどと辺りを窺うと、彩音の後ろに隠れるように身を縮こまらせた。


 まったく、苛々する。


 常日頃から気弱な態度を取る涼子には苛々させられていたが、今日は殊更に気に障った。何しろ今日は千鶴殺しの一件がバレるかバレないかの勝負の日なのだ。今日ぐらい堂々としていられないのかこの役立たずは。


 涼子を一睨みし、彩音はつかつかと食堂の中を歩いていく。食券機前の黒板に書かれた『ハンバーグ定食』の文字の前を通り過ぎた辺りで、彩音はとある人物に呼び止められた。


「あ。彩音ちゃん」


 軽く手を上げて話しかけてきたのは、同じクラスの浜西藤花だ。藤花は彩音に顔を寄せると小声で囁いてきた。


「黒魔女様が行方不明だって聞いたけれど――今日も集会ってあるんだよね?」


 不安そうにこちらを見上げてくる視線に、彩音はごくりと唾を飲み下した。


 毎月奇数週の日曜日、深夜十時。黒魔女会の『魔女集会』は行われる。『魔女集会』には黒魔女会所属の魔女たちが参加する他、彼女たちの体目当ての男性も金を払ってやってくる。つまり『魔女集会』とは、二週間に一度の売春会のことなのだ。


「ええ、あるわ。千鶴はあれよ、ちょっと嫌なことがあって家出してるんだってさ。後のことは私たちが預かってるから、あんたたちは今まで通り好きなようにしてちょうだい」


「そっか! ありがとう、彩音ちゃん!」


 出来る限り平静を装っての返答に、藤花はホッと安心した顔をして、小走りで去っていった。きっと他の魔女たちに彩音の言葉を伝えに行ったのだろう。


 前回の『魔女集会』――千鶴が死んだ翌日の集会は有耶無耶のまま中止になった。疑問の声は上がったが、顧客の管理は塩田とゆきが、魔女の管理は彩音と涼子が任されていたため、なんとか誤魔化しきることができたのだ。


 だが、千鶴の死を隠し、黒魔女会の利益を得続けるためには、このままではいられない。


 食堂の丸机の一つに駆けていった藤花は、そこで待っていた友人たちに何事かを話しかけていた。丸机から小さな歓声が上がる。


「……フン、能天気なものね」


 バレれば人生が終わる犯罪に手を染めているというのにどうしてあそこまでお気楽でいられるのか。


 ――誰かがボロを出す前に一度引き締めておかないとね。


 彩音は魔女たちの机を軽く睨みつけると、青ざめた顔の涼子を伴って食堂の奥へと歩いていった。


 この学校は牢獄だ。厳しい門限で自由を奪い、勉強道具以外何も置けないほど狭い自室で気力を奪い、蚕蛾のように無抵抗になったところに勉強を詰め込んでいく。


 そのくせ大した進学実績もなく、就職実績もなく、ただただ隔離されているだけの名前だけの名門私立学校。


 皆、いつも通りに自主勉強をし、いつも通りに食堂に足を運び、いつも通りに黒板に書かれた土曜のメニュー、ハンバーグ定食を食べる。


 代わり映えのしない毎日。代わり映えのしない日常。その中で私たち黒魔女会だけが非日常を生きている。


 千鶴殺し、売春、莫大な金。――バレるわけにはいかない。この秘密を、この秘密が私たちにもたらす利益を逃すわけにはいかない。そのためには最善を尽くさなければ。


「あ……彩音ちゃん」


 夕食を睨みつけて考え込んでいた彩音に、不意に声がかけられる。涼子だ。


「何」


 不機嫌なのを隠そうともせずに彩音が答えると、涼子はおどおどとしながらも言葉を発した。


「私、今日は先に行ってるね。……いつも黒魔女様がやっていた準備の確認に行かなきゃ」


 言うが早いか涼子は立ち上がり、自分の食器を持って去っていった。どうやら既に食べ終わっていたらしい。


 ――なんだ、たまには気が利くじゃないの。


 少しだけ穏やかな気分になった彩音は、目の前に置かれた冷凍のハンバーグへと箸を差し入れた。





 午後九時三十分。毎回この時間に彩音たちは学生寮の裏口の前に集合し、魔女集会の会合場所へと向かう。


 集合時間になり、少し遅れて塩田がやってきたところで、用務員の水橋は何度か腕時計を見て疑問の声を上げた。


「塩田。ゆきはどうしたんだ?」


「さあ? 先に行ってるんじゃないのか? あいつ、合い鍵持ってるし」


 遅れてきたことを悪びれもせず塩田が答える。塩田の言う通り、ゆきは裏口の合い鍵を持っているので、先に行っていてもおかしくはない。しかし、どうして先に行く必要があるのか。


 いつもであれば連れ立ってやってくるはずの塩田に疑問を覚えながら裏口から外に出ると、そこには締め出された形で待ちぼうけを食っていた涼子が待っていた。


「ああ、涼子。今頃戻ってきたのね。随分と遅かったじゃない」


「う、うん、準備に手間取っちゃって」


 施錠時間前に外に出た涼子は、時間内に戻ってくることができずにこうして外で待っていたのだろう。気を利かそうとしたのだろうが、まったく鈍くさい奴だ。


 裏口を拳大の石で止め、水橋が開けた鍵はそのままにしておく。こうして裏口を開けておけば、参加する魔女たちは外に出られるという手はずなのだ。


「さあ、さっさと行きましょ。どうせゆきも向こうで待ってるわ」


「ああそうだな」


 開け放たれた裏口をそのままに、彩音たちは立ち入りが禁止されている山道へと足を踏み入れる。


 臥子学園の中学高校部はこの山の六合目ほどの位置にある。そこからもう少し山を登った場所、おおよそ八合目の位置にその山小屋はある。


 この学園の建つこの山は昔、鉱山だった。その名残が――小屋や縦穴が学園の敷地内には残されている。そのうちの一つが魔女集会の行われる山小屋だった。


 湿度の高いムッとした空気を吸い込みながら、彩音たちは階段を上っていく。裏山に立ち入るのは千鶴を殺したあの時以来だ。山小屋への道から一本逸れれば、すぐに千鶴の死体が残されているあの河原へと辿りついてしまうだろう。


 そのことをわざと考えないようにしながら彩音は足を動かし、十数分後、ようやく目的地へとたどり着いた。


 山小屋の入り口には蝋燭が立っていた。彩音が顎をしゃくって指示をすると、涼子が慌ててそれに火をつけた。


 ボッと音がして、それから辺りがほのかに照らされる。涼子が蝋燭の内の一本を持って小屋に入ると、部屋の中の様子が見えるようになった。


 小屋の中は荒れ果てていた。家具はことごとく朽ち、部屋の隅へとまとめられている。屋根の一部にも穴が開き、月明かりが静かに差し込んでいる。しかし、床だけは掃き清められ、一部にはブルーシートやカーペットも敷かれていた。


 これをやったのは先にやってきていた涼子だろう。


 しかし床の整備はいつも千鶴に指示された涼子がやっていたはずだったが、そんなに時間がかかるほど手間取るものだったのだろうか。


 そんな疑問が彩音の頭をかすめたが、続々と集まってくる魔女たちと顧客たちを見て、すぐにその疑問は意識から追い出されてしまった。





 午後十時。魔女集会、開始の時間。


 参加者たちは既に揃い、集会が始まるのを今か今かと待ちわびている。彩音と涼子は物陰に隠れて囁きあっていた。


「いい? あんたがどうしてもやりたいって言うから任せるけど、下手打つんじゃないわよ。千鶴の代理だって顔で堂々とやりなさい。分かったわね」


「うん、分かってるよ、彩音ちゃん」


 心なしか嬉しそうに涼子は頷いた。本当にのんきな奴だこいつは。


 涼子の頭には目元まで覆う形の真っ黒な帽子が被られていた。これはいつも魔女集会の時に千鶴が被っていたものだ。


 いつも誰かの顔色を窺って、誰かの機嫌を損ねないように必死になっているこの女が、一時とはいえ主役と言える場所に立てるのがきっと嬉しいのだろう。そんなことを考えている場合ではないのに。


 ――まあいいわ。これで、いざという時はこいつが主犯だということにできるんだもの。


 密かにほくそ笑む彩音をよそに、涼子は魔女たちの前に歩いていった。その足取りはどこか誇らしげにも見えて、本当にのんきな奴だと彩音はせせら笑う。


 そして作られた小さな段を上り、皆の前に立って、息を吸い込み――涼子は纏う雰囲気をがらりと変えた。


「ようこそ、親愛なる黒魔女の娘たち。そして醜悪なる欲望の悪魔たち」


 その声色は普段の涼子とは全く異なっていた。何にも恥じることはないと言わんばかりに堂々として、しかし決して快活な声ではなく、どこか纏わりつくかのような、絡め取られるようなそんな声だった。


 一瞬、涼子に竜崎千鶴が乗り移ったかのように見えて、彩音は目を見開いた。


「あなた方の血は既に汚れ、あなた方の肉は既に主のものではない」


 黒い布越しに涼子が辺りを見回す。優しく、宣告し、そうして迎え入れるかのようなその視線を受け、魔女たちがほうとため息を吐く。


 ――違う。こいつは千鶴じゃない。千鶴じゃないはずだ。


「邪悪なるものに足を広げ、二本角の悪魔と契約した背徳の子らよ」


 彩音は数度頭を振り、そうしてから魔女たちの方に向き直った。


 そこにあったのは馬鹿馬鹿しい儀式に心酔する少女たちの間抜け面だけだった。


 ――大丈夫、大丈夫だ、あいつは確かに死んだんだ。


「さあ、主の御名を汚す儀式を始めましょう」


 涼子の手元の蝋燭が顔の辺りまで持ち上げられ、フッと吹き消された。程なくして少女たちの楽しそうな囁き声と嬌声が響きはじめる。


 彩音はその様子を、少し離れた場所から眉をひそめて見つめていた。


 誘われるままリスクも知らず、考えなしに一時の快楽に溺れる彼女たちを、彩音は心底軽蔑していた。


 月明かりだけが照らすこの空間で、少女たちの白い肌が泥と欲望に汚されていく。熱を含んだ吐息が聞こえてくる。


 原則として避妊具をつけて行う決まりにはなっているが、この闇の中ではわざと避妊具を外して事に及ぶ輩もいるだろう。だというのにどうしてこうも無邪気にこの行為を楽しめるのか。


 ――馬鹿な金づるたちね。


 彩音は鼻を鳴らすと、帽子を外して戻ってきた涼子を振り返った。


「そういえば、ゆきは結局どこに行ったのかしら。あんた知らない?」


「う、ううん。私も見てないよ」


 おどおどと答える涼子には先程のような威圧感はなく、彩音は内心ホッと胸をなで下ろす。やっぱりあれは何かの見間違いだったのだ。


 と、その時、水橋が慌てた様子で彩音に駆け寄ってきた。


「彩音、大変だ……!」


「どうしたの」


「いいから来い!」


 ひそひそと囁きながらも強い口調でそう言われ、彩音と涼子は淫蕩にふける魔女たちを背に小屋の外へと出ていった。




 ぶらり、ぶらり。




 売春小屋のちょうど裏手にそれはあった。やけに眩しい月明かりに影を落としながら、全身を脱力させて、顔を俯かせて、




 ぶらり、ぶらり。




 首に巻いたロープを唯一の支えにして――蜂谷ゆきの体が枝にぶら下がっていた。

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