第二話 黒魔女

 梅雨明けの雨の残り香と泥の匂いが混じりあっている。鬱陶しい足元の雑草からはどこか甘い香りが立ち込め、その場にいる彼女たちをぼんやりとした膜で包んでいる。


 七月三日。益田彩音はぬかるむ地面を踏みしめながら、この場所――学園の裏山に呼び出した竜崎千鶴を見据えていた。


「どうしたのだい? こんな時間に呼びつけて」


「大した用事じゃないわ。すぐに終わるわよ」


 そう言って、彩音は口角を上げてみせる。しかし千鶴はそんな彩音の様子を意にも介さず、穏やかに笑うばかりだ。その笑顔が彩音は大嫌いだった。


 竜崎千鶴は『黒魔女』である。それはこの場にいる全員――今回の一件の共犯者である益田彩音、藤堂涼子、塩田隆弘、蜂谷ゆき、水橋健一郎の全員が知っている事実だ。何故なら彼女たちは皆、他ならぬ『黒魔女会』のメンバーであるからだ。


 この学校には『黒魔女会』という組織がある。『黒魔女会』は怪しい儀式を行っては男性を斡旋して性行為を行う――有体に言ってしまえば売春組織だ。その首魁である少女――竜崎千鶴は組織の名前から取って、『黒魔女』と呼ばれていた。


 竜崎千鶴は売春の報酬として莫大な利益を得ているはずだった。彼女が斡旋するのは地元の名士ばかり――つまり金持ちばかりなのだから当然だ。春を売った少女たちにもそれなりの金額は渡されていたが、竜崎千鶴はそれ以上の金を手に入れているはずだった。彩音たちが事を起こしたのはそのためだった。


「単刀直入に言うわ。千鶴、アンタ、『黒魔女会』で稼いだ金を私たちに渡しなさい」


 何を言われたのか分からなかったのか、千鶴は一度、その黒くて大きな目をきょとんと開いて彩音を見た。そうしてからゆっくりと笑みを深め、背中の後ろで手を組んでみせた。


「これはまた、大きく出たものだね」


 まるでため息のように吐き出された言葉に、彩音たちは怯んで口を閉ざす。その隙に付け入るように、千鶴はゆったりと言葉を続けた。


「私としてはどうでもいいことではあるのだが、ここは一応言っておこうか。――『この裏切り者め』」


 向けられた笑みにびくりと肩を震わせる。教師に静かに叱られたかのような感覚が全身を駆け抜け、足の指あたりから抜けていく。膝が震えてしまいそうになるのを堪えながら、彩音は共犯者たちと目配せをした。彼らも怯んではいるようだったが、彩音の言わんとするところを察して、千鶴を取り囲んだ。


「大人しく私たちの言う事を聞きなさい。さもないとアンタの悪行を世間に暴露するわ。アンタ一人だけが悪いって証拠はもうできてるのよ」


 いくら飄々とした態度を取っていてもコイツは自分と同じただの女子高生だ。そう言い聞かせながら彩音は千鶴に向かって一歩を踏み出した。


「困った。それは嫌だな」


 突然宙に向かって吐き出された言葉に彩音は思わず足を止める。千鶴はまだ彩音の二歩ほど先にいる。


「私はできるだけ長く続けたいんだ。この無意味で無価値な行為をね」


 怯む様子もなく、千鶴はその場でくるりと回ってみせた。何が楽しいのか今にも踊り出しそうな風に。


「心配しなくても、アンタは今まで通り売春のお仕事をしてればいいのよ。利益だけ私たちに貢いでくれればそれでいい」


「駄目だね。君たちはそのうち、会の活動内容にも口を出してくるようになるだろう。それが権力欲というものさ」


 ――そうすればすぐに『黒魔女会』は崩壊する。


 確信を持って千鶴はそう言った。そうしてからその場にいる全員を見回し、千鶴は声を張り上げた。


「君たちはそれでいいのかな? 君たちの求めているのは、より長く甘い汁を吸い続けることではないのかな?」


 その問いには誰も答えなかった。いや、答えられなかった。千鶴は満足そうに頷いた。


「異論はないようだね。いいことだ。今回のことは黒魔女の名において不問としよう。君たちへの報酬も少しだが上げようじゃないか。それで万事解決だ」


 千鶴は腕を広げて微笑んだ。この場にいる誰もが、千鶴の一挙一動に呑まれていた。これが黒魔女、竜崎千鶴なのだ。そんな千鶴を彩音は憎々しげに睨みつけていた。


「ふ、ふざけるなよ、竜崎!」


 彩音に代わって声を張り上げたのは顔色を変えて興奮した様子の塩田だった。きっと千鶴の指摘が図星だったのだろう。


「何を怒っているのだい、塩田?」


 そんな塩田を挑発するように千鶴は軽い調子で声をかけた。塩田は怒りに震えながら千鶴に歩み寄り、千鶴の胸ぐらを掴み上げた。


「あんまり調子に乗るんじゃねえぞ、お前がそうやってボス面していられるのは俺たちの協力のおかげだってことを忘れてるんじゃないだろうな!」


 そう、千鶴一人では『黒魔女会』はここまで巨大な組織にはならなかった。寮の外出時間外に出られるように用務員である水橋が手引きしなければ、自分とは学年の違う顧客を集めるために塩田やゆきが協力しなければ、『黒魔女会』はほんの数人が火遊びを楽しむだけの組織だっただろう。


 彩音と涼子は新参だが、同学年の少女たちを『黒魔女会』に誘うのに一役買っている。そんな彼らが今以上の利益を求めるのは、当然の流れだった。


 しかし千鶴はそんな恩などなかったような顔で、塩田を見るのだ。


「ふふ、お前はそういう子だね。普段は澄ました顔をしている癖にいざ追い詰められると野蛮な本性が溢れ出す」


 ――おお、怖い。


 口元に笑みをたたえたままの千鶴にそう言われ、逆上したのだろう。塩田は千鶴の服から手を放し、彼女の顔を思い切り殴りつけた。


 殴られた勢いで千鶴はぬかるんだ地面へと倒れ込む。皺一つ無い千鶴の制服に泥が付着する。塩田はそんな千鶴に詰め寄ると、さらに彼女を蹴り飛ばした。身を丸めて咳をする千鶴の腹を何度も塩田は蹴りつける。その度に跳ね上がった泥が、千鶴の腹を、顔を、汚していった。


「おいお前らも殴っとけよ」


 沈黙する周囲に向かって塩田は言う。


「こいつはこうやって一度痛い目に遭っとくべきなんだよ」


 それもそうだ。言って分からないのなら、力で無理矢理に従えてしまえばいい。


 彩音たちは目配せをすると倒れ込む千鶴に歩み寄り、足を振り上げた。


 何度も、何度も、悪意を持った靴裏が、千鶴の上に降り注いでいく。あんなに超然としていた千鶴のセーラー服がぐちゃぐちゃになっていく。それでも千鶴は悲鳴も上げなければ、暴力を拒否する仕草すら見せようとはしなかった。それどころか、口の端を吊り上げてニイと笑っているのだ。


 加害者一味の中で唯一暴力に加わっていなかった涼子も、それを見て千鶴に近付いて足を振り上げた。それほどまでに千鶴のその笑みは腹立たしいものだった。


 暴力を振るい始めてからゆうに十分は経過したころ、興奮した様子だった塩田はようやく気が収まってきたのか、千鶴から離れていった。それにならって、他のメンバーたちも千鶴から離れていく。残された千鶴は地面に倒れたまま、死んだように動かなかった。


 乱れた頭髪、動かない体、ドロドロに踏み荒らされた制服。


 それを見てようやく彩音は、とんでもないことをしてしまったという気分に駆られたが、その恐怖を必死で押さえこんで千鶴に対して声を張り上げた。


「こ、これに懲りたら私たちには逆らわないことね!」


 震える声でそう宣言する。すると、それまでぴくりとも動かなかった千鶴は、まるで天から糸で吊り下げられているかのような奇妙な動きで、ゆらりと立ち上がってみせた。


「ふふ、ふふふ」


 その口元は弧を描き、その目は心底可笑しそうに細められている。彩音は背中に寒いものが走るのを感じ、一歩後ずさった。


「ああ、野蛮だね。野蛮で粗野で不躾で、非常に無様だ」


 一言一言を突き放すように、しかし愛おしむように丁寧に竜崎千鶴は口にしていく。千鶴はよろめきながらも両足で立つと、彩音たちに向かって両手を広げてみせた。


「だがそれでいいんだ。私はそんな君たちを許そう」


 まるで託宣であるかのような遥か高みからの言葉に、彩音たちは打ち震える。千鶴は愛おしげに目を細め、我が子に語りかけるように優しく言葉を発した。


「塩田、水橋」


 名前を呼ばれた二人が、細かく震えるのが彩音の視界の端に映る。


「今回の一件は、大方、君たちが言い出したことなのだろう?」


 千鶴の問いかけに塩田と水橋は硬直していた。千鶴は手首を裏返して彩音を指さした。


「その場にいた彩音が話に乗り、ゆきは彼氏の塩田に誘われた」


 言葉を繋げながら、千鶴は順々に指先を向けていく。


「そして、涼子くんは彩音に連れてこられた。違うかい?」


 最後に指を向けられた涼子は大げさに肩を震わせてそれを受け取った。それが千鶴の問いに対する答えも同然だった。


 何故そんなことが分かるのか。知るはずのない事実を見てきたかのように語る千鶴は、彩音の目にはまるで恐ろしい怪物のように映った。


 千鶴は肩をすくめて、小さく笑った。


「なに、ただの推測だよ。誰にだってできるさ」


 手品の種明かしでもするかのような口調で千鶴は言ってのける。


「だからそう、そんなに怯えないでおくれ」


 紅を引いたかのような真っ赤な唇からそんな言葉が囁かれる。きっと自分たちはこの魔女の言葉に貫かれて、あの上品な口で丸呑みにされているのだ。そんな突拍子もない想像をしてしまった自分を、彩音は激しく嫌悪した。


「私は君たちを許そう。君たちは黒魔女会に属する欲深い魔女と魔物たちだ」


 黒魔女は静かに宣言する。何者をも許す慈愛の表情で語りかける。


「欲のままに生き、倒錯的な感情に溺れ、無意味なことをしてまわる。それだけが私の――黒魔女の願いだよ、愛しい愛しい子供たち」


 ――そうすればきっと、とろけるように甘いごほうびをあげよう。


 誰も何も、答えられなかった。その瞬間、竜崎千鶴は確かに彼らの王だった。彼女の前では彼らは等しく無力であり、無意味であり、無価値であった。そんな彼らを見届けて、千鶴は満足そうに頷いた。


「それでは私はここで失礼するよ。君たちも早く寮に帰りなさい」


「ま、待ちなさい!」


 優雅に踵を返した千鶴の後を彩音は慌てて追いかけていく。そうして階段に足をかけていた千鶴の肩を思い切り掴んで振り向かせようとし――


「え?」


 後ろに引っ張られた千鶴の体は、勢い余って崖の方へとバランスを崩して――たたらを踏んだ足が偶然泥に滑って足元をなくし――悲鳴一つ上げないまま、千鶴の体は崖の下へと吸い込まれて――


 ぐしゃり。


 下方で嫌な音が響いた。


「黒魔女様!」


 そう叫んだのは誰だったのか。慌ててその場の全員が崖の下を覗き込む。崖の下には石だらけの静かな沢があった。清らかな水の流れるその沢の只中で、竜崎千鶴は仰向けに倒れていた。ぼんやりと間抜けな顔をしたまま、黒魔女は死んでいた。


 ――それが事の顛末だった。





 竜崎千鶴の死に顔は、今でも鮮明に思い出せる。生きているうちにはついにお目にかかれなかった無様で無防備な表情だった。あいつは今もあの場所で、あの顔のままでいるのだろう。彩音は細かく震える手を握りこんだ。


 その時、沈黙を破ったのは塩田だった。


「なに一緒にしてんだよ」


「そ、そうだ。殺したのは彩音、お前一人じゃないか」


 水橋もそれに同調して彩音を非難する。彩音はカッと頭に血がのぼる思いがして、二人に向かって叫んでいた。


「その前に殴ってたアンタたちも同罪よ! あいつの死体が見つかれば、靴跡でアンタたちも犯人だって分かるんだからね!」


 彩音の剣幕に塩田と水橋は気圧されたようだった。


「そもそもアンタたちが言い出さなければこんなことにはならなかったじゃないの! アンタたちが主犯よ、主犯!」


 彩音が指摘したのは、ある程度的を射ている事実だった。塩田と水橋は、ともに顔をしかめると、苦虫を噛み潰したかのような形相で彩音を睨みつけた。彩音はそのままの勢いで、黙りこくる涼子とゆきに顔を向けた。


「涼子、ゆき。なに自分は関係ありませんって顔してるの」


「わ、私は……」


「アンタたちも協力したんだから同罪よ。私を告発するんならアンタたちも道連れにするからね」


 彩音は二人をぎらりと睨みつける。涼子とゆきは彩音から目を逸らして距離を取った。


 それから数十秒、誰も何も言わなかった。怒り狂う彩音を中心に、互いが互いの内心を窺いあっていた。


 そのまま沈黙が続くかと思われたその時、顎に手を当てていた塩田がふと言葉を発した。


「……一個だけ確認しておきたいんだが」


 全員の視線が塩田に集まる。


「あいつが貯めこんだ黒魔女会の金はどこにあるんだ? 誰も知らないんだよな?」


 塩田は全員をぐるりと見回した。妙な仕草をしている人間はいない。どうやら本当に誰も金の在処は知らないようだ。


「千鶴が死んだんなら、あの金のことを知ってるのは俺たちだけだ」


 そこまで言って塩田はにやりと口角を吊り上げた。


「どうせだから頂いちまおうぜ。そうでなきゃ、あいつを殺した甲斐がない」


 彩音たちは互いに顔を見合わせた。


 それもその通りだ。人殺しまでしておいて、何の報酬もないのでは割に合わない。


 誰からも反論が出ないことを肯定の意と取った塩田は、全員に向かって宣言した。


「金を見つけたら、ここにいる全員で山分けだ。でなけりゃ抜け駆けしたそいつの犯行を警察にバラす。……いいな?」


 千鶴殺しの共犯者たちは神妙な顔でそれに頷いた。




 共犯者の一人、蜂谷ゆきが謎の死を遂げたのは、そのちょうど一週間後だった。

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