自分には向かない職業
えむ
自分には向かない職業
午後から降り始めた雨は、街を濡らし続けていた。
馴染みのバーのドアをくぐると、私はコートについた雨粒をさっと払い、カウンター席に腰掛けた。
店内は空調を効かせすぎて暑いほどだったので、コートを脱ぎ、横のスツールに投げ出した。
「いつもの」
「はいよ」
マスターは読んでいた新聞をたたみ、ソルティドッグを作ってくれた。
……事件後の一杯目はこれに限る。
探偵は涙を流せない。どんなときでも。
グラスの端に唇をつけ、味わいだけで泣いたふりをする。
チラリと店内を見渡す。
今夜の客は、手前のテーブル席にいた男、ひとりだけのようだ。
彼も濡れたコートを脱いでいる最中だった。
ちょうど私の直前に入った客らしい。
マスターに言う。
「空いてるね」
「褒め言葉だね」
これが2杯目の合図だ。
マスターはジントニックを無造作によこすと、また手元の新聞を広げて、言う。
「大変な事件だったみたいだな」
「そんなことない」
「ご謙遜を」
「人をひとり、死なせちまったしね」
「不可抗力だろ」
「死なせたくなかった」
「懺悔なら教会へ行ってくれよ」
「死んじまった男には、婚約者がいてね」
「ほぅ」
「彼女は事件に巻き込まれずに済んだ」
「そりゃ、不幸中の幸いじゃないか」
マスターは楽観主義者だ。だから私はどんな事件の後でもこの店に飲みに来るのかもしれない。
警察や事件の関係者ーーたいていは被害者の遺族だがーーには、事件解決後に何かあったらこの店に連絡をくれと言っておくことすらある。
私はジントニックを一口飲んだ。味がわからなかった。
飲み干したはずのソルティドッグが喉のあたりにせり上がってくる気がした。
そんな自分を誤魔化すわけじゃないが、マスターの持っている新聞を顎でしゃくって私は言った。
「しかし最近のブンヤは記事にするのが速いなぁ。彼女はその新聞で知ったはずだよ。フィアンセが死んだことを」
「でもまぁ、結果的にアレじゃないか、『死んじまった男』って言ったって、奴ははんに……」
「誰だろうと関係ない。だから『大変な事件』なんかじゃないんだ。私が『大変にしちまった事件』ってだけだ」
「理屈っぽいのは変わんないねぇ……」
私は再びジントニックに口をつけた。やけに苦かった。
ガランガラン!
ドアのカウベルが、痛々しいほどに鳴った。
ずぶ濡れの女が、肩で息をしていた。
女は、ナイフを持っていた。
ヒステリーを起こした女がよくやるように、ナイフを両手で、祈るようにしてぎゅっと持っている。
そして女は、
「探偵! あんたさえいなければ……あいつは! あいつは死なずに済んだのに!」
と叫ぶと、
店を入ってすぐのテーブル席にいた男に襲いかかった。
男はただ目を丸くするだけで身動きひとつとれなかった。
私はスツールにかけておいたコートを放り投げた。
コートは放物線を描き、女の頭からかぶさった。
「きゃああ! なによこれ!」
視界を失って、女は金切り声をあげた。
私は女の足を引っ掛け、床に倒すと、馬乗りになった。
ナイフを蹴り飛ばし腕をひねり上げる。
「お見事」
マスターがつぶやいた。
「ぎゃあああああ! 痛い痛い痛い! やめてぇぇ!」
金切り声は獣じみた声に変わった。
「命を狙うならターゲットを間違えないことだ」
私はそう言って捻り上げた手を緩めた。
女は息を切らしながら、
「え、な、なぜ……? アンタが、探偵……?」
警官隊が到着し、女をしょっぴいて行った。
隊の中に見知った顔がいた。
あまり見たくない顔だった。
ダミアン警部は笑顔なのかしかめつらなのかわからない表情で、
「事件があるとこにアンタがいるのか。アンタがいるとこに事件が起こるのか。どちらにせよ疫病神だな」
私の隣のカウンター席に座った。
「警部、何かお飲みに?」
「やめてくれよマスター。公務執行妨害だぞ」
「ご勘弁を」
ダミアン警部は、事情聴取を済ませ三杯め……マティーニを飲む私を見て、
「よく飲めるな。こんな事件の後に」
「こんなの、事件でもなんでもないわ」
警部と話すときはつい、いつもの自分に戻ってしまう。
探偵じゃない自分に。
そんな自分は……昔は嫌いだった。今は、わからない。どっちでもいい。
「……女には向かない職業、ってタイトルの推理小説があってな」
「探偵小説でしょ」
「どっちでもいいさ。……そう考えると、あんたには向いてる職業なのかもな」
「たまにはね。幸運がこっちを向くのよ」
今日は、「探偵は男だ」という思い込みが幸運だっただけだ。
ダミアン警部は背中を向け片手を上げて雨の中に消えていった。
外はすっかり闇に包まれていた。
自分には向かない職業 えむ @m-labo
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