第299話

 フィールド階層の夜明け。

 ゆっくりと空が白み始めている。

 それは全方位の空が下から次第に明るくなって、最後はこの階層の天空に該当する全体が昼の明るさにまで至るという流れだ。


 夜が明けていくその様子を、大きなパノラマ状の窓の縁に座ったフェルはじっと見ている。


「おはよう。早起きだね」

 背中の方からそんな声が掛けられた。

 フェルはゆっくりと首を巡らせて声の主のティリアを見た。

「おはようございます。なんか自然と目が覚めちゃって…」


 ティリアはフェルの隣に座って、夜明けの様子を共に眺め始めた。


「はい、温かいお茶をどうぞ…。朝方はここも外みたいに少し寒いのね」

 ティリアが出してくれた熱い紅茶が入っているカップを受け取ったフェルは、

「あ、この香り。私これ好きですよ」

 そう言って、ありがとうございますと呟きながらカップに口を寄せる。


 二人はそうやって、時折お茶を飲みながら静かに夜明けの様子を眺め続けた。


 少し経って空がすっかり青みを帯びてきた頃。

 ふと思い出したように「そう言えば…」とフェルは話し始めた。


「シュンが以前言ってました…」

「ん? 何を?」

「ダンジョンのフィールド階層が見せている空は、見る人の記憶を再現しているんじゃないかって」


 唐突な話に聞こえたティリアは、少し首を傾げて問い返す。

「そう…。シュンはどうしてそんな風に思ったんだろう。見えてる物は皆、同じはずなのにね」

「私もそう訊いたんです。そしたら、ダンジョンの空を見ていたら何故かニホンの空を思い出したんだそうです。子どもの頃のとても懐かしい思い出みたいで、忘れてしまっていたことを思い出させてくれたって」


「あー、そういうことなら分かる気がするわ。何となくだけど懐かしい気持ちになるのよね」

「そうですね…」


 横に居るフェルを見てティリアは微笑んだ。

「じゃあ、フェルにはどんな空に見えてる?」


 空を見ていたフェルは、そのまま少しだけ目を細めると、懐かしく大切な何かを思い出しているような。それでいて微かに寂しげな微笑みを見せた。

「冬の空です。山が雪で真っ白で、そして湖にも空の青さが映っています。スノーボードでニーナと競争した時のあの青空」

「そう。綺麗な所なんだね…。そこはフェルの思い出の場所?」

「はい…。大好きな人達に囲まれて、優しさをたくさん貰った私の生まれ故郷です」



 ◇◇◇



 朝の軽い体操や食事、そして身支度を済ませた一行は本来の活動を再開した。


 空中に真っ直ぐ水平に延びている橋は、途中で途切れているように約20メートル進んだ辺りから先は全てが無色透明になる魔法の帳に覆われていて、何も見えない。

 ガスラン達がオーク殲滅後すぐにたもとに近付いて詳しく調べた結果、その途切れているように見えている箇所の先にも橋はまだ続いていることが判明している。   セイシェリスは、オークの群れはこの橋を通ってシャフト内に現れたのだろうと結論付けた。


 一行は、その見えない橋を渡ろうとしている。

 偵察として先行するのはガスランとレヴァンテだ。

 橋のたもとに立ったガスランは隣のレヴァンテをチラッと見て、そして視線をまた橋に戻すとレヴァンテに話しかけた。

「昨日も思ったけど、なんとなくフェイリスの領域隠蔽に似てる気もする」

「似てはいますが、彼女のは動的隠蔽でこれは静的隠蔽です」


 静的領域隠蔽が発動時に領域を定めるとそれ以後変化しないのと違い、動的隠蔽は対象個々に定着したかのように動的に隠蔽され続けるものだ。フェイリスが使う領域隠蔽は言葉通りの領域全体の隠蔽に加えて、人間や生物などの動く対象には追随して効果を二重に維持し続ける作用があるダイナミックな領域隠蔽だということ。但し当然のように魔力消費は動的隠蔽の方がはるかに多い。


「その方がコストが掛からないからなのかな」

「そう思います。ただ、これに関しては大規模な隠蔽の為だからじゃないでしょうか。範囲が広く対象とすべきものの変動要素が少ないのであれば静的隠蔽の方が適していると思います」

「ということは、この先には何か大きなものが在る?」

「ですね。おそらく」


 このフィールド階層の存在を知るきっかけとなった最初に見つけた第10層のゲート広場からすぐの所にあった窓はフィールドの地表から約千メートルの高さだった。今彼らが居るこの窓と呼ぶには大きすぎる開放部分の高さはそれとほぼ同じ。

 そして、ここから見下ろすフィールドの地表部分については、エリーゼの探査でも特に異常は発見できていない。これまでのところ見える範囲に魔物などの反応は無く、何も無いようにしか見えないというのが彼女の弁。



 隠蔽が始まっている所まで橋の上を進んだガスランは、ガンドゥーリルを抜いた。もちろんこの隠蔽魔法を斬り裂く為だが、ガスランは違和感を感じて動きを止めた。


 すぐ後ろに続いているレヴァンテは、その様子に勘鋭く気が付いて言葉を掛ける。

「ガスランどうしました?」

「いや…、なんて言うか。ガンドゥーリルが止めとけと言ってる感じ」

「……それは力負けしそうだからですか? 力負けでしたよね。こういう時のシュンさんのいつもの言い方は」

「うん、それで合ってる。なんかダメっぽい」

「ではやめときましょう。反動でケガを負いかねません」

「セイシェリスさんに伝えとかないと」


 ガスランはそう言うと振り返って、たもとの所に居る自分達を見守っている仲間達へと大きく両手でバツ印を示した。そして続けて大きな声で言う。

「力負けしそうだから、斬れない」


 了解の意図のサインが示され、メガホン状の手を口元に当てたセイシェリスからの指示の声が届く。

「進むのに支障ないのなら少し様子を見てきてくれ」

 ガスランは分かったと言うように手を挙げてセイシェリスへコクコクと頷き、そしてレヴァンテにも深く頷いた。

「行ってみよう」

「了解です」


 透明で千メートル下が丸見えの所に足を踏み出すのは、慎重にならざるを得なかった。大丈夫だと思っていても足を踏み外して下に落ちてしまうかもしれないと身体が反応しそうになるのだ。

 しかし、ひとたび隠蔽の領域に入ってしまうと視界はガラリと180度変化した。

 橋が真っ直ぐ続いている先にはダンジョンの第10層内の通路を囲う壁と同じような壁が見えている。この視界が変化した位置からは50メートルほど先だ。

 そして橋の自分がやって来た方が今度は見えなくなり、皆が待っている所も何の変哲もないフィールド階層の高い壁が続いているようにしか見えない。


 つい何度も前と後ろを繰り返し見直してしまうガスランにレヴァンテが言う。

「後ろの、皆さんが居る大きな窓の所は幻影です。これまでは幻影の投影範囲内だったせいで見えなくて、範囲の外に出たから幻影が有効になってあんな風に何にも無いように見えているという感じですね」

「ここみたいな外やフィールドからは窓が無いように見せかけているってこと?」

「はい、多分そういう意図なのでしょう」


 ガスラン達は前の観察を続ける。

「あの壁に囲まれてる所は、宙に浮いてるように見える」

「下には支えてる物などは何もなさそうですし、私もそう見えます」


 前方に見えているのは、広く壁に囲まれた厚みがある円盤状の巨大な建造物だ。


「壁の所まで行ってみよう」

「はい、そうすればもう少し分かるかもしれません」



 そうしてやって来た橋の終点。

 この橋が繋がっている所は末広がりにそこまでの橋の幅の二倍程度の幅まで広がり、それがそのまま壁の切れ目と接続している。橋の手すりはそのまま壁と繋がっていて、その部分だけを見ると橋の手すりが壁の延長として作られたようにも感じる。


 橋の最後は、壁に囲まれた中に向かって数段の階段状の段差があった。


 その段差を降りた先には土の地面がある。

 そして、かなり前から見え始めていたこの壁に囲まれたなかには木が茂っていて、ガスランは、10層の部屋の一つがここにも在るような気がし始めている。


 ぐるっと見渡して判る、やはり外から見た印象通りにほぼ正円のここは広さで言うならば10層で見た他の部屋よりも広い。

「ガスラン、気が付いてますよね。魔物が居ます」

「うん、判ってる。これはトレント。近付かなければ大丈夫」


 ちょっとした街区内のような壁に囲まれたそれは宙に浮かぶ巨大な円形の箱庭のようだ。天井は無く、フィールド階層の天空を共有する形で空が広がっている。

 橋が接続した所は、その箱庭の厚みのちょうど半分ぐらいの辺り。

 土の表面は橋とほぼ同じ高さなので、敷き詰められた箱庭のその土の深さもそれなりにあるということだ。


 いったん戻ったガスラン達から説明を聞いた全員がそこまでやって来た。

「確かにトレント。結構たくさん居ますね。でも、これも亜種かな…、少し反応が小さい感じがします」

 これは驚きつつも探査をしたエリーゼの第一声。


 呆気に取られていたティリアは再起動するとすぐに口を開く。

「これって、空中庭園みたいなもの?」

「神が暮らすところにはあると言われている空中庭園?」

 シャーリーが少し否定的なニュアンスでそう応じた。

「魔物が居なければそう言ってもいいんだろうけど」

 クリスは魔物であるトレントの存在が気になっている。今居るメンバーではトレントを見たことが有るのはガスランとエリーゼとティリアぐらいだ。


「とは言え、他に呼びようもないわね。正確に言うなら空中階層魔物部屋みたいな感じだし、空中庭園でいいんじゃないかしら」

 セイシェリスのこの言葉で庭園呼び論争には一旦終止符が打たれた。


 目の前にはしばらく草だけのスペースがある。だがその先は密度の濃い草木の茂みが始まっていて、誘うように口を開いているのはエリーゼ達にしてみれば辺境でお馴染みのトレントの道。



 さて、他の皆の雑談のような会話には加わらなかった静かなフェルとウィルは何をしていたかと言うと、早速ガスランからトレント狩りのレクチャーを受けていた。


「その麻痺毒の棘がある枝は見れば判る?」

「他の枝と違って動きが速くて柔軟だから。あと、先が少し赤い色になってるからすぐに判る」

 フェルの問いにそう答えたガスランに今度はウィルが尋ねる。

「最初にそれを切り飛ばしてから焼いてしまうんだな」

「うん、ここで焼くのは止めといたほうがいいかもだけど、辺境ではそうした」

 そこで話を引き取るようにエリーゼが口を挟む。

「焼いてすぐに消せばいいと思うよ」

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