新しいマナーを採掘するために強制労働させられて、最終的に『徳利の注ぎ口を使ってはいけない』というクソマナーをぶっ壊す小説

@ibasym

【新しいマナーを採掘するために強制労働させられて、最終的に『徳利の注ぎ口を使ってはいけない』というクソマナーをぶっ壊す小説】

 痛みには強い方だと、普段から豪語していたけれど、流石にね、さすがに、不意を突いて警棒で頭を叩き抜かれたら、痛いし、失神もする。


 私は、就職活動をしていた。

 アパレル系のとある大手企業にエントリーを行い、アポイントメントを取り、面接までこぎ着け、その面接のために部屋に入ろうとしたとき、突然、後頭部を何らかの鈍器で強打されたのだった。

 私のしたノックの回数は、2回だった。


 目を覚ましたらとても狭い部屋にいた。

 縦に長い一畳半くらいの部屋で、三方は打ちっぱなしのコンクリート壁、残り一方には鉄格子。

 ……鉄格子?

 私は驚いた。

 鉄格子の反対の壁の上の方には二十センチ四方の採光用のはめ殺しの窓がある。すりガラスで外は見えそうにない。手を伸ばしたら枠には届きそうだが、届いた所で何もできなさそうだ。時間はわからないが、昼間ではあるようだ。

 まるで刑務所の独房じゃないか。いや、その独房なのかもしれない。

 しかし、これまでの人生で刑務所の独房に入ったことはないので、この部屋が刑務所の独房なのか留置場なのか拘置所なのか、テーマパークの監禁体験部屋なのかは全くわからない。

 今私が座っているのは白いパイプで部屋に固定された簡易なベッドの上。薄い敷布団と薄い掛け布団の間に私はいた。他のものに比べるとシーツだけは妙に清潔そうで、触ると糊でパリパリしていた。

 部屋の隅には、チョロチョロと水の流れ続けている和式のトイレと、近くにちり紙もあった。便器は黄ばんでいて、この部屋の歴代の住人の存在が急に感じられた。

 私はというと、いつの間にか服が着替えさせられていた。

 服を着替えさせられたということは、一度脱がされたということだ。鳥肌が立った。

 上下ともスウェットで、それはとても目立つ蛍光のオレンジ色をしていた。


 頭に痛みが走る。

 そうだ、私は鈍器で殴られて気を失ったはずだった。痛む部位を、おそるおそる触る。そこは「つむじ」がある場所で、たんこぶができていた。たんこぶなんてできるのは小学三年生の頃に学校の鉄棒に額をぶつけて以来だ。まるでそこに極小の心臓があるかのような血液の脈動がある。久しぶりの感覚であった。幸い、と言っていいのかはわからないが、血は出ていないようだった。


 しかしどうしたことだろう。ここはどこなのだろうか。

 耳を澄ませていても聞こえるのは漂う空気の音と、電気設備の放つ低い音だけ。近くに人がいるかもよくわからない。

 鉄格子のあちら側に見えているのは廊下とその壁のみ。向かいには独房はない。隣にも同じような独房があるのかもしれないと思い、壁に耳を付けてみるが、コンクリートの冷たい感触があるのみ。


 もしや、と思い、立ち上がって鉄格子の出入り口部分を開こうと試みるが、当然のように開かない。


 大声で人を呼んでみようかと思ったが、なぜかそれは躊躇われた。

 本当は大声で、「誰か来てください!」と言いたかった。けれど何に由来するのかわからない抑圧によって、それは禁止されているように思えた。おそらくこの状況自体が文脈を持っていて、私に禁止を非明示的に知らせているのだった。この独房自体が「大声を出してはいけない」というメッセージに思えた。大声を出した罰が待っている予感があったのだ。


 自分自身なぜこの状況に順応しているのかわからないが、押しつぶしてくるような巨大な不安があると同時に、きっと自力では状況を好転できないという直感からくる無力感があった。

 この状況にあって、それらが私を落ち着かせていた。


---


 放送があった。

 鉄琴が音階を上げながら鳴り、

 「只今より、昼食の時間となります、収容者の方々は、食堂へ向かいましょう」

 という、女性のアナウンスが響く。放送の規模と建物の反響の仕方から、やはりここが大きめの施設であると、おおまかに推測する。


 重そうな金属製の閂が機械的にスライドする音とともに、鉄格子の一部が開く。

 これはきっと「ここから出なさい」のしるしだろう。

 扉のあちら側の床には、「足をここに置いて立ちなさい」とでも指定するように、足跡のマークがこちらを向いて描いてある。


 おそるおそる、鉄格子の扉から、一歩を踏み出す。

 いや、踏み出そうとした、そのとき、


 「アアアッ!!! ア……アアアアアアアッ!!! アアーーーーーーッ!!!!」


 という声を発した。

 私が。


 自覚するより先に声が出ていた。

 とてつもない痛みが、私の体を襲った。

 坐骨から眼窩の奥にかけての、脊髄と脳の一部が焼けるような、あるいは、麻酔も無く直接メスで背骨に沿って切り込みを入れられたような、鋭くひりつく痛み。


 気づくと私は独房に倒れ込んでいて、母親の胎内にいたときの体勢で強く拳を握り、涙を流していた。

 この痛みだけで死んでしまうのではないかと思った。

 陸上のハードル競技で倒れて腕を骨折したのが私の生きてきた中で一番の痛みだと思っていた。腫れていく患部を見ていて青ざめたが、それは痛みそのものよりも、自分の体が壊れてゆくことへの恐怖感であったし、痛覚としての痛みはそのあたりが上限だろうと思っていた。

 幼少の頃から、こけて血が出た程度では泣くことはなかったし、友人が膝から血が出て泣いていたのを見たときは心の中で馬鹿にもしていた。注射が怖いといった感想にだって同意をしたためしもない。痛みには強い方だと思いこんでいたのだ。「杏(あんず)が怪我で泣いたのを一度も見たことないわね」と、母親もよく言っていた。

 しかし、これは耐えられなかった。初めて感じた種類の痛さだった。

 面接室の前で何かの鈍器で強打されたのなど、児戯に等しかった。


 アナウンスがかかる。

 「オレンジ、マナー違反、ペナルティ、ワン」と女性の声。「敷居を踏むことはマナー違反です。今後、気をつけましょう」


 マナーだ? と私は思った。


 『マナー違反』だって?


 私は急に怖くなった。

 そう、恐怖をここで初めて感じた。

 独房にいるという状況から、抑圧され管理されることの心地よさのようなものすら感じていた私だったが、それを初めて感じた。

 痛みそのものではなく、私の常識を破壊されたような響きを持っていたからだ。


 マナー違反という理由で、私にあれだけおぞましい痛みを与えた、という事実に。それは私の知りうる価値観ではない。


 私は涙で揺らぐ視界で、鉄格子の扉を見る。廊下と独房の床の高さは同じであったが、その二つは白線で分かたれていた。廊下側のリノリウムの緑の床と、こちら側の灰色のコンクリート。

 私は何の価値があるのかわからないその白い線を踏んだかどでこのような理不尽な目にあわされたのだった。


 立ち上がろうとすると、既に痛みは引いていた。

 それも、あとを引くこと無く完全に。

 付け加えて、私はその痛みを、今味わったばかりの痛みを、もう覚えてはいなかった。強烈な痛みを感じた、という記述可能な事実だけが私の記憶に残り、痛みそのものはもう既に思い出せなくなっていた。こんなのは初めての経験だ。


 今度はその白い線を踏まないように、おそるおそる、跨いで、独房を出る。


 廊下に出たら、かすれた矢印が壁に見え、素っ気なく「食堂」とだけあった。ここには「作業所」もあるようで、それには食堂と反対向きの矢印が添えられていた。

 廊下を見渡すと同じような独房が並んでいた。

 自分の居たところもそのうちの一つだった。


 食堂の矢印に沿ってゆく。

 矢印に沿ったところで、一本道なので、道なりに廊下を進む以外になかった。やがて、両開きの鉄扉があり、それを開いた。小さな空間だった。上に監視カメラがある。意識していなかったが、これまでにも監視カメラがあったのではないか。二重扉になっていて、もう一度同じような扉を開いたら、食堂に出た。


 食堂は広いホールとなっていた。

 小学生に掛け算の勉強でもさせるのに丁度いいくらい、テーブルが整然と並んでいる。「長テーブルが、横に八つ、縦に十段並んでいます、テーブルはいくつあるでしょう」

 そのテーブルのそれぞれにきっかり八人が、四人ずつ向かい合って着席して、テーブルの上に並んだ昼食を、ナイフとフォークを使って黙々と食べている。

 クリーム色のプラスチック製の四角い食器は四つに緩やかに区切られ、それぞれの窪みに、茶色とピンクと黄色と薄緑のペースト状の何かが入っている。

 海外ドラマで見た刑務所の食事、経済番組で見た宇宙食、消化器官を患った患者のための流動食、といったものが連想された。しかし、そのいずれよりも味気なさそうな何かだ。フォークとナイフが必要か不明なしろものだった。


 「オレンジ、早急に着席して、昼食を摂りましょう」

 そういえばさっきも「オレンジ」と呼ばれた。私の名前はオレンジではないが、オレンジ色のスウェットを着させられていたので、その色を指して私を「オレンジ」と呼んでいると思いこんでいたが、おかしい事に気がついた。

 この食堂にいる全員が、私と同じようにオレンジ色のスウェットを着ているのだ。

 これではオレンジと呼びかけたら全員が呼ばれたと思うのではないだろうか。


 私は案内に従い、トレイを取り、その上に食器を載せた。食器には既に茶色ピンク黄色薄緑の四色のペースト状の何かが注入されて乗っていた。

 皆一様に黙って整然と食事をしているので、どこが空いているかはすぐに分かった。私自身がジグソーパズルの足りないピースであったかのように、その空いた席を埋めた。

 この食堂を見渡したが、全員女性のようであった。

 私たちは囚人なのか、何なのか、まだよくわからない。

 どう考えても、今、誰かに話しかけるのは愚策にしか思えない。

 先程不意に激痛を与えられたことを思えば尚更である。

 食事を始めようとしたが手を伸ばしかけて、はたと、手を止めてしまった。

 私は、テーブルマナーを知らない。

 トレーの左右にはプラスチック製のフォークとナイフ。

 それぞれが一本ずつ。

 以前ちらっと見たマナーの本ではナイフとフォークが三本くらい並んで、食べ物の手術でも行うのかと思ったものだが、今目の前にあるのは一対だけ。

 周囲をちらちら見ながら、同じように食べる。

 特に私の食べ方に問題は無かったようで、オレンジ、と呼ばれることは無かった。私は少しペースを上げ、食事を平らげた。茶色のものは初めて食べた味だったが、アメリカのドラマで見たことがあるやつだった。オートミールというやつだろうか。薄緑のものはほうれん草、ピンク色のものはコンビーフ、黄色のものにはマンゴーがそれぞれ少しずつ混じっている何かだった。私は味覚に自信がないので、おそらくそのようなものではないか、という程度の予想だ。


 鉄琴のチャイムが鳴る。

 「昼食の時間を終わります。一分間、各々の教義に従い、儀礼を行うことを認めます」というアナウンス。


 ここでようやく、アナウンス以外の人の声が聞こえる。

 殆どの人は、自分自身にむかってつぶやくように「ごちそうさま」と言っていたようだった、何人かは私の知らない何かしらの一節を長々とつぶやいて、手を儀式的に動かしていた。「いとまきまき、いとまきまき、ひいて、ひいて、とんとんとん」の手の動きと似ていた。


 皆、ごちそうさまの儀式が終わるとすぐに黙り、食器返却所に綺麗に列を成して、食器を返却し、食堂に入る時に来た扉へ向かい、各々の独房へと戻るのであった。

 そして私もそれに倣った。


 独房の鉄扉の前にある足跡マークの上に乗るようにアナウンスで指示され、そのとおりにする。

 皆が独房の前で起立した状態になると、独房の中に入ることを許可される。

 中に戻ると、自動で鉄格子の閂は閉まった。

 私は自分自身の足で独房に戻ってしまった。


---


 ベッドに横になろうとしたらすぐにチャイムが鳴った。

 鉄琴ではなく、小学校の頃に鳴っていたチャイム。ロンドンのビッグベンで鳴っている、『ウエストミンスターの鐘』だ。

 三十秒かけてそのチャイムは鳴り続けた後、何度か聞いた女性の声が響く。

 「これより、作業時間の開始となります。みなさん、頑張ってマナーを採掘しましょう」


 私の頭にクエスチョンマークが浮かんだ。

 「マナーを採掘する?」


 疑問を解消する暇もなく、再び鉄格子の扉が開いた。

 皆、廊下に出てくると、食堂とは逆の方向に進んでいく。

 私もそれに続いた。

 一言も喋らずに列する私たちの姿は、葬列というよりは黙した軍事パレードという方が近いかもしれない。その規律を乱してはならないという点で。

 とても静かで、ほとんど足音もきこえなかった。


 そして建物から外に出る。

 広がる光景を見、これは採掘場だ、と思った。

 いや、実際の採掘場というのを知らないので、私の記憶にある『採掘場』のイメージと変わらない採掘場だ。


 独房のあった建物のすぐ外に、採掘場はある。

 というよりも、採掘場の近くに私たちのいる施設は作られていた、が正しいのだろう。

 地面が掘削された際のがれきの山ができていた。その山は人の頭のサイズから拳サイズの様々の大きさの岩で構成されているのが見て取れる。高さは家の三階分に相当するだろう。近くにはプレハブの詰所があり、その隣に簡易トイレもある。

 大人が二人くらい入れるような壕がある。無数に。

 まるで地面にできた巨大なハチの巣だ。

 トイレの隣の道具置き場まで、行列は自然につながっている。つるはしや、シャベル、軍手、ヘルメットなど、各々の作業に必要な道具を取り出し、いずれかの穴の中へ入っていく。

 私はこの列に並んではいるが、どの道具を使っていいのかも、自分の持ち場があるのかもよくわからない。

 しかし、ここに現場監督のような人はいなかった。


 そのとき、タイミングよく放送が鳴り、

 「オレンジは、つるはしを取り、軍手とヘルメットを装着し、いずれかの適当な壕へ入り、作業を行いなさい」

 と、おそらく私を名指して、命令をくだした。

 私は、その放送をありがたいと思った。

 軍手、ヘルメットを取って装着し、つるはしを肩に載せた。


 そのときだった。


 「アアアッ!! グア……ッ! アアアアアアアアアア!!!!!」


 あの、この世のものとは思えない、熱した鉄を背骨に注ぎ込むような痛みが私を襲った。

 私は再び倒れ込み、涙と洟を垂れ流した。


 「オレンジ、マナー違反、ペナルティ、ワン。ツルハシの柄を肩に乗せるのはマナー違反です。鶴嘴は『ツルのクチバシ』、縁起がよい生き物を死体に見立てて肩に掲げるのは、マナー違反です。以後、注意しましょう」


 なんだそのマナーは? ツルハシを肩に掛けるとマナー違反だって? なんでそんな事で私はこんな痛みを味わう必要があるのだ? 意味がわからない。まるで意味がわからない。

 そもそもが、今なぜこんな所にいるのかすらわからないのだ。

 私は数秒間嗚咽しながら、なぜ自分がこんな目に合うのかを考えた。

 そうだきっと面接部屋で2回しかノックしなかったせいだ。部屋に入るときのノックは3回以上するのがマナーだ。2回だとトイレをノックしているのと同じと思われてしまう。それを私は、2回しかノックしなかったものだから、きっとこんなことになってしまったのだ。あのとききちんと、3回以上ノックしていれば。ああ。ああ。


 ヘルメットが何だ、軍手が何だ。あんな痛みがあるのなら、そんなものなくっても一緒じゃないか、と八つ当たりのような気持ちも湧いてきた。


 私は立ち上がり、涙の目を軍手の甲でこする。痛みはまた、完全に消えていた。一体自分が何に怯えていたのかと思うくらい清々しいくらいにさっぱりと失くなっていた。まただ。『痛かったこと』は覚えているのに、『痛さ』はもう記憶からはなかった。

 

 それにしてもあの痛みはどこから来ているのかがわからない。

 私の体(おそらく、脳ではないか)に何かが埋められていて、それが罰を与えるための痛みを発しているのではないか。

 多分そうだろうと思うが、その想像に対する答えは誰に訊けばいいかもわからない。 


 私が倒れたとき、他の囚人? たちは私に対してとても淡白だった。私に手を差し出す者や声を掛ける者はおろか、誰も私の方を見ようともしないで、無視を決め込んでいた。

 これは私をひどく落ち込ませた。

 別に助けてほしかったわけではない。

 助ける素振り、心配する素振りがほしかったのだ。

 しかし、彼女たちもまた私と同じように、罰が与えられるのかもしれない。そう考えるべきだろう。だとすればきっといずれ、私も彼女たちと同じように誰かの痛みを感じなくなっていくのかもしれない。私だって、あのような痛みをもう与えられたくはない。


 折りたたみの脚立を広げたようなはしごで、穴の底まで降りていった。

 自分の身長よりも少し深い。

 気のせいかもしれないが、穴の中は少し暖かいように感じた。

 

 各々が振るうツルハシやスコップの音が青い空に消えていく。

 そうだ、私は就職活動で面接をしに来ていたはずなのだ。何をしているんだろう。

 何をしているんだろう。


 カチーン


 私はこんなところで、何をしているんだ。


 カチーン


 こんなところで、こんなことをしている場合ではないだろう。


 カチーン


 でも、どうしようもないじゃあないか。


 カチーン


 私は、足元からせり出す、目立つ岩にめがけてつるはしを振り下ろす。自然の作った岩であることはわかるが、妙に人工的な曲線を感じる岩で、まるで巨大な動物の石像のようだった。巨大な石像のチワワのまぶたのような形状。打ち下ろしているとその下から本物の瞳が出てくるかもしれない。そんな。


 カチーン


 ああ……。

 

 カチーン


 何も……。


 やがて、ブザーが鳴り、休憩をはさみ、再びブザーとともに作業を再開させられた。


 いつの間にか空には夕日があり、今日の作業は終了となった。

 建物の別の入口にシャワー室があり、そこでシャワーを浴び、着替えをして、部屋に戻った。囚人たち(そうだ、もう『囚人』でよいだろう)はそれぞれの独房に、黙ったまま戻り、そのあとまたすぐ夕食に招集され、食事が終わるとまた独房へと戻る。

 就寝時間の旨のアナウンスが流れた。

 外からは虫の音が聞こえた。虫の音は自由だった。

 今や私は虫の音の中に自由という概念を見出していた。

 そして私の体は心よりも現実に忠実で、疲労はどんな睡眠導入剤よりも効いた。


---


 それからは、同じ日々を送り続けた。

 7時に起床し、食事をし、清掃をし(しかし清掃するような場所はない)、午前の作業がはじまり、13時から午後の作業、そして18時に夕食をしたら、あとはすぐに眠る。


 逃げられるとは思えなかった。

 どうにかして、ここから逃げようとは思った。

 ツルハシを巨大なチワワの目の岩にぶつけ、砕きながら、何度もプランを考えてみたが、そこから先、何も思い浮かばなかった。

 何をどうしても、あの痛みが、そう、忘れてしまったあの痛み。それがやってきて私を停止させるに決まっているのだ。

 それを思うと私の想像も濡れた紙テープのように途切れてしまう。

 逃げられないだろう。


 しかしひとつ、私は心に決めたことがあった。

 これは本当にささやかだが、私の抵抗だ。

 もし、新入りがやってきて、目の前で痛みで倒れるようなことがあれば、たとえ私も痛みに襲われようと、絶対に無視しない、手を伸ばす。

 私は決して完全に善良な人間だとは言えない。口が裂けても言えない。これまでにも色々と、人に言えないような恥ずかしいことをいろいろとしてきたし、多くの人を傷つけもした。カンダタがお釈迦様に蜘蛛の糸を垂らしてもらえたような、明確な善行もしたことはない。けれど、あの痛みを知っている人間が、その痛みで悶ている人間を見た時に、誰も手を差し伸べないなどという事があってはいけない。

 自分が良い人間だとは言わないが、それでも、あの痛みに寄り添うことは、私にとって自分が人間であるための最大の譲歩だ。

 だから、もしも次、誰かが痛みに苦しんでいたら、何もできないかもしれないが、必ず、手を伸ばす。

 それが私のささやかな決意だった。


 雨が振っても、同じ日常は続いた。

 採掘場の土地は水はけが悪く、用意されたポンプで水を排出しながらの作業をさせられる。


 暫くの期間、私は同じ穴を掘削し続けていたが、ある程度の深さになると、所内アナウンスで別の穴に移動して掘削をつづけるように指示された。掘る深さは決まっているようで、数日おきに穴は変更された。

 とうに巨大チワワのまぶた岩は壊してしまった。


 誰と会話ができるでもないし、軽い会釈やアイコンタクトも何かしらのマナーに抵触するらしく、それらもできなかった。一切のコミニュケーションを控えるしかなかった。

 ある程度、どういう人間がここにいるのかは覚えてきた。誰よりも早く列に並ぶ者、片目が義眼になっている者、最も背の高い者、意思疎通をはからずとも、目立つ者はすぐに覚えられたし、食堂も指定席でないにもかかわらず、指定席のようなものがあるみたいだった。一度縄張りと認識したところからはなかなか動けない。きっと皆そういう「さが」をもっているのだ。


 人間を『社会的動物』などと言うことがあるらしい。私も確かにその自覚はあったし、実際他人とのコミュニケーションをこれほど途絶えさせられたことも無かった。誰かと話をしたい、誰かに私の気持ちを聞いて欲しい、誰かの気持ちを私に打ち明けて欲しい。他者とのコミュニケーションをこれほどまでに渇望することがあっただろうか。


 初めうちはそのように思い、眠る前に泣くことがよくあったが、徐々に置かれた状況にも慣れてきた。


 結局のところ私は、誰かに認められたいという承認欲求の塊であることを自覚した。

 何より大きかったのは化粧ができなかったことだった。ここでは誰もがすっぴんで、食堂に会せば、歳をとれば皺が増えるという当たり前の事実を見せられてしまう。眉は好き放題伸びていくし、定期的に囚人同士で髪を相互に切る時間を設けられていた。「化粧ができない」、から「化粧をしなくていい」へと気持ちも変わっていく。ここでは誰かに認められるという事に何の価値もないのだった。

 私は、「人とコミュニケーションをとりたい」という欲求を持っていると思いこんでいたが、それは幻想だった。私の持っていた欲求は「誰かに認められたい」であった。そして、認められる必要というものはここにおいて、何一つなかった。ここにいる誰もが自由を奪われ、マナーの枷を嵌められていた。それはフェアであった。管理される人間に不公平感を持たせないことは人を治めるための手管の一つである。ここには公平感があった。もちろん、そんなのはまやかしの公平感に過ぎないことは重々に承知しつつも、公平である、と錯覚しようとする心の動きには抗えなかった。人の心は火に向かう虫のように自ずから騙されに行くのだ。

 シャワーの時に石鹸で髪を洗うしかないので、髪の毛はゴワゴワだった。しっとりと艶を持ち、肩まで伸びていた髪は私の小さな自慢でもあった。手で梳くと乾いた絹糸のようにほどける、柔らかく茶色がかった黒髪。

 もうここでは「自慢」が意味を成さない。誰も評価しないものに価値はない。

 手入れを諦めた私の髪は、きっと私そのものだった。


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 あるとき、マナーが採掘された。

 私はその光景を初めて見た。


 本当にマナーは採掘されるのだ、と、この時初めて実感した。


 間違えて水道管を砕いてしまったような音が続けて聞こえた。

 文字に書き起こすと、

 「カチーン! カチーン! カチーン! ブシュー!」

 といった感じか。

 何事かと思い、はしごを登り、壕から顔をだした。他の囚人たちも同じように顔を出している。

 私たちの穴の一つから、虹色の光が噴水のように空に向かって放たれていた。

 光は、私たちの瞳を通り、網膜に投影され、視神経を通り過ぎ、脳に直接何かを灼きつけた。物理的に情報を顔面に投げつけられたようだった。衝撃で頭から後ろ向きに倒れる。はしごから落ちて、穴の底に体を打ちつけた。

 穴の中に人が倒れ込む音がいくつも聞こえた。


 私の中には既に新しいマナーがあった。

 あの光を直視した者は、意識の回路の中に直接新しいマナーを書き込まれるのか?

 新しく得たマナーは、

 『エレベーターの中ででくしゃみをしたら左手を腰にあてて深々と頭を下げたあと、体を揺らしながらいつもより1オクターブ高い声で「もうしわけ〜」と言う(この際の「もうしわけ〜」はIKKOの「どんだけ~」と同じイントネーションであるべき)』

 というものだった。


 それは言葉で伝えられたものではない。

 あるのはマナーのイメージそのものだった。

 ハンドブックに書かれたマナーなぞは、洞窟に映る影に過ぎない。

 私はマナーのイデアを視ているのだ。

 目覚めた時に覚えている夢のように、それは既に私の頭の中にあった。

 

 「おめでとうございます。新しくマナーが採掘されました。みなさん、採掘されたマナーを祝福しましょう」

 と、放送があった。


 少しずつ、拍手が聞こえ始めた。

 それぞれの穴で、囚人たちが拍手をしているのだ。

 なんだこの異様な状況は、と思っていたら、あの激痛が私を襲った。


 「うっあああああッ……ああッ……アアアアアアアッ!!!!」


 私は穴の底でのたうち回った。

 背骨が引き抜かれたのかという痛み、痛い、痛い、いたい! いたい!!


 「オレンジ、マナー違反、ペナルティ、ワン。マナーが採掘された際に祝福の拍手を行わないのは、マナー違反です。今後、気をつけましょう」


 口角から垂れた涎に付いた砂粒をスウェットの袖で拭きながら立ち上がる。やはり痛みは既に引いている。

 動物のしつけのようなものだな、と自虐的に思った。

 しかし、考えてみれば、動物を躾けるのに痛みは必要なのだろうか?

 例えばしつけのために飼い犬が悪戯をした際に罰を与えるといったとき、叩いて痛みを与えることもあるだろうが、声を出して叱る(威嚇する)ことだってできる。

 動物相手にすら、痛み自体は必須ではない。

 なのに私たちは地獄の方がまだマシではないかという痛みを与えられている。

 さらに言えば、私が違反したのは「マナー」だ。

 法で規定されたものでもなければ、参画している共同体の中でのマナー違反に際し罰を受ける事について明示的に同意した覚えもない。

 面接室の前で鈍器で頭を殴られたときからしてそもそもがおかしいのだ。

 しかし、しかし、しかし、しかし、

 私はこの状況を好転させるアイディアが何一つ浮かばない。

 何かを考えさせる暇も与えないように私たちのスケジュールは管理されているのだ。

 次々とタスクを与え、体に疲労が溜まりきるタイミングで、休息を取らせ、起きたらまたタスクを与える。きっとこれは効果的に人間を管理する方法なのだ。


 私は立ち上がり、拍手の渦に参加する。

 私の祝福の音色は穴の外に響き、拍手の渦へと混ざってゆく。

 もうすでに噴水のような光は消えていた。

 マナーの光。


 「祝福は終わりましたか。みなさん、作業を再開しましょう」


 私たちは作業を再開した。

 私は大きなシャベルで足元を掘る。


 ザック


 この労働が、何もかもを諦めさせる。


 ザック


 私はもう、ここから出られないのだろうか。


 ザック


 ああ。


 ザック


 ああ……。


 ザック 


 何も……。


 ザック


 初めてマナーの採掘を目の当たりにしたこの日も、結局は沢山あるうちの、ただの一日にしか過ぎなかったように思えた。

 しかし、その翌日、新入りが来た。


---


 きっと彼女は夜の内に入所してきたのだろう。

 はじめて見かけたのは食堂だった。

 新入りは私と同じ背格好で、歳も私と同じくらい、二十歳前後に見えた。着ているオレンジ色のスウェットに殆ど皺はない。髪は陽の光を浴びるとその輝きを増幅して周囲を照らす。すれ違った時には良いにおいがする。

 久々に湧き上がる「羨ましい」という感情が、新鮮だった。そうだそうだ、羨望とは、こういうものだった。自分のまだ持っていないもの、かつて持っていたもの、けれど、今、いま、己の持っていないものを彼女は持つ。その持つ者に対して抱く劣等感。数日もすれば彼女も失うだろうが、かつて私も持っていたものを彼女が、いま、持っていることが羨ましい。

 あの輝く髪が欲しい。

 あのひび割れていない掌が欲しい。

 顔を背けるのではなく振り向かせる、あのにおいが欲しい。


 彼女は右も左もわからないようだった。痛むのだろうか、後頭部をしきりに抑えながら食事をしていた。


 こんなところに居て言いたい感想でもないが、初々しい、そう思った。


 羨望もあったが、危なっかしさもあった。

 見えない徴のようにそこここに刻印された無数のマナーが、彼女を待ち受けている。さながらマナーの蜘蛛の巣だ。これがビデオゲームであれば、ペナルティは残機が減るだけで済む。けれどここでは些細なミスで、いや、ミスでなくともマナーを知らないというだけの咎で地獄の痛みを味わうことになる。

 そわそわとする。気が気でない。

 あんな痛みを、味わってほしくない。

 彼女がどのようなマナー違反でここに送られてきたのかは知らないけれど、理不尽な痛みを受けるべきではない。


 私がここに来た時にも誰かがこのように私を見ていただろうか。

 私以外には新入りに視線を遣る人は誰もいなかった。


 新入りの存在は初心を思い出させた。

 モノクロになっていた私の感情に彩度が蘇りつつあった。


---


 その時が来たのは、午後の作業時間だった。


 この施設にいて、私以外の人間が、痛みのために倒れ込むのをはじめて見た。


 採掘場で、プレハブ横の道具置き場に皆で並んでいた。 

 私の3人前に、新入りはいた。

 興味を抑えきれないのか、そわそわと周囲を見渡していたが、列からはみ出し、作業用の穴を覗こうとしていた、そのときだった。


 「イイイイイイイイイアアアアアアアアッ!!! アアアアッ!!!!!!」

 

 という金切り声が聞こえた。それと共に、新入りはその場に倒れ、筋肉の収縮に従うように体を丸め、咽ぶ。

 私はそちらの方をずっと見ていた。

 他の人はだれも、見ようとすらしていない。

 無視を決め込んでいる。


 私は、ずっと抱いていたささやかな決意を覚えている。

 彼女が現れたことで、その決意も再燃していた。


 私は、彼女に、救いの手を差し伸べると決めたのだった。

 それを実行することが、私の、自分が自分であるための、人間であるための、最終防衛ラインなのだ。


 私もまた、列をはみ出て、倒れ込んだ彼女に近づいていく。


 そのとき、放送が聞こえた。


 「警告。オレンジ、他人の手助けをしないのが、マナーです。自分のことは自分でするように、自立心を持たせましょう」


 『警告』などというのは初めて聞いた。

 というか、新入りに対して、何に違反したのかアナウンスしていないのではないか?


 「最終警告です。オレンジ、他人の手助けをしないのが、マナーです」


 最終警告? 知ったことか。 痛みを与えるなら与えてくれたらいい。

 私は痛みを与えられようが、彼女に、手を差し伸べる。

 きっと私は痛みで動けなくなるだろう。

 しかし、知ったことか。

 マナー違反くらいで、どうしてこんな目に合う必要がある?

 こんな理不尽を味わう必要がある?


 「ねえ、あなた!」私は多分ここに来て初めて人に話しかけた。「さあ! 私の手をとって!」 

 

 叫び声が聞こえた。

 私のものではなかった。

 新入りの声でもない。


 叫び声が重なる。

 二重、三重に、更に叫び声は採掘場の空に響く。

 叫びが空を裂く。

 泣き声が、うめき声が、金切り声が、

 痛みに震えるあらゆる種類の声が渦となってこの採掘場に響く。

 振り向くと、私以外の全ての囚人たちが、うずくまっていた。

 痛みは、私と新入り以外の全ての囚人たちに等しく与えられた。


 「オレンジ、マナー違反、ペナルティ、ワン。他人の手助けしないのが、マナーです」

 

 いつものトーンでその声は私に言った。


 私は呆然と立ち尽くしていたが、急に力が抜けた。

 その場に座り込んでしまった。


 痛みから復帰して、涙をこすりながら最初に立ち上がった一人が、私の方を睨んだ。また一人、手をついて立ち上がり、私を冷たい目で一瞥した。他の者も同様であった。

 私はマナー違反を犯した。


 そうか、人のまなざしなのだ。

 人の眼差し。

 マナーの本質はそこにあったのだ。

 怖い。恐い。こわい。恐怖い。

 ひとのまなざし。

 これ以上にこわいものが他にあろうか。


 今やマナーは人の形をしていた。

 

 私の心はここで折れた。


 もう二度と誰かを助けようなんて思わない。絶対に。

 誰かに手を差し伸べるなど、自己満足でしかなかった、おこがましい行為だった。

 

 私の生き先の分水嶺はここだろうと思われた。

 私の「こちら側」は、きっと、もうどこにも行き場のない「こちら側」なのだ。

 

 ---


 また暫くの期間が経った。

 労働中に照らしてくる太陽の高さも、私がここに来た時よりも低くなってきた。

 私は知らないマナーについての違反で何度か罰を与えられた。

 そして何度か新しいマナーが噴出するのを目撃した。

 『クラシックコンサートで演奏中にくしゃみをしてしまったら「うおおおおお! ズンドコ! ズンドコ! これまた失礼〜!!」と言う』

 『食事中は眉を上下に動かしながらドヤ顔で箸の長さを褒める』

 『頭髪の薄さはあまり指摘してはならない(自身の頭髪の方が相手より薄い場合、差の分だけ相手の頭髪を引き抜いてよい)』

 といった新しいマナーだった。

 マナーが採掘されるたび、翌日に新入りが来た。


 私はもう新入りが来てもそれに興味を持てなかった。

 実際、どうでも良かった。

 私は新入りにとっての背景に成り下がった。

 たくさん居る黙った囚人の一人だ。

 新入りが倒れ込んで咽び泣いても、何一つ感情は動かなかった。

 私の心はもう瓶の中にある。

 誰かの痛みは誰かの痛みでしかない。

 私に痛みを与えるようであれば、そのときだけ睨んでやる。


 いつもぴったり満員になる食堂は、マナーが採掘された日は必ず一つの空席ができて、その翌日には最後の1ピースを当てはめるように新入りがやってきた。


---


 いくつか分かったことがあった。


 一つは、どうやらマナーを発掘した当人は、この施設から居なくなるようだ、ということだった。

 マナーが採掘された日の夕食時に一つの空席ができて、翌日にはそこを埋めるように新入りが来ることを考えれば、それが合理的な答えに思える。

 ただ、本当にマナーを掘り当てた本人が消えているのかは確認のしようがない。きっとそうだろうという予測にすぎない。

 マナーが見つかるときは必ず自分は他の壕の中にいるので、掘り当てた本人がその場で消えてしまうとしても、どのように消えるのか、どこに消えるのかは全くわからない。下手をすると死んでいるのかもしれないし、仮に死んでいたとしても、それはそれで幸福かもしれない。今の私たちは死んでるよりひどい。

 しかし、そうだとすると、少しだけ希望があった。

 マナーを掘り当てる事で、この状況から抜け出せるかもしれない、ということだ。


 分かったことのもう一つは、どうやらアナウンスは自分の脳に直接響いて聞こえているということだった。あたかも外部から聞こえるかのような定位で聞こえるように調整されているみたいだった。つまり、ここにいる囚人たちはそれぞれの頭の中でアナウンスを聴いているのだ。きっと全員『オレンジ』と呼ばれているのだろう。


 そのような私の推測以外にも、分かることがあった。


 アナウンスを注意深く聴いていると、時折、マナーや、この施設の情報を断片的に知ることができた。

 それらをつないでみて分かったのは、おおよそ次のような事だ。


 今いる施設以外にも、世界中にマナー採掘場はあって、私たちの採掘したマナーは新鮮な内に加工場へ送られ、完成したマナーは量産されると、アルファ・マナー・インフルエンサーの元へと届き、彼らはあっという間に世界中に新しいマナーを広める。定期的にマナー検定を行い、大衆の識マナー水準を引き上げる。日々マナーは更新されていく。マナーを知らない者はあっという間に社会の爪弾きにあう。明らかにマナーに対する意識が低い者の元には、マナー警察が現れる。警棒で頭を叩いて失神させ、マナー採掘場につれていく。(今私にしているように、だ)そしてマナーを採掘するという強制労働を通じ、マナーの素晴らしさを学んで改心させる、という流れとなっている。


 私たちが死ぬ思いをして採掘したマナーのうちの特に上質な部位はハイソサエティに供給される。上流階級の人々がお互いの品を格付けるための玩具にされてしまう。

 「外」があることを思い出すと、急に不公平感が顔を上げてくる。


---


<参考>


 加工場におけるマナーの加工は、たとえば次のように行われる。

 説明されても、大抵の人にはピンとこないだろう。

 私も理解はしたものの、いまいちよくわからない。


 (マナーは、先程挙げたマナーを例として挙げている)



■マナー加工開始


 【生マナー(raw manners)を準備する】


『クラシックコンサートで演奏中にくしゃみをしてしまったら「うおおおおお! ズンドコ! ズンドコ! これまた失礼〜!!」と言う』

 『食事中は眉を上下に動かしながらドヤ顔で箸の長さを褒める』

 『頭髪の薄さはあまり指摘してはならない(自身の頭髪の方が相手より薄い場合、差の分だけ相手の頭髪を引き抜いてよい)』


 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


 【マナー板前が生マナーをスライスする】


 『クラシックコンサート』『演奏中』『くしゃみをしてしまう』『「うおおおおお! ズンドコ! ズンドコ! これまた失礼〜!!」』『言う』

『食事中』『眉』『上下に動かす』『ドヤ顔』『箸の長さを褒める』

『頭髪の薄さ』『あまり指摘してはならない』『(自身の頭髪の方が相手より薄い場合、差の分だけ相手の頭髪を引き抜いてよい)』


 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


 【マナー鑑定士による、スライスされたマナーの選別】


『クラシックコンサート』『ドヤ顔』『上下に動かす』『箸の長さを褒める』『(自身の頭髪の方が相手より薄い場合、差の分だけ相手の頭髪を引き抜いてよい)』


 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


 【マナーモデラーによる、選別されたマナーの加工】


 『クラシックコンサートで箸の長さを褒めるときはドヤ顔を上下に動かす(自身の頭髪の方が相手より薄い場合、差の分だけ相手の頭髪を引き抜いてよい)』


■マナー加工終了


 もちろん、これはあくまでも例なので、全てがこのように行われる訳ではないけれど、おおまかにはこのように新しいマナーが作られると思ってよい。

 こんなもの知った所で何にもならないが。


<参考ここまで>


---


 特に何の前触れもなく、その日はきた。


 私は壕の底で、地面からせり出した赤ん坊の頭くらいの岩に向かって、ツルハシを振り下ろしていた。

 これまでに何万回、いや、何十万回と振ってきた。慣れたものだ。

 ツルハシの振り下ろし方一つにもコツというのがあることがよくわかった。

 今の私はおそらく、ツルハシの先端を数ミリ単位で精確に目的の場所に打ち込むことができる。

 何も考えないでツルハシを振るう。

 何も考えないでいると、作業はすぐに終わる。

 それがいい。

 何も考えないのが、いい。


 カチーン


 ……。


 カチーン


 ……。


 カチーン


 ……。


 カチーン


 ……。


 ブシュウウウウウウウウウウウウウ!!!!!!!


 幼児の頭部のような岩が砕け、そこからマナーが噴出した。


 光の大河に投げ込まれたような感覚だった。

 

 それはマナーの奔流だった。


 皮膚の肌理に、毛穴に、角膜に、口腔に、耳孔に、

 私の身体の隅々にマナーが絡みつく。


 私の肉体が、精神が、心が、魂が、全てが噴き出したマナーに洗われていく。


 私はマナーの全てを知る。


 そうだ、私は、マナーとともにあった。

 そしてマナーもまた私とともにある。

 今や私はマナーと一体であった。

 マナーは私であり、

 私がマナーであった。


 『扉を開ける前に2回以上ノックする』?

 『エレベーターでは目下の者が操作盤の前に立つ』?

 『書類に判を押す際は上司の方に名前を傾ける』?

 『ツルハシの柄を肩にかけてはならない』?


 こんなくだらないマナーなど、一時の気の迷いに過ぎない。

 はるか眼下に広がる地上で醜く蠢くマナーに過ぎない。


 マナーは容赦なく私の体を蝕んでいく。あるいは、浄化していく。



 私の目の裏で!!! 

  マナーが!!!

    虹色にチカチカチカチカと輝く!!!!


   これがマナーだ!! 

   これがマナーだ!! 


 マナーのイデアが歯を剥いて私の脳の前頭葉を噛み砕く。

  マナーはいきり立つペニスであった。

  マナーは貫くように私を犯す。

  マナーは私の膣を伝い子宮へと流れ込む。


 私の脳をマナーが侵す。

  マナーの知識が皮膚を伝う。


 頭の中で『クイーン』の『ボヘミアン・ラプソディ』が鳴り響く。

  白い光の一部が人間の形を成して動く

  「マナ〜!!!! ウウウウウ〜〜♪♪」


 マナーは私の脳のシナプスを手繰り寄せ、神経を無理矢理結線させる。

  私は古来からの人とマナーの歴史を記憶に焼き付けられた。


 太古の昔、マナーはひとつの命であった。

  かつて、マナーというものは、

   一度マナー違反をすれば、

    二度と取り返しのつかないものであった。


 人がマナーを自在に操り、

  マナーを使っていた時代があった。


 だがそれは、マナーの長い歴史に比べればほんの少し。

  砂時計を流れる砂の一粒くらいの時代、

   人はマナーを己の手足として使役していた。


 人はマナーを無尽蔵の礼儀資産だと思っていた。

  思い込んでいた。


 その時代はすぐに終わった。

  いつしか

   誰もが、マナーを守っているつもりで

    マナーに守られていて、

     同時にマナーに支配されていた。


 マナーの見てきた人間の歴史すべてが一度に私に流れ込む。

 私の魂はマナーで満たされた。

 食事のマナー、葬式のマナー、結婚式のマナー

 来客時のマナー、面接のマナー

 私の頭の帯域がマナーで氾濫し、輻輳する。


 私はマナーの全てを知る。私はマナーの全てを知る。私はマナーの全てを知る。私はマナーの全てを知る。

 これがマナーを掘り当てた対価なのか。 


 マナーは私の子宮に這入りこむ。

  マナーは私にマナーを受精させる。

   マナーは私に着床する。


 私の中にはマナーがあった。

  私の外にはマナーがあった。


 私はいつかマナーを産むだろう。


 原初、世界にはマナーがあった。 


 神が神話のヴェールを脱ぎ捨てた時代にも尚、マナーはその地位にあった。




 「目覚めよ!!!!!!!」




 あんず!! あんず!!

 マナーが私の名前を呼ぶ。


 杏! あんず! 杏! あんず!

 マナーが私の名前を叫ぶ。


 マナー ! マナー! マナー!! マナー!!

 わたしはどことも知れぬ何かの、

 呼んではいけない者の名前を呼ぶ。


 ずんあ!! ずんあ!!

 。く喚を前名の私がーナマ


 !!!ーナマ !!ーナマ !!ーマナ

 。るけ続び呼を名の者いなけいはてし出に口は私 


 私はマナーを呼び、マナーは私を呼び続ける。


 マナー! 杏! マナー! 杏!


 杏! マナー! 杏! マナー!


 !ーナマ !杏 !ーナマ !杏


 !杏 !ーナマ !杏 !ーナマ 



杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー

 杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー

杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー

ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏

 ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏

  ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏

  杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー

 杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー

杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー

ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏

 ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏

  ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏



 視界が歪んでゆく。

 世界が歪んでいく。

 いや、歪んでいたのは私の方かもしれない。


 とても静かな眠りについた。


---


 『めざめよ!!!』


 『めざめよ!!!!!!』


---


 何かの声がして、わたしは目覚めた。

 寝ていたわけではなかったが、とにかく目が醒めた。


 私は、扉の前に立っていた。


 ここはこれから私が面接を受けるための部屋だ。


 私はさっきまで、マナーを採掘していたのではなかったか。


 ここは、そして今は、

 マナー警察に警棒で頭を殴り抜かれる前だ。


 そう、私は今から扉を2回ノックして、後ろから殴られるのだ。


 後ろを振り向く。


 女が今まさに、黒い警棒を振り下ろそうとしてきたところだった。

 私は彼女の方に一歩踏み込み、振り下ろそうとする手をおさえる。

 何十万回もツルハシを振るってきたのだ。素人が警棒で振り下ろすのを力で押し止めるのは造作もない。

 その女はどことなく見覚えがあった。

 あの施設で私が助けようとした新入りの女と似ていた。

 似ているだけで別人かもしれないし、本人かもしれない。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。


 「後ろから警棒で襲いかかるのはマナー違反だよ」

 と私は言った。

 彼女は力なくその場でへたりこんだ。



 今までのことは夢だったのか?

 確かに私は、扉をノックして、この女に警棒で殴られ、その後何ヶ月もマナーを採掘するために強制労働させられていたはずだった。それがどうして今私はここにいるのだろう? 夢にしてはリアル過ぎる。白昼夢にしては長過ぎる。

 乾いた粘土のようになっていたはずの私の掌は、赤みを帯びた柔らかい皮膚で覆われているし、就活用の落ち着いたネイルも決まっている。髪はきれいに整っている。

 しかし、


  私にはもうこの世界が違って見えていた。


 それだけで、私が確かにマナーを採掘していた事を信じるには十分だ。

 

 そうだ、世界はマナーに満ちている。

  マナーが私に語りかけてくる。


 床「敷居をまたぐようにしようね!」

 扉「ぼくをノックするときは、2回以上だよ」

 扉のノブ「ノブを回すときは、油をさしてからだよ」

 千鳥のノブ「マナーのクセがすごい!」

 天井「天井を歩くときは忍び装束をちゃんと着ようね」

 腕時計「人前で腕時計を見るときには、2回咳払いをしてからだよ」


 私は鼻で笑う。


 「それがあんたたちの、『マナー』? 笑わせるわね。『高度に発達したマナーは創作マナーと見分けがつかない』とはよく言ったものだわ」


 マナーたちは驚愕する。


 「私に向かってなんだそのマナーは!!!!!」 


 私はマナーに向かって一喝してやる。

 かわいそうに、くだらないマナーたちは縮み上がってしまった。 



 私にはもうマナーは止まって見えた。

 私は止まったマナーの後ろに回り込んで裏からマナーを操ることすらできた。

 私がマナーであったばかりではない。

 私はマナーを超克しマナーを凌駕した何かとなった。

 私はマナーを産み、私がマナーを書き換える。



 ほとんど天啓にも近かった。

 不意に思い立った。


   そうだ、私は、この世界の全てのマナーを修正してやろう。

   私という存在が全てのマナーを過去のものにする。


 まずは手始めに面接のマナーを書き換えてやるか。


 コンコン、と面接室の扉をノックする。

 そうだ、2回だ。

 「どうぞ」と中から面接官の声がする。

 しかし、3回以上ノックしろってって言われたね。

 してやろうじゃない。


 これが私のマナーだッ!!!!!!!!

 『杏マナー! 千本ノック』!!!!!!!!!


 私の裏拳が面接室の扉を連打してゆく。


 コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン……ドゴンッ!!!!!


 扉はノック圧に耐えられずゥ、面接室の中に吹っ飛んだ。


 二人いた面接官が驚いた表情で、私の方を見ていた。

 「な、なんなんだ君は! 君は面接をしにきたんじゃないのか?」


 「『杏マナー! アイ!!!』」


 私の目ェからアンチマナーが照射される。洗剤を溶かした水に汚れた皿を入れたときのように、部屋中にあるマナーが浮き出る。

 口を開く。

 部屋を漂うマナーが全て私の口に吸い込まれ、それを私は呑み込む。


 「この部屋のマナーは、私が全てェ消し去った」


 赤いネクタイの面接官が私に言うゥ。

 「何を、わけのわからんことを言っておるんだ君……」


 青いネクタイの方が急にベルトを外し、スラックスを脱ぎ始める。


 赤いネクタイが驚いて「おい! 中山! なぜ急にズボンを脱ぐんだ!」と叫ぶ。


 「いや……ほんとやねん……別に標準語しゃべらんでもええし、面接中に急にズボンを脱いだらいけないっていうマナーも、なくなってるんやねん……」

 青いネクタイの、中山と呼ばれた面接官は、自分でも信じられないという顔で赤いネクタイの方を見返す。


 「なに……?」

 赤いネクタイの方もおもむろに上着を脱ぎ、ワイシャツを脱ぎ、どんどん服を脱いでゆく。

 「本当だ……。マナーが……なくなっている!」


 二人は解放された顔をしていた。蒼天を見上げるような、清々しさよ!

 そうだ。これが正しいあり方なのだ。

 元来、マナーは人に笑顔を与えるものだった。

 それがいつしか、人はマナーに振り回されていた。

 マナーを利用し、あまつさえ、腐ったマナーまで生み出し始めていた。人はマナーを振りかざし、誰かがその振りかざしたマナーの餌食になる。

 それは繰り返される人とマナーの歴史でもあった。


 その時、どこからともなく、ふわふわとした声が聞こえた。

 「やっと見つけたマナ〜」

 面接室を見回しても全裸の成人男性二人以外は見当たらない。

 すると、私の口から煙のように、マナーがモヤモヤと出てきて、目の前で像を結ぶ。それは徐々に境界を持ち始め、マナーの塊はクマのぬいぐるみのようなものへと変わった。

 そのクマのぬいぐるみは、重力の弱った大地に降りるようにゆっくりと床に着地すると、二本の足で立ち、さっきのふわふわとした声で私に言ってきた。

 「僕はマナーの世界からやってきたマナー王国の王子、サーディンオイリー2世マナ〜」

 「マナーの、世界?」

 何を言っているんだ、このぬいぐるみは?

 「今この星は、悪いマナーを広める秘密結社『マモーレ』に狙われているマナ〜。でも、そのマモーレの魔の手からこの世界を救うには、マナーを操る戦士のちからが必要だったマナ〜。そしてマナー戦士を探して世界を放浪していて疲れたので、有給休暇を取ってこの面接室で長い休眠を取っていたマナ〜。そうしたら急に僕をまるごと吸い込む奴が居てびっくりしたんだマナ〜」

 「マナーの世界の王子の仕事にも有給なんてあるのかァ」

 「あるマナ〜。

  だからぜひ君にこの星を救うためのマナー戦士『マナゾン』になって欲しいマナ〜」

 「お、ひどい名前ェだな」

 「マナーの世界では『マナゾン』は『有給休暇』を意味するマナ〜」

 「いい名前だァ。でも語感は気に食わないから後で名称は変更ォするぞ」

 「とにかくマナー戦士にはなってくれるマナ〜?」

 「なろう」

 私はマナゾンになることを即決した。ちょうどこの世界のくだらないマナーを一掃しようと思っていたところだし、渡りに船だったから。

 「私は、腐ったマナーを一掃するために、この世界のマナーを砕きたい、あんたは悪いマナーを広める秘密結社をぶっ壊したい。完全に利害は一致したわね」

 「そうと決まればここに拇印を押すマナ〜」

 そういうとマナー王国の王子とやらはどこからともなく和紙でできた血判状を取り出してきた。この世界を守るためにマナー戦士になることを誓うためのものだった。

 私は指の先をガリッと噛み、サーディンオイリー2世の血判の隣に、紅く滲む親指を押し付けた。


 「わたしィの名前は『鬼頭院あんず』! よろしくね! オイルサーディンちゃん」


 こうして、私はこの世界の腐ったマナーを私の作ったマナーに書き換える活動(マナ活)を始めたのであった。


---


 ーー今日もどこかで、誰かが

 悪いマナーを生み出し、

 誰かがそのマナーに悲しんでいる。


---


 居酒屋!! 

 それは現代を生きる労働者の慰安の場であり社交場であるッ!

 人々の明日への活力を充填するための慰安の場を乱す悪いマナーがあったッ!!!


 居酒屋の引き戸のマナーが私に語りかけてくるッ!


 引き戸『居酒屋の引き戸は静かに開けようね!』


 私はそのマナーを、ひと睨みして、黙らせる。

 ガラガラッ!!

 私はその居酒屋の扉を激しく音を立てて開けてやる。

 『居酒屋の引き戸は激しく開けよ』

 それが私のマナーだ。


 「こっちの方から腐れマナーのニオイがするマナ〜」


 オイルサーディンの指差す方を見ると、カウンター席に上司と部下と思われるサラリーマン二人連れが居た。若い方が徳利の日本酒を上司のお猪口に注ごうとしていた。


 「おいおいおいおい、ちょいと待ち給えよ」

 「えっ、なんかまずかったですかね……?」

 「徳利は注ぎ口を使わないのが、マナーだってのを知らんのかねチミぃ……」

 「えっ……注ぎ口を使わずにお酌する……?」


 私はつかつかとカウンターに向かい、上司っぽい男の横に座る。

 大将にハイボールを頼む。

 ポーチからピアニッシモを出して、一つ咥えると、火をつける。

 深く深く吸い、ほとんど透明な煙を男の方に向かって吐き出す。


 男は不審そうにこっちを振り向き、私が女だと視認するなり、鬼のような形相でこちらを睨み、立ち上がり、「何をするんだチミはぁ!!」と怒号を挙げる。


  私は男の身体を透かすようにその先の壁を見つめたまま、言う。


 「徳利がァあ、泣いてらァ……」


 「何を言ってるんだ! 人にタバコの煙を吹きかけるなんてマナー違反も甚だしい! 言語道断だよチミぃ!!!」

 「聞こえ無かッたのかィ? オジサンッ……!」私は立ち上がる。

 「!?」

 「さっきのマナー、もう一度言ってみなよゥ……オジサン……」

 「何だって!?」

 「徳利の注ぎ口がどうとか、言ってた、ネェ……」

 「徳利は注ぎ口を使わないのがマナーだってやつか!? そんなの常識だろ!」


 ピンッ、と咥えていた一本をつまんで男の顔にぶつける。


 「熱ぃっ! なんてことするんだ!!」


 「行くよッ! サーディン!」

 「あいよ、杏ッ!」


 「何だ……!? 光は……!?」 


 それは、マナーの力を宿した魔素、マナーマナの光。私の身体はマナーマナの光に包まれていく。

 私の身体を包み込み、キラキラと虹色に発光するマナー。マナーマナは自由に形を変えながら、マナーの力を帯びた戦闘着となって、私の身体へと蒸着する。光の中から、ビキニアーマー姿へと変身した私の姿があらわれる。


 「悪いマナーを根こそぎ殲滅!! パワフル浄化!!

 『作法魔素採掘戦士 マナーマナマイナー アンズ』!! 

  いまここに 見☆参!!」


 「なんだその変態みたいな格好は! なんでブラジャーの部分が手の形をしているんだ!! 破廉恥だぞチミぃ!! すぐにさっきのピッチリとしたリクルートスーツに戻しなさい!」


 「オジサン……間違ってるよゥ……アンタの "常識"……」


 「何も間違ってないぞ! マナーは大切だ! マナーを守るのが大人として当然! マナーは守らないといけないんだ!!」

 「間違ってんだよゥ……」


 そうだ、間違っているのだ。

 元来マナーは人と人の関わりを円滑にして、みんを笑顔にさせる潤滑油みたいな存在だったはずなんだ。

 それがどういうことだ?

 窮屈そうにしている後輩の姿は。

 マナーなんてのは力をもった者が言えば、それは無理強いだ。お仕着せだ。やがてはマナーそのものが強制力を持つようになる。あの収容所はまさにそれを私に教えてくれた。


 スパアァァァァァン!!!!!


 私は柏手を一つ打つ。

 打った両手の掌の内に、マナーを守ろうとして亡くなっていった世界中の人々の無念が際限なく湧き出てくる。


『電車の中では音漏れしないようにするのが、マナーだね』

『マナーを守るのって気持ちいいね』

『マナーを守って、レッツ入浴』

『おトイレは、つかったあとは、もとどおり』


 マナーを守りたい気持ちが、粘度を伴って私の掌の中で溢れそうになる。

 みんなの、マナーを守る気持ちが集まってくる。

 マナーは、マナーを守るために存在しているのではない。


 「お前たちのマナーはッッ!!

  腐った色をしているッ!!!!」


 誰かを悲しませるマナーなんて私が全て打ち砕く。

 みんなの、マナーを守りたいという気持ちを無駄にしたりしない。

 誰かが苦しんで守ったマナーを、

 誰かが泣きながら守ったマナーを、

 私が浄化して、正しいマナーに昇華させ、

 笑顔で守れるマナーにしてあげる!!!


 私の手の内にあった、みんなのマナーを守りたい無念は、マナーへと相転移する。マナーを守りたい気持ちがマナーを生み出していた。

 人の、人を思いやる心こそがマナーなのだ。

 今や私は無限のマナーマナを胸に抱いている。


「『杏マナー! アイ!!!』」

 私の目ェからアンチマナーが照射され、オジサンの心に巣食う、悪いマナーを守ろうとするいけない心が浮き彫りになる。中空に浮かぶオジサンのハートに照準を合わせる。

 思いやる人の心が美しいマナーになるなら、腐った人の心は腐ったマナーに、なるんだよゥ……。


 「今だ! あんず! やっちゃえマナ〜!!」

 オイルサーディンが火蓋を落とす。


 私の右腕に集まったマナーが螺旋を描き、腐ったマナーを貫く!


 パリィィィィィン!!!!!!


 オジサンの腐ったマナーハートが割れて、中から綺麗で小さなマナーハートが現れる。


 「これからはァ、私のマナーを、守るんだねィ……」


---


 ┏━━━━━┓

 ┃ 遵   ┃

 ┃     ┃ ドン!

 ┃     ┃

 ┗━━━━━┛

 ┏━━━━━┓

 ┃ 遵 守 ┃

 ┃     ┃ ドン!!

 ┃     ┃

 ┗━━━━━┛

 ┏━━━━━┓

 ┃ 遵 守 ┃

 ┃     ┃ ドン!!!

 ┃ 完   ┃

 ┗━━━━━┛

 ┏━━━━━┓

 ┃ 遵 守 ┃

 ┃     ┃ ドンッ!!!

 ┃ 完 了 ┃

 ┗━━━━━┛


---


 ーー今日もどこかで、誰かが

 悪いマナーを生み出し、

 誰かがそのマナーに悲しんでいる。


 ーーだから私は、

 今日もどこかで、

 悲しみのないマナーに書き換える。

 次に行くのは、あなたの職場かもしれない。



【作法魔素採掘戦士

  マナーマナマイナー アンズ

  (初めてのマナー武装編)】


<完>

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新しいマナーを採掘するために強制労働させられて、最終的に『徳利の注ぎ口を使ってはいけない』というクソマナーをぶっ壊す小説 @ibasym

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