第102話 ただの友人
その境遇が悲しいかと訊かれたら、正直よくわからない、というのがぼくの答えだ。イヴォンリーの孤児院で嫌なことがあった日などは、ぼくにも両親がいればこんなことには、と思ったりもしていたけれど、じつのところ、
こんなことを口にするぼくは、ひどく薄情なのかもしれない。でも、本当のことだから仕方ない。最初からいないも同然の存在を、どう恋しがれというのだろう?
ぼくにとっての母は、小さな額縁の中で微笑む水色のリボンの少女であり、そして父は、深い霧の向こうにたたずむ見知らぬ誰かのようだった。あの古びた革の手帳を開くまでは。
あの手記のおかげで、ぼくはようやく、ぼくの父を確かな存在として認識することができた。オリヴァ・クルスという、血と肉を備えた一人の人間として。確かにぼくの母を、ぼくを愛してくれた父親として。
父がぼくたちに会いたがっていたように、ぼくも父に会いたかった。手記を読み終えたぼくが最初に胸に抱いたのは、オリヴァ・クルスという名の青年への深い思慕と、それよりさらに深い喪失感だった。どんなに強く願っても、もうこの人に会うことは絶対にできない。そんな絶望と諦めを、ぼくは無抵抗に受け入れていたのだ。なのに、それなのに――
「ルカ」
黒い外套のその人は、もう一度ぼくの名を呼んだ。親しみをこめて。その名を口にするのが嬉しくてたまらないというように。
「ずっとおまえに会いたかったよ」
それはぼくも知っていた。だって、この人は小さな手帳に繰り返しその願いを
父さん、と。呼びかけた声は喉にからんで出てこなかった。代わりに隣からひび割れた声が聞こえた。オリヴァ、と呼びかけた先生の声が。
「どうして……」
「どうしてって、そりゃあきみ」
黒い外套につつまれた肩をひょいとすくめて、その人は言った。
「助けが必要だと思ったからだよ。昔馴染みと息子がそろって困っているのに、黙って見ていられるわけがないだろう?」
冗談めかした物言いは少しも押し付けがましいところがなく、相手をすんなり頷かせる気安さに満ちていた。そうか、それは助かるよ、なんて、思わず返してしまいたくなるような。
「ほら二人とも、早く行った行った」
朗らかな声が、ぼくと先生と促した。まるでピクニックにでも急き立てるような気楽な調子で。
「ぼやぼやしてると扉が閉まるぞ。ここはぼくに任せて……うん、この台詞、いちど言ってみたかったんだ。どうだい、なかなか格好いいだろう」
「オリヴァ」
陽気な父さんの声に、怖いくらい真剣な声が重なった。
「だめだ。それはだめだ、オリヴァ」
あのときの先生は、ぼくが知っている先生とは少し違う気配をまとっていたと思う。たぶん、ぼくの父さんの声を聞いたとき、その影を目にしたときに、先生の中の時間が巻き戻ったのだろう。ぼくのよく知るアーサー・シグマルディから、父の昔馴染みのチェンバース大尉どのに。
「残るのはわたしだ。今度こそ……」
「おいおいアーサー」
おどけた仕草で、父さんは両手をひろげた。
「それは命令かい? 悪いけど、ぼくはもうきみの言うことをきく立場じゃないんだよ。ぼくはもう、きみの部下じゃない」
隣で立ち上がった先生の、身体が強張る音が聞こえるようだった。二人のやりとりを聞いていただけのぼくだって、突き放したようなその物言いに、ひゅっと心が冷えたものだ。父が次に先生の名を呼ぶまでは。
「アーサー」
ぼくの名を呼んだときのように、オリヴァ・クルスは先生に呼びかけた。落ち着いた声音は、陽だまりみたいに温かかった。
「もういいんだよ。もう戦争は終わったんだ。とっくの昔にね。きみはもう、ぼくの上官じゃない。きみはただの――」
ほんの少し、本当にちょっとだけ、照れ隠しのような間を置いて、ぼくの父はその言葉を告げた。
「ぼくの友人だよ」
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