第102話 ただの友人

 以前まえにも話したことがあると思うけど、ぼくはこの世界に生まれるとほぼ同時に母を亡くした。父は、始めからいなかった。ぼくは狭い意味での孤児みなしごとして生まれ、八歳で祖母を見送ってからは正真正銘の孤児となった。


 その境遇が悲しいかと訊かれたら、正直よくわからない、というのがぼくの答えだ。イヴォンリーの孤児院で嫌なことがあった日などは、ぼくにも両親がいればこんなことには、と思ったりもしていたけれど、じつのところ、二親ふたおやというのが一体どんなものなのか、当時のぼくには上手く想像ができなかったのだ。


 こんなことを口にするぼくは、ひどく薄情なのかもしれない。でも、本当のことだから仕方ない。最初からいないも同然の存在を、どう恋しがれというのだろう?


 ぼくにとっての母は、小さな額縁の中で微笑む水色のリボンの少女であり、そして父は、深い霧の向こうにたたずむ見知らぬ誰かのようだった。あの古びた革の手帳を開くまでは。


 あの手記のおかげで、ぼくはようやく、ぼくの父を確かな存在として認識することができた。オリヴァ・クルスという、血と肉を備えた一人の人間として。確かにぼくの母を、ぼくを愛してくれた父親として。


 父がぼくたちに会いたがっていたように、ぼくも父に会いたかった。手記を読み終えたぼくが最初に胸に抱いたのは、オリヴァ・クルスという名の青年への深い思慕と、それよりさらに深い喪失感だった。どんなに強く願っても、もうこの人に会うことは絶対にできない。そんな絶望と諦めを、ぼくは無抵抗に受け入れていたのだ。なのに、それなのに――


「ルカ」


 黒い外套のその人は、もう一度ぼくの名を呼んだ。親しみをこめて。その名を口にするのが嬉しくてたまらないというように。


「ずっとおまえに会いたかったよ」


 それはぼくも知っていた。だって、この人は小さな手帳に繰り返しその願いをつづってくれていたから。


 父さん、と。呼びかけた声は喉にからんで出てこなかった。代わりに隣からひび割れた声が聞こえた。オリヴァ、と呼びかけた先生の声が。


「どうして……」

「どうしてって、そりゃあきみ」


 黒い外套につつまれた肩をひょいとすくめて、その人は言った。


「助けが必要だと思ったからだよ。昔馴染みと息子がそろって困っているのに、黙って見ていられるわけがないだろう?」


 冗談めかした物言いは少しも押し付けがましいところがなく、相手をすんなり頷かせる気安さに満ちていた。そうか、それは助かるよ、なんて、思わず返してしまいたくなるような。


「ほら二人とも、早く行った行った」


 朗らかな声が、ぼくと先生と促した。まるでピクニックにでも急き立てるような気楽な調子で。


「ぼやぼやしてると扉が閉まるぞ。ここはぼくに任せて……うん、この台詞、いちど言ってみたかったんだ。どうだい、なかなか格好いいだろう」

「オリヴァ」


 陽気な父さんの声に、怖いくらい真剣な声が重なった。


「だめだ。それはだめだ、オリヴァ」


 あのときの先生は、ぼくが知っている先生とは少し違う気配をまとっていたと思う。たぶん、ぼくの父さんの声を聞いたとき、その影を目にしたときに、先生の中の時間が巻き戻ったのだろう。ぼくのよく知るアーサー・シグマルディから、父の昔馴染みのチェンバース大尉どのに。


「残るのはわたしだ。今度こそ……」

「おいおいアーサー」


 おどけた仕草で、父さんは両手をひろげた。


「それは命令かい? 悪いけど、ぼくはもうきみの言うことをきく立場じゃないんだよ。ぼくはもう、きみの部下じゃない」


 隣で立ち上がった先生の、身体が強張る音が聞こえるようだった。二人のやりとりを聞いていただけのぼくだって、突き放したようなその物言いに、ひゅっと心が冷えたものだ。父が次に先生の名を呼ぶまでは。


「アーサー」


 ぼくの名を呼んだときのように、オリヴァ・クルスは先生に呼びかけた。落ち着いた声音は、陽だまりみたいに温かかった。


「もういいんだよ。もう戦争は終わったんだ。とっくの昔にね。きみはもう、ぼくの上官じゃない。きみはただの――」


 ほんの少し、本当にちょっとだけ、照れ隠しのような間を置いて、ぼくの父はその言葉を告げた。


「ぼくの友人だよ」


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