第101話 善き人、正しい人

 アーサー・シグマルディという人のことを、ぼくはこれまでずいぶん語ってきた。背が高くて格好良くて、ちょっぴり皮肉屋でわりといい加減で、人を驚かすこととけむに巻くことがとびきりうまい、当代一の幻術師。


 先生についてだったら、ぼくはいくらでも語ることができる。それこそ、帽子から鳩やらハンカチやらを取り出してみせる奇術師みたいにやすやすと、緻密なスケッチのごとく詳細に。


 だけど、あのときの先生の表情だけは、どんなに言葉を尽くしても伝えきることはできないだろう。あのとき、ぼくを見下ろす先生が、どんなにやさしい目をしていたかは。


「よくお聞き、ルカ君」


 ぼくの両肩に手をおき、先生は静かに告げた。


「きみに預ける鍵には、とても大きな力がある。これがあればどこへでも行ける。何だってできる。世界にただ一つの貴重な鍵だ。きみはとてもいい子だから」


 そこで反射的に首をふったぼくに、先生は小さな笑みをもらした。


「きっとその力をいことに使おうとするだろうね。かつては、わたしもそうありたいと願った。正しいことに使おうと思った。それがわたしの義務だと信じていた。その結果は、きみも知ってのとおりだ」


 ためらうような一呼吸の後、先生はその言葉を吐き出した。


「わたしは、友人をうしなった」


 ぼくは――そんな場合じゃないことはわかっていたが、嬉しかった。先生がぼくの父を、オリヴァ・クルスを友人と評してくれたことが、ぼくはすごく嬉しかったのだ。


「きみには同じ過ちを犯してほしくない。だからルカ君、きみは決して、この鍵を使ってはならない。わたしは、ひどく難しいことをきみに強いていると思う。力を持てば、それを使いたくなるものだ。見せびらかしたくなるし、他者を従わせたくなる。きみの取引相手になる人物がそうであるように」


 残念ながら、と先生は唇をゆがめた。


「彼は母親ほど抑えのきく男じゃない。手にした玩具おもちゃを使ってみたくてたまらないんだ。それがどんな事態を招こうとお構いなしにね。あの階層の人間にとっては、戦争すらもひとつの遊戯なんだよ」


 あのときの先生の話はいつも以上に抽象的だったが、ぼくは先生の言いたいことがおぼろげながら理解できた。ここに来る前、はからずも見聞きした先生とダリルさんの会話。その断片が頭に浮かぶ。


 戦争なんて絶対に起こさせない。あの場でダリルさんが断言したことを、ぼくは任されようとしている。


「だけどね、ルカ君。きみならその誘惑にも打ち克つことができるだろう」

「そんなの……」


 無理ですよ、と言いかけたぼくの機先を制して、先生はにこりと笑った。


「きみならできる。きみは賢くて勇敢な子だ。そうでなければ、こんなところまで来られないさ。まあ、いささか無鉄砲が過ぎるがね」


 それは先生のせいだろう。先生がいなければ、誰がこんなところへ飛び込んで来るものか。こんな、暗くて寒くて、わけのわからない――


 くん、と外套の裾が引かれた。何か、釘みたいなものに引っかかったみたいに。何気なく下を見たぼくは、その姿勢のまま凍りついた。


 ぼくの足元で、何かがうごめいている。黒い煙のような、とぐろを巻く蛇のような、ゆらゆら揺れる、いくつもの人の手。


 ひゅっとぼくの喉が鳴った。同時に先生が舌打ちをもらす。


「急ぎなさい」


 ぼくの肩を強く引き寄せ、先生は大股で歩きはじめた。淡い光のもれる扉のほうへ。


「……先生」


 引きずられるように歩きながら、ぼくは必死で先生を見上げた。恐怖でどうにかなりそうだった。足元から這い上がる、得体の知れないものへの恐怖。だけどそれ以上に、ぼくは先生がいなくなることが怖かった。


 扉が近づく。一歩ごとに別れが近づく。あの扉をくぐったら、先生とはもう二度と会えないだろう。今度こそ永遠に。


「大丈夫だよ、ルカ君」


 ぼくの恐怖を知ってか知らずか――いや、先生は絶対にわかっていた。わかった上で、先生は笑うのだ。いつも、いつだって。


「きみなら大丈夫だ」


 何が大丈夫だというのだろう。まったく先生は身勝手だ。勝手にいなくなって、こんなところでうずくまって。あげく、ぼくに全てを任せて突き返そうとしている。ぼくを、ぼくだけを、独りで。


「さあ、ルカ君」


 扉は、もうぼくの目の前にあった。先生がぼくの腕をつかんで扉の取っ手にそえる。金属のひやりとした感触が、ぼくをほんの少しだけ正気付かせた。


「先生」


 うん、とうなずく先生の顔は、もうぼやけてよく見えなかった。それでも、先生が微笑んでいることはわかった。どんなに暗くても、それくらいはわかる。その程度には一緒に過ごしてきたのだから。


 ありがとう、と。耳元で聞こえた気がした。ささやくような、かすかな声が。瞬間、ぼくの脳裏に黄金が走った。


 輝く蝶と極彩の鳥。炎と虹と金貨の雨。夏の陽光にきらめく湖面。昇りたての太陽と、翳りを帯びた黄昏の光。午後の陽射しをいっぱいに浴びて、長椅子でまどろむ先生の姿。


「先生」


 ぼくは腕にそえられた先生の手を振り払った。かけていた眼鏡をむしり取り、勢いよく放り投げる。


「ルカ君⁉」


 慌てふためいた声に、ぼくは胸がすっとした。ざまあみろだ。そうそう先生の思い通りにばかりなるものか!


「ぼくは嫌です」


 外套の裾がまた引っ張られる。怖気とともにぼくは外套を脱ぎ捨て、暗闇へ投げつけた。


「一人じゃ帰りません。ぼく、最初にそう言いましたよね?」


 迎えに来たと、何度言えばわかってくれるのだ。この忘れっぽい先生は。


 ルカ君、と先生は何度かつぶやいた。あとにつづく言葉が見つからないといったふうに。あんなに途方に暮れている先生を見るのは初めてで、それはまったくもって――


「いいざまじゃないか、アーサー」


 ぼくの思考に、陽気な声が割り込んできた。口笛でも吹くような、軽やかで心地よい低い声。


 はっとして声のしたほうを見ると、暗がりに誰かが立っていた。背が高く、ぼくの目線ではその顔立ちまで捉えることはできなかったが、痩身をつつむ外套は、ぼくがついさっき投げ捨てたものに違いなかった。


「やあ、ルカ」


 ぼくの横で、先生が崩れるように膝を折る。かすれた吐息のような声で、先生はその人に呼びかけた。オリヴァ、というその響きは、遠くの雷鳴のようにぼくの耳を震わせた。


「やっと会えたな」


 黒い外套をまとったその人は、ぼくと先生に片手を上げてみせた。




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