第100話 もう寒くは

 ぼくが差し出した手を、先生はじっと見つめ、それからつと視線を上げた。まぶしいものでも前にしたかのように、ほんの少し目を細めて。


「ありがとう」


 短い沈黙の後で、先生はそう言った。しばらく間を置いて、もう一度。ありがとう、ルカ君、と。


「きみはいい子だな」

「そりゃあ先生の弟子ですから」


 臆面もなく胸を張ったぼくに、先生はかるく目を見張り、次いでかすかな笑みを浮かべた。


 それは本当に久しぶりに見る先生の笑顔だった。あのときの先生は、ぼくがよく知る先生よりいくぶん年若かったけど、笑い方は同じだった。先生が笑う時にできる頬の縦じわが、ぼくはすごく好きだった。


「なるほど。さすがはわたしの弟子」


 二、三度うなずき、先生はおもむろに立ち上がった。


「きみのような弟子が持てて、わたしも鼻が高いよ」


 やった、とぼくの胸は躍った。これでもう大丈夫。先生はぼくと帰る気になってくれたんだと。そんな弾んだ気持ちも、長くは続かなかったのだけど。


「これを、ルカ君」


 先生は眼鏡をはずし、ぼくの手にのせた。


「きみに託そう。きみならきっとうまくやれる。わたしより、歴代のどんな“鍵番”より」


 ぼくは、先生が何を言っているのかわからなかった。手の中の眼鏡と先生を見比べるぼくに、先生は手ぶりで眼鏡をかけるよう指示した。


「ほら、ルカ君」


 あやつられるように眼鏡をかけたぼくの肩に、先生は片手をおき、もう片方の手でぼくの背後を指さした。


「あれだよ。見えるだろう」


 振り向いたぼくは、あっと目を見開いた。先生の眼鏡をかけた視界に映っていたのは、一枚の扉だった。何の変哲もない、木の扉。その扉の四隅から、淡い光が漏れ出ていた。何もかもが灰色にくすむ世界の中で、その光は素晴らしく美しく、まばゆく、温かだった。


「あそこから行きなさい。きみのいるべき場所に帰るんだ」


 とっさに振り向いたぼくに、先生は穏やかな、同時にこの上なく真剣な眼差しを返した。


「あの向こうで会う人物に、きみはおそらく取引を持ちかけられるだろう。きみはそれに応じないほうがいい。うなずけば、きっときみ自身をそこなうことになる。わたしのように」

「……先生」

「残念ながら、きみの取引相手になる御仁は、あまり物事を深く考える人間ではないようでね。根は善良なのかもしれないが、むやみに力を誇示したがる向きがある。そういうのが一番厄介なんだ」

「先生」

「相手はきみを懐柔しようとするだろう。あるいは脅しにかかるかもしれない。だけど何があろうと、きみが屈することはないと信じているよ。なにしろきみは……」

「先生!」


 たまりかねて、ぼくは叫んだ。さっきから先生の言うことの半分も理解できていなかった。先生が、大事な忠告を与えようとしてくれていることはわかったが、ぼくの関心はまったく別のところにあったのだ。


「先生は、どうするんですか」


 唇の端をゆがめた先生は、笑っているようにも、痛みをこらえているようにも見えた。


「先生は……」


 いつものぼくだったら、そこで口をつぐんでいただろう。それ以上は訊いてくれるなという先生の意図を察して、聞き分けよく引き下がったことだろう。でも、ぼくはもう物分かりのいい弟子ではいられなかった。そんな余裕も遠慮も、とうの昔にかなぐり捨てていたのだから。


「先生は、来ないんですか」

「悪いがね」


 肩をすくめた先生を、ぼくはきっとにらみつけた。


「だったら、ぼくも行きません」


 ルカ君、と。なだめるような呼びかけにも、ぼくは表情を緩めなかった。ちょっとでも気を抜けば、ぼくはきっと泣き出してしまっていただろうから。


「一人でなんて帰りません。先生も一緒じゃなきゃ駄目です。ぼくは先生を迎えにきたんです。先生を助けに……」

「助けなら、もうもらったよ」


 先生は静かにぼくの言葉をさえぎった。


「救われたんだ。本当に。もうわたしは寒くない」


 眼鏡の向こうで、先生はやわらかく微笑んだ。


「きみのおかげだ。ルカ君」



 

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