第103話 親離れの第一歩

 友人。ぼくの父がその言葉を口にしたとき、なぜだかぼくはひどく不思議な心地を覚えたものだ。うまく説明はできないけれど、たとえるなら、そう、思いがけない方向から鳥が飛んできたような、雨上がりの空からさっと一筋の光が差すような、そんなちょっとした驚きを。


「きみはぼくの友人だよ。少なくとも、ぼくはそう思っているんだけどね」


 父が繰り返した言葉を聞いて、ああそうか、とぼくは思った。ぼくの先生は、ぼくだけの先生じゃないんだな、と。


 何を言っているのかわからないって? そうだろうね。ぼく自身も、この心情をどう説明したものか、いまだに考えあぐねているところだ。ええと、つまり、それまでアーサー・シグマルディ、ないしアーサー・チェンバースという人は、どこまでいっても「ぼくの先生」だったわけだ。


 もちろん、先生が先生であるのは、あくまでぼくの目を通してそうだというだけで、他の誰かにはまったく違う存在なんだということはわかっていた。たとえばダリルさんにとっては同い年の従兄で、ヘレンさんにとっては幼馴染の上得意。キャリガン夫妻にとっては仕え甲斐のある雇い主で、パルモント劇場の人々にとっては腕のいい幻術師で、チェンバース卿にとっては、おそらくなかなか思い通りにならない一人息子。


 自分にとっての大事な人は、他の誰かにとっても大事な人で、だからその人は自分だけのものじゃなくて……んん、やっぱり難しいな。そんなことは当たり前だし、ぼくだってそれくらいわかっていた。いや、わかっていたつもりだった。いつも先生にくっついて、いろんな人に囲まれる先生を見てきたわけだし、ぼくの父が遺した手記にだって、ぼくの知らない先生がたくさん登場していたのだ。オリヴァ・クルスという青年の昔馴染みとして、上官として。そしてもちろん、友人として。


 だけどそのとき、ぼくの父が実際に声に出してそう呼びかけたとき、ぼくはようやく、本当にようやく、その「当たり前」を受け容れたのだ。頭じゃなくて身体で。水を飲むようにごく自然に。乱暴を承知で言ってしまえば、たぶんぼくは、そのとき初めて先生を一人の人間として見ることができるようになったのだと思う。ええ、これが親離れ? そういうことになるのかな。なんだかちょっと照れくさいね。


「その友人を、わたしは見捨てたんだ」


 冷え冷えとした声が、束の間の陽だまりを翳らせた。それは、とぼくが否定する前に、「よせよ」と暗闇から声が返ってきた。


「きみがやってくれたことは知ってるよ。ぼくらのために、ずいぶん頑張ってくれたじゃないか。まったく、きみは策士だな。本命との交渉前に、すっかり根回しを済ませておくなんてさ。議会を押さえられちゃ、あのお方もかなうまい」

「わたしの力じゃない。家名と金と……父の力だ」

「その親父さんに頭を下げてくれたのはきみだろう。きみがなりふり構わず駆けずり回ってくれたおかげで、あの丘に援軍が来た。ぼくらの仲間が大勢助かった。誇れよ、アーサー。きみはぼくらの英雄……」

「ちがう!」


 たたきつけるような叫びが、父の声をさえぎった。


「それは違う。わたしはきみを救えなかった……いや、見殺しにした。最後の最後で……」


 後の方は言葉にならなかった。ぼくは、あんなに辛そうな先生を見たことがなかった。同時に、あんなに辛い思いをしたこともなかった。できれば二度と見たくない。大事な人が苦しむ姿なんて。


「そうだな」


 淡々とした肯定に、ぼくはぎくりとしてその人を見た。静かにたたずむその人の、黒い外套につつまれた肩は先ほどよりいくぶん落ちているように見えた。


「間に合わなかった。きみが力を尽くしてくれたのに、ぼくは迎えを待てなかった。おかげできみをずいぶん苦しめてしまったし、約束も守れなかった」


 ゆるゆると、首をふる気配が伝わってくる。


「ごめんな、アーサー」


 ため息とともに吐き出された謝罪につづいて、ルカ、とぼくの名を呼ぶ声がした。ルカ。それから、グレイス、と母の名を。


「もどれなくて、ごめん」


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