第91話 扉の向こう

 目を伏せるチェンバース卿を前にして、ぼくは立ち尽くすことしかできなかった。何か声をかけるべきだったかもしれないが、何を言ったところで、この老紳士にとってはわずらわしい以外の何物でもなかっただろう。かつてのぼくがそうだったように。


 息苦しい沈黙は、そう長くは続かなかった。屋敷のどこかで時計の鐘が鳴ったのだ。ボーンと一回、振り子時計の鐘の音が。低く尾を引くその音に、チェンバース卿は夢から醒めたように顔をあげ、机の上の呼び鈴に手をのばした。


「待ってください」


 とっさにぼくは声をあげた。


 それを鳴らされたら終わりだということはわかっていた。呼び鈴が鳴らされたら、きっとすぐに執事のグラハム氏がやってくる。そして今度こそ、ぼくはこの屋敷から追い出されるだろう。ぼくの背後で閉じた扉は、二度と開くことはないだろう。


「あなたの話はわかりました」

 

 ぼくは両の拳を握りしめ、チェンバース卿が口を開く前に急いで言葉を継いだ。


「もう先生のところへ送ってくれとは言いません。そのかわり――」


 その願いを口にするのは、かなりの勇気が必要だった。できればぼくはもう二度と、あそこへは行きたくなかったから。だけど、他に選べる手もなかった。祈るような気持ちをこめて、ぼくは最後のカードを切った。


「……馬鹿なことを」


 ぼくの願いを聞いたチェンバース卿の第一声がそれだった。


「そんなことをしてどうする」

「わかりません」


 正直な、今思えば馬鹿正直にもほどがある回答を、ぼくは胸を張って投げ返した。


「どうするかは、あとで考えます。だからお願いします。これさえ叶えてくれたら、ぼくはもうあなたのお邪魔になるようなことはしません。二度とここを訪ねませんし、あとは……」


 あとは何だと、焦りがぼくの喉をつまらせた。ぼくが持っているもの、ぼくが差し出せるものは何だ。古びた鞄を逆さにして、ポケットを全部ひっくり返せば、一つくらいは何かあるだろう。この人にうんと言わせる価値のある何かが。


「……家を」


 まったく情けないといったらなかったよ。結局のところ、ぼくが提示できるものといったら、先生が与えてくれたものしかなかったのだから。それでも、どんなに情けなくても、みっともなくても構わなかった。ちっぽけな矜持もろとも、ぼくはぼくの持ち物すべてを交渉のテーブルにぶちまけた。


「先生がぼくに家をくれました。グレンシャムの屋敷も。学校に行くお金も。それ、全部いりません。全部あなたにお返しします。だから、どうか」


 かたく目を閉じ、頭を下げて、ぼくは相手の返答を待った。しんと静まりかえった部屋の中で、ぼくの心臓だけがうるさいくらいに脈打っていた。


「……くだらんな」


 十秒か、せいぜい二十秒。短い沈黙の後にチェンバース卿は苦いつぶやきをもらした。


「じつにくだらん。そんなものでわたしが取引に応じると思ったか」


 絶望に平手打ちされて顔をあげたぼくに、「だが」とチェンバース卿は錐のような視線を突き刺した。


「これ以上おまえに騒ぎ立てられるのも我慢ならん」


 険しい表情のまま、チェンバース卿はぼくに人差し指を向けた。


「行け」


 指の先を追って振り向いたぼくの目に、書斎の扉が映った。この部屋に入るときにくぐった扉。はたから見たら何の変哲もない、ただの扉だ。だけど、この人はいま「行け」と言った。出て行けでも、帰れでもない、その言葉が意味することを、ぼくは直感で理解した。


「……ありがとうございます!」


 駆け出したぼくは扉の取っ手を握り、そこで振り返った。


「あの」


 あのとき、どうしてあんなことを言う気になったのかはわからない。あの人にとっても先生にとっても、まったく余計なお世話だったと思う。ただ何となく、あのまま立ち去る気にはなれなかったんだ。本当に、ただ何となく。


「今度、先生の舞台を観にきてください」


 ぼくたちが、先生が戻ったら。


 言うだけ言うと、ぼくは前を向いた。待っていても返事はなかっただろうから。


 扉を開けると、覚えのある感覚がぼくを包んだ。視界がゆがみ、空間がたわむ。目を閉じてそれをやり過ごし、ふたたび目を開けたとき、ぼくはぼくが望んだ場所にいた。


 冷たくよどんだ空気の中で、ぼくは大きく息を吐いた。目の前にあったのは大きな木製の振り子時計。クレイ館の、狂った時計だ。


 ボーン、と鐘が鳴った。同時に、二本の針が回転をはじめる。最初はゆっくり、徐々に速く。


 鐘が鳴る。針が走る。くすんだ金の文字盤が、ぼくには人の顔のように見えた。わらっている人の顔に。


 鍵を持って、先生は扉の向こうへ行った。だから誰も扉を開けることはできない。鍵のかかった扉を、外から開けることはできない。だったら――


 鐘が鳴る。わかってる、とぼくは時計をにらみつけた。


 だからここに来たんじゃないか。わかったから早く扉を開けろ。内側から扉を開けろ。あの時みたいに、ぼくを捕まえに来ればいい。今度は逃げない。抵抗もしない。早く、早く、ぼくを先生のところへ連れていけ!


 ――ボーン!


 ひときわ大きく鐘が鳴った。ぐん、と外套の裾が引っ張られる。誰かが、何かがぼくの足首をつかむ。腕に、腹に、胸に、首に、見えない手がからみつき、強い力でぼくを引きずり込む。


 ――あなたの前だったら、王宮の門はいつでも開いてよ。


 脳裏に黒いヴェールの貴婦人の姿が浮かぶ。あれはこういう意味だったのかな。そんな思いが頭をよぎったのを最後に、ぼくの意識は暗闇に落ちていった。


 

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