第90話 愚か者と臆病者

「無理だな」


 先生を迎えに行くというぼくの宣言に、チェンバース卿は無情な否定をたたきつけた。


「扉は開かん。おまえの望みが叶うことはない」

「なんでですか」


 かみつくように、ぼくは反論した。


「無理って、なんでそんなことが言えるんですか。以前まえはやったじゃないですか。ぼくを、あのおかしな部屋に送ったじゃないですか」


 ――もと“鍵番”でも、そのくらいのわざはまだ使えるのねえ。


 黒いヴェールの貴婦人、いまは亡きイザベラ女王の声が頭の中によみがえる。あの日、ぼくを奇妙な部屋へ送り込んだのは先代の“鍵番”。ぼくの前で黙然と座しているこの人だ。鍵なんて持っていなくても、この人が不思議な力を使えることをぼくは知っている。だからこそ、ぼくはここに来たんじゃないか。


「あの時と同じことをしてほしいだけです。ぼくを先生のところへ送ってください。それだけでいいんです。そうしたら、あとはぼくが……」


 そこでぼくは言葉を呑んだ。チェンバース卿が無言のまま、鋭い視線をぼくに突き刺したからだ。先生もそうだけど、あの人は鍵の力なんて無くとも十分に魔法使いを名乗れたと思う。ただの一言も発することなく、視線ひとつで相手の口を封じてしまえるのだから。


「おまえとアーサーはよく似ている」


 ぼくを黙らせておいてから、チェンバース卿は冷ややかな侮蔑を吐き出した。


「愚かで強情で、ひとの話を聞かんところが。忘れたというのなら、もう一度だけ言ってやろう。鍵を持って、あれは逃げた。果たすべき責務も義務もなげうち、恥知らずにも一人で逃げたのだ」

「だから、それは!」


 首をふって床を蹴りつけたぼくは、癇癪を起こした子どもそのものだった。


「違います。先生は逃げたんじゃありません。先生は、そんなつもりじゃ……」

「そうかもしれんな」


 思いがけない同意が、ぼくの激情に水をかけた。たかぶった気持ちをぶつける先を見失ったぼくの前で、チェンバース卿は淡々と言葉をつづけた。


「あるいはそうかもしれん。愚かなりに、あれにも考えがあったのかもしれん。あれは何も語らなかったが」


 やっぱり先生だな、と。ほんの少し冷えた頭の片隅でぼくはそう思った。本当に、先生はどこまでも先生だ。けっして無口でも無愛想でもないくせに、肝心なことはあまり話してくれない。笑顔でひとをけむに巻いて、軽やかに身をひるがえす。それは臆病だからだと先生は自嘲していた。自分は卑劣な臆病者だからと。


 先生の自己評価が正しいのかどうかは、ぼくにはわからなかった。正直に言ってしまうと、どうでもよかったんだ、そんなことは。ぼくはただ、いつものように肩をすくめたくなっただけだ。まったく、先生ときたら本当に面倒くさがりなんだから、と。


「あれが何を考えていたにせよ、それは問題ではない。起きたことは変わらない」


 机についた両肘に身を持たせかけるようにしているチェンバース卿は、先ほどより少し疲れているように――失礼な言い方を許してもらえれば、少しだけ老け込んだように見えた。


「鍵を持って、あれは扉の先へ行った。行って、内側から鍵をかけた。もはや誰も扉を開けることはできん。あれがどんな馬鹿げた考えをもっていたのか、それをただすことも叶わん。いいかげん理解しろ。誰も、あれを追いかけることはできないのだ」


 チェンバース卿が口を閉ざすと、重苦しい沈黙が書斎を支配した。自らつくりだした沈黙にされるように目を伏せた老紳士を見て、ぼくはようやく、本当にようやく理解した。この人も同じなのだと。


 その瞬間まで、ぼくはぼくだけが辛いのだと思い込んでいた。胸にぽっかり空いた大きな穴も、やり場のない怒りも、歯噛みするような後悔も何もかも、全部ぼくだけが抱えているものだと思っていた。だけど、それは間違いだった。置いていかれたのは、ぼくだけじゃなかった。


 黒い霧をまとっていないチェンバース卿の顔を、ぼくは初めて見たような気がした。深いしわの刻まれた眉間、形の良い鼻と、とがり気味のあご。先生とよく似たその面差しを。


 そこにいたのは、怖ろしくいとわしい魔法使いではなかった。肩を落とし、何かに耐えるように口を引き結んだその人は、息子をうしなった一人の父親だった。




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