第89話 師匠のそのまた
「申し訳ございません、旦那様。こちらの……」
ぼくのことを取りなそうとしてくれたグラハム氏を、チェンバース卿は首のひとふりで黙らせた。
「下がれ」
不快さのにじんだ声に、老執事は頭を垂れて退室した。一人残されたぼくの前で、チェンバース卿は机に両肘をつき、骨張った指にあごをのせた。
「あの」
用件を切り出す前に、これだけは、とぼくは焦って口を開いた。
「あの人は悪くありません。ぼくが無理にお願いして、それで……」
「黙れ」
ぴしゃりと音がしそうな強い口調で、チェンバース卿はぼくの言葉をさえぎった。ついさっき、グラハム氏に対してそうしたように。
「くだらん
かつてのように黒い霧こそまとっていなかったものの、ナイフの切っ先のような視線をくれるチェンバース卿は十分に怖ろしく、かつ威圧的だった。
「警告はしたはずだ」
すくみ上がるぼくに追い打ちをかけるように、チェンバース卿は言葉をつづけた。
「余計なことはするなと。本来なら、おまえのような者はとうに始末していたところだ。それを、あれに免じて放っておいてやったというのに、その恩も忘れてのこのこと顔を見せるとはな。答えろ。いったいどういう了見だ」
しゃんとしろ、とぼくは自分に言い聞かせた。ひるむな、踏みとどまれ。何のためにここまでやって来たんだ。キャリガン夫妻にさんざん心配をかけて、グラハム氏に迷惑をかけてまで。
だけど、悔しいかな、ぼくの喉は、舌は、まるでぼくの思い通りになってくれなかった。まったく情けないことに、あの時のぼくは完全にチェンバース卿の圧に屈してしまっていたのだ。
「対価が足りぬとでも言いにきたか? 欲の深いことだ。あれがそれなりの見返りはくれてやっただろうに、まだ不服というわけか」
その瞬間、ぼくを
「違います」
息がつまるような怒りにかられ、ぼくはほとんど叫ぶように答えた。いま思えば、あの時のぼくは、先生の弟子としては完全に落第生だった。チェンバース卿の見え透いた挑発に、うかうかと乗せられてしまったのだから。
たぶん先生だったら、どんなにきつい言葉にも慌てず動じず、即座に絶妙な切り返しをやってのけたに違いない。あくまで紳士的に、最後まで薄い笑みを絶やさずに。
まあでも、少しは大目に見てくれないかな。なんといっても当時のぼくは、まだたったの十二歳と数か月。ぼくの倍以上生きてきた先生と同じように振る舞えなくても仕方ないじゃないか。ましてや、先生のそのまた師匠にあたる――この言い方を先生はすごく嫌がっていたけど――チェンバース卿と対等に渡り合うなど、土台無理な話だったのだ。
「違います。そんなんじゃありません」
だけど、無理でも何でも、失礼しましたと引き下がるわけにもいかなかった。ぼくにはもう、この道しかなかったから。先生に喧嘩を売りにいく方法は、もうこれしか思いつかなかったから。
「扉を開けてください」
いどむように、ぼくは先代の鍵番に申し入れた。
「ぼくを、先生のところへ送ってください。先生は、ぼくが迎えに行きます」
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