第八章

第92話 不都合な沈黙

 最初に聴こえたのは、雨の音だった。


 窓をたたく、やさしい雨粒の音。もともと雨より晴れの日のほうが好きなぼくだけど、グラウベンに来てからは、雨もそう悪くないと思えるようになった。


 いまでも昨日のことのように思い出せる。冷たい雨の降りしきる午後、炎の踊る暖炉の前で、先生とチェスやカード遊びに興じたひと時を。お茶を片手にチェス盤とにらめっこをしていたぼくがふと顔を上げると、こちらもちょうど手元の本から視線を上げた先生が、からかうような笑みをくれるのだ。


 ――どうしたい、ルカ君。もう降参かな。


 悔しいことに、ぼくと対戦するときの先生はたいてい読みかけの本を手にしていた。ぼくみたいな初心者の相手は、読書をしながらでも十分つとまるというわけだ。ああいうところ、先生は遠慮というか、容赦のない人だった。


 とんでもない、勝負はこれからだと口をとがらせるぼくに、先生は満足そうに目を細めてお茶のカップを掲げたものだ。それでこそわたしの弟子、と。


 知ってのとおり、先生があの不思議な力や幻術をぼくに教えてくれたことはなかったけれど、代わりにぼくはいろんなことを先生に教わった。チェスの駒の動かし方とか、ちょっと気取ったカードの切り方とか、雨の日の楽しい過ごし方まで。


 だから、ぼくは胸を張って先生の弟子を名乗ろうと思う。いつかダリルさんが励ましてくれたように。


「――もう一度、よく考えろ」


 雨の音に混じって、聞き覚えのある声がぼくの耳を打った。同時に、視界がぼんやりと開けてくる。


「まだ間に合う。引き返せる。だから」

「もう遅い」


 そこは見知らぬ部屋だった。壁際に立つぼくの前で、二人の紳士が向かい合って座っている。うち一方の、ぼくに背を向けている人の白い髪を見た瞬間、ぼくはあっと叫びそうになった。


「もう決めたんだ。きみは、わたしの意志を尊重してくれていると思っていたんだがね」


 先生、と。とっさに呼びかけたぼくの声は、どこにも届かなかった。


 あれは、そう、まるで夢を見ている時のような、とでも言えばいいのだろうか。白と黒のあわいに沈む、無彩色の夢の世界だ。ぼくはただその灰色の世界にたたずみ、目の前の光景を眺めていることしかできなかった。声もない、姿もない幽霊のように。


「都合のいい解釈をするな。おれがいつおまえの選択を肯定した?」

「だってきみ、最近はえらく大人しかったじゃないか。昔はそりゃあうるさかったのに」

「いくら言ってもおまえが聞く耳を持たないから、いい加減うんざりしていただけだ」

「沈黙は消極的な賛成だよ。弁論学の授業で習っただろう?」

「うるさい、黙れ」


 テーブルに手の平をたたきつけたのは、ぼくがよく知る赤毛の紳士だった。だけど、いつもは燃えるように鮮やかな髪の色も、その世界の中では陰鬱な灰にくすんでいた。


「……おれによこせ」


 うめくように、ダリルさんは言った。何かをこらえるように顔をゆがめて。


「これが最後だ。おれによこせ。約束する。戦争なんて絶対に起こさせない」



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